2-4 夕露
ザーッと前髪や耳に当たるシャワーの音に意識を委ねる。
体はあまり汚れてはおらず、事を終えた後の入浴はほとんど気持ちを落ち着かせるためのものだ。
身に付着した体液の大方は涙だ。
肌を重ね、人の温もりを思い出した高崎は「死にたくないなら生きろだなんて、生きる理由としてはあまりにも哀し過ぎるじゃないですか」と泣きじゃくった。
死にたがる彼の涙や鼻水を受け止めたのは私が初めて。親でも誰でもない、素性も知れぬ私に弱さを明かした――明かす他無かった、残酷な世界の日常。
そう実感した時、僅かに心が揺れた気がしたが、もう薄れ切ったそれには悦楽の歓びだったのか、悲観の悲しみだったのかすら確かめる事はできなかった。
結局、彼に足りなかったものはコミュニティだと思った。私との関係のような、僅かなものでも構わないのだ。
拠り所が幾つかあったのなら、一つ二つのそういった場で失敗したとか、調子悪いとか、興味が向かないとか、まぁ潰れても別の場で取り戻せるから本人が潰れにくい。
人付き合いが苦手ならば、似たようなものだが趣味を増やせばいい。就活で趣味を尋ねられる最たる理由はそれだ。どれだけ仕事で感じたストレスを発散できる場所を確保できているか。
安らかに、浅い睡眠へと意識を落としている彼を眺めながら手早く身なりを整える。三大欲求すらも満たされ、人として当たり前の幸せを思い出した彼にもはや私は不要だと、バッグを手に取りドアを目指す。
「夢乃さん……」
「起きましたか」
「行くんですか?」
「えぇ。もはや確認するまでもないでしょう」
振り向かず、断言する。
約束の時間は不要であり、私と向き合い自身を確かめる必要も高崎降矢という存在には不要だ。
「もしも」
呟く。彼に届くか怪しい声音で。
「無駄だと思うのであれば、成すべき事全てが無為に終わると思うのならば。
失う物など何もないと、動かすだけで疲弊する心と体を動かして、誰かに助けを求めてください」
自殺幇助人に反する言動。
けれどきっと声は届いていないはず、きっと今ここに居る自分は約束の時間を超えて幇助人ではないはず。
「家族、先生、カウンセラー。
心療内科や精神科を頼るのもいいですし、いじめや精神的障害に苦しむ人を助けるために存在する組織も多数あります。
どこかにきっと居るはずです、一人ぐらいあなたの味方をしてくれる人間が。その人を頼り、何時か克服した暁には、あなたが誰かの助けになる事もまた一つの道筋でしょう」
助けてくれと本気で叫んだのなら、誰か一人ぐらいはどれだけ冷たい存在であろうとも響く何かが居るはずだ。
「挫折を知らない人間は挑戦を知らない。苦しみを知らない人間は同情を知らない。失敗を知らない人間は成功の意義を知らない。
あなたは知っている人です。あなたは人の心を、知っている」
故に、未来はある。彼には生きる理由を見つけられる。
「私はあなたを助力する存在ではあるものの、助けたり救済する存在では決してありません。
もしも、もしもまた私が必要ならば、何時かまたどこかで会いましょう。今度こそ、最期に」
振り向くとベッドの上半裸の彼が歯を食いしばり、絶対に目から雫を零さぬとこちらを見上げていた。
「夢乃さん!」
「はい」
「俺、頑張りますから。まだやっていない事は沢山あって、心も体も動くから。
少しずつでいいんで試してみます、まだ生きたいって今日思えたから。だから――!」
呑み込む。
不幸も悲しみも、本当は言いたい事全て。
「だから、もう二度と俺があなたに会わない事を願っていてください。
夢乃在処なんて必要無いって、俺にとっての夢は此処じゃなくなるように」
「ならば、どうか私の事は忘れてください。
日が昇り終えた後の朝霧のように、寒空の下漏れた白い吐息のように、昼には忘れ去られる悪夢のように」
全ては何時か過ぎ去りし物。
「私はしがない犯罪者です。
己の欲望を最優先とする快楽主義者であり、全てに意味など感じていない虚無主義……いえ、それすら、それらですらないただの、虚ろな人の形をした器です。
死から逃れられたのであれば、もう二度と私と関わろうとは思わずに記憶の端へと追いやり日常へ帰るのが不幸から逃れる第一歩目です」
「忘れてやるものか! 絶対、忘れませんからっ……初めに手を伸ばしてくれたあなたという存在が居たことをずっとずっと胸の奥にしまっておくからっ……!」
忘れてしまえばいい。私はどうせ長い事覚えていないだろうし。
そうした言葉と感情を飲み込み、少しだけ自然に上がった口角をどこか恥ずかしくて見られないよう、もう二度と振り向かずに私は部屋を後にする。悲鳴のような、産声のような嗚咽がしばらく耳から離れないまま。
「……頑張って」
ドアが閉まるその瞬間、普段絶対に言わないような呟いた在り得ない言葉。
あくまで幇助人という立場、頑張れという言葉の重みを理解して……私はあなたの隣で共に泣く事は無い、そう宣言するために。




