第十七話 「咲き誇るは命の尊厳」
太陽が西の水平線に沈み始めた頃、センとシトリはなだらかに広がる高原地帯に到着した。そこで彼らは予想だにしなかったものを見た。
それは高原一面に広がる、色とりどりの見事な花畑だった。
夕闇が世界の色彩を奪っていく今この時にあっても、彼らの目に映る世界は鮮やかに彩られていた。
「すごい……」
無数に咲き誇る花を見て、シトリは感嘆の声をもらした。
この花畑を世話している何者かがいるのだろう、ところどころに通り道が見える。しかしこの規模の花畑を維持するのは並大抵のことではないはずだ。ざっと見ただけでも小さな集落が丸ごとおさまりそうなほどに広い。誰がどうやってこの花畑をつくったのか、センには想像できなかった。
「よくもまあ、こんなところにこんな大層なものをつくったな……」
センは改めて花畑を見る。ユヅルハでもかなり標高の高い場所にあるためか、ここからは遠くに広がる海と、その先にある皇国の本州の姿を見下ろすことができた。本州の海沿いにはいくつもの街の明かりの姿が見えた。東西に広がる山々に沿うように街が広がっている。その明かりこそ、彼らの目的地である神都の明かりだった。
「ここも、聖域の中なのか?」
「わかりません。私もこんな場所があるなんて、思いもしませんでした」
「まさかとは思うが、ここは『彼の国』の入り口ってわけじゃないよな」
「だとしたら大変ですね。でも、実際の『彼の国』もこういう場所だったら素敵だと思います」
そうだな、とセンは草地の上に寝転がる。
「しかしなんだ、どこの誰が世話をしてるか知らないが、花だけじゃなくて果物とか野菜とかも育ててくれればよかったのに。花じゃ腹はふくれねえんだからさ」
「もう、よしてくださいよ。風情のない人ですね」
その時、センはこちらに近づいてくる足音を聞いた。体を起こし、そちらへ目を向ける。
見えたのは、一人の女性の姿だった。センより少し年上といったところか。短めの髪はシトリと同じように白く、くせ毛なのかふわりと広がりを見せている。皇国では珍しく舶来品の服を身に着けていて、鮮やかな赤色の異国の傘を持っていた。一見すれば、そういう趣味嗜好の貴族の令嬢に見えるだろう。
だがセンは、彼女から異様なまでの圧力を感じ、身構えた。
センはすぐに理解した。
現れたのは、人間でも神霊でも半神でもない。かつて対峙したことのない、異常な存在であると。
ただ、シトリは警戒する素振りを見せず、その女性の姿をじっと見ていた。
女性は二人の前で立ち止まり、センとシトリを交互に見て、目を閉じた。
「貴方たちの命のあり方は歪んでいる」
その声は月光に照らされた鈴の音のように美しく、寂しく、かすかな恐怖をはらんでいた。
「何者だ、お前」
女性は目を開き、センの顔を見すえる。
「私はこの場所の管理者。ここは聖域の内と外を隔てる境界。そして、私が育んでいる草花たちが暮らす場所」
「あの、勝手に入ってしまって、ごめんなさい。ここにこんな場所があるって知らなくて」
「貴方たちのことは山の神殿の半神たちから聞いている。だから謝罪はしなくていいし、警戒もしなくていい。今のところ、私は貴方たちに危害を加えるつもりはないから」
「含みのある言い方だな」
「たとえば、ここで生きる草花を傷つける者が現れたら、私はそれを滅ぼすために力を使うでしょう。その者の魂がかけらも残らないよう、徹底的に」
「あんたにとって、ここはよっぽど大切な場所なんだな」
「私はただ、命の尊厳を守りたいだけ」
その言葉に偽りはなく、その意思に悪意はなかった。
センもそれを感じとったらしく、警戒心を緩めた。
「あの、ここを管理されているということは、あなたが聖域の管理者ということですか?」
「そう思ってかまわないわ」
「私たちは先に進まなければいけません。もちろん、聖域を通った対価は支払います。私たちは何を支払えばよろしいですか?」
「対価……」
「常識の範囲で頼むぞ。心臓とか目玉とか言われても無理だからな」
「私が人間の常識を尊重する類のものだと思うのかしら」
「そうであってほしいとは思うな」
「安心なさい。対価は差し出せるものしか求めないわ。それが常識というものよ。もっとも、人間同士の場合はちがう時もあるでしょうけど」
管理者はシトリと向きあい、彼女の目をまっすぐに見る。
この時、シトリは管理者の瞳が自分と同じ色であることに初めて気づいた。
「ここの草花たちのために、精霊舞を捧げること。それが貴女に求める対価よ」
「え? それで、いいんですか?」
「そうよ。ところで貴女は精霊舞の役割を知っているかしら」
「ええと、儀式を行うために精霊たちの力を借りて自分の力を高める、ですよね」
「……やはり、忘れられてしまったのね」
「す、すみません。お気にさわりましたか?」
「いいえ。ただ、ユヅルハの神官の血を継ぐ貴女ならあるいは、と思っただけ。貴女には何も責任はないわ。忘れられてしまったのなら、それでもかまわない。私が求めているのは、貴女が彼らのために精霊舞を捧げてくれることなのだから」
シトリは事情をうまく理解できなかったが、管理者がこの対価を切実に求めていることはよくわかった。
「わかりました。あなたの思いにこたえられるよう、がんばります」
「ではさっそくお願いするわ。祝歌は私が歌いましょう。といっても、シキしかうまく歌うことはできないのだけど、かまわないかしら」
「大丈夫です。私もシキしか舞うことができませんから」
神官としては大丈夫じゃないな、とセンは心の中でつぶやいた。
「あと、神おろしはしないで。貴女自身の力で舞ってほしいの」
「いいんですか? 神おろしをしたほうがずっと効果は高くなりますよ」
「かまわないわ。そのかわり、貴女には彼らのために祈ってほしいの。彼らの命が強く、美しく、価値を失わないようにと」
「ええと、つまり、元気に育ちますようにって祈ればいいでしょうか?」
そうね、と管理者はうなずく。
「わかりました。精一杯がんばります」
シトリは祭器の槍を顕現し、高原に広がる花畑を見下ろして、集中するように深呼吸を繰り返す。
管理者はシトリの隣に立ち、わずかに顔を上げて、目を閉じた。
風が静かに通り過ぎ、冷たい空気の中に花の香りが漂う。
管理者は傘を地面にそっと置き、両手を胸に当て、祝歌を歌った。
その歌声に導かれるように、シトリは舞った。
精霊舞を捧げるシトリの姿を見て、センはこれまで感じたことのない感情を抱いた。それは純粋な感動だった。夕暮れに燃える空の下、一面に広がる花畑を前に、特異な存在が歌う祝歌に身をゆだねて精霊舞を捧げるその姿に、センは心を奪われていた。
管理者の歌声もセンの心を強くひきつけていた。その響きは美しく、歌声そのものが生命を宿しているかのように力強い。だからこそ、歌声に託された彼女の心が痛いほどに伝わって来た。それは、かなしみに満ちていた。なぜかはわからない。ただセンは理性と本能の両方で、彼女が心の奥底に抱く深いかなしみを歌声から感じていた。
生命を祝福する舞と、かなしみに満ちた美しい歌声。
太陽は、西の彼方へ沈んでいく。
シトリが精霊舞を終えた時、管理者は静かに涙を流していた。表情はまったく崩れず、呼吸は少しも乱れていない。ただ涙だけが流れていた。
「大丈夫ですか?」
シトリが声をかけると、管理者は指先で涙をぬぐった。
「対価は確かに受け取ったわ。貴女がここから先へ進むことを認めましょう。けれど、これからじきに夜になるから、今夜は私の家で休みなさい。明日の朝に出発しても、神都へ向かう船には間に合うから」
「いいんですか? ありがとうございます」
「では、行きましょうか」
管理者はシトリを連れて歩き出す。
「おいおい待て待て。俺を忘れるな」
「ああ、そういえばいたのね」
「お前、完全に忘れてたな」
「そもそも貴方はなぜ彼女と行動を共にしているのかしら」
「ただの成り行きだ」
「セン様はユヅルハで起きている異変を調査するためにいらっしゃった天士様です。今は私が奉星の大祭に出場できるよう、一緒に旅をしてくださっています」
管理者は指先を唇の下に当て、目を細める。
「いいでしょう。貴方もついて来なさい。対価のことは後で話しましょう」
「さっきも言ったが、常識の範囲で頼むぞ」
「それは貴方次第でしょうね」
ほんの一瞬だけ、管理者の顔に微かな笑みが浮かんだ。




