4-5 少女の語り
佐藤京一が息絶えた後、夢乃は叫び声に反応して辺りが騒がしくなっていない事を確認してから当初の予定通りの処理を済ませてから帰路を急いだ。
終電を過ぎ、僅かながらも浴びた返り血をどうにか処理しつつ一泊終えて帰る事の出来た拠点は相棒の家。
「酷い臭い」
玄関で手間取っていると珍しく家主が出てきて、呆れたように顔を緩ませた。
「……消せてない?」
「何の臭いの話しているの。
びしょ濡れで、他に臭う要素があると思う?」
確かに、と夢乃は内心同意した。むしろあるかも知れない死臭や血の臭いが、何故ただの人間に嗅ぎ取られるかも知れないとそう思ったのか自問がこみ上げる。
昼前に雨に降られ、コンビニへと寄る事も出来たのだが、この家が近かったため甘えた結果がこの有様だ。天気予報すら想定していない天候の荒れ具合までは予測できなかったため仕方ない部分も多いのだが。
「はい、バスタオル」
「ん」
何のために部屋から出迎えたのだろうと思ったが、どうやら雨に濡れた事を想定してタオルを持って来てくれたらしい。
不意を打たれ、咄嗟に出て来なかった礼の言葉を機を逃し飲み込みながら、ようやく廊下をびしょ濡れにせずに済む程度の処理を終えて玄関に上がる事ができた。
「そのままお風呂にね」
「わかっている」
「ゆっくり温まってきて」
「シャワーだけでいい……荷物、これだけ先に渡しておく。いつも通り処理しておいて」
少女が受け取ったのはビニール袋に詰められた帽子、ただそれだけ。
極力頭髪が落ちぬようまとめる意図を持った、確かな凶器の一つ。
「おかえり」
些か、ただの殺人鬼に向けられるには優し過ぎる、そんな声音で。
「お風呂、ありがとう。
……なに、見ているの?」
「なにって……空? 雨?」
家の中に逃げ込んだ時とは嘘のようにシトシトとおしとやかに雨振る様子の空を、珍しく遮光カーテンどころか窓すらも開けて仰いでいる少女に夢乃は思わず問いかけた。
「湿気で色々と痛まない?」
「痛むから、少しだけ、ね」
天蓋付きのベッドに精密機器であるパソコン群。散らかっている漫画、ライトノベルといった本に時折混じるハードカバーの用途不明瞭な書物。
「雨、あめ、ねぇ……」
まるで舌の中で飴玉でも転がして味を楽しんでいるように、ゆっくりとその反芻する相棒。
唄うように、嗤うように、追悼するように、酔っているように。
「わたし、雨好きなんだ。
シトシトと降り続けて、じめっとした空気がまるで服を重くするみたいに張り付く感じ。
そして遅れて気づくの、むわっとした湿気の臭いに。建物とか地面に浸み込んだ臭いが水滴でこみ上げてきて、初めに気づいたのはそれのはずなのに。おかしいよね。そう、例えば……」
「誰かが泣いているみたい?」
咄嗟に出て来た言葉に夢乃自身に、珍しく少女もオバケでも見たように目を丸くして。
「いや……うん、そうなのかも。言い得て妙だ」
そう、夢乃の感傷/変化を呑み込んだ。
「誰かが泣いているんだ。悲しくて、苦しくて、飲み切れなかった感情が目から溢れちゃう。
それが当たり前。何時もどこかで誰かが泣いていて、その近くにいる人の殆どは……気づかないフリをするんだ。
そう、雨がこんなにも悲しいって香りで叫んでいるようにね」
「そう言われると、私も雨はどちらかというと好きなほう。濡れるのは煩わしいけれど」
未だ乾ききっていない髪の毛を、少しでも短くしようかとタオルで覆いながら夢乃は憂う。
「フィクションだと不吉な予兆とか、暗い気持ちを加速させる演出に使われるんだけれどね。
実際常日頃から体験している事を思い返すと、まぁ悪くないよね。洗濯物の扱いには困るけどさ」
どうでもよい感想で締めくくり、これで切り上げようかと少女は一瞬躊躇するが……先程見せた夢乃の感傷を思い出し、繋げる。
「……在処、フィクションは、物語はおすすめだよ。きっと在処が求めているものがたくさんある。飽きない、とかさ」
「何度か試しているのだけれど、どうにも私には相性が悪いみたい」
「試しているならもうわたしから言う事は何も無いかな。
……ふふ、そうだね。まるで嘘みたいな日常しているものね、在処は」
「私達、じゃなくて?」
「そう。そうだった。本当に」
乾ききらない雨水のような表情で少女は笑う。
「そういえば、今回の仕事はどうだった?」
「えっと……」
要点を思い返しながら夢乃は端的に告げる。
依頼人は過去に最高の時期を味わっていたため、それが基準値として君臨し続けていたこと。
死ぬ瀬戸際、これから全て二番以下でも構わないという決意を抱いたこと。
――自分が祈り、何を見つけ、涙零してしまった事はひたむきに隠しながら。
「それは……」
少女は重ねる。
「それは、本当に寂しい悲劇だ」
言葉を、他の何かを。
「そこまで?」
「うん。
こんな風に、幸福は相対的な存在でしかあり得ない。誰かにとっての幸福が、誰かにとっての不幸であるように。
その人の中で完結してしまっているのは……まだいいほう」
「というと」
「未だ紛争が起きている地域の青年が、今日は死なずに済んだ、満腹になるまでご飯を食べられたと喜んでいる中で、日本にいる青年はサークル活動が上手くいかない、就活が不安だと嘆いている。
別に悪いことでは無いんだ。世界中の中央値を見続けろなんて無茶も言わないし、周りと比較して幸せだの辛いだのなんて感じることが悪いわけでも無い。人の摂理なのだから。
こういった画像がわかりやすいかな」
そう言って少女は携帯電話を素早く操作し、ネット上にアップされている画像を見つけ出す。
そこには五本の矢が背に刺さっている親と思しき狼が、一本の矢により絶命した小さな狼の死を嘆いている。
「結局、こういうことなんだ。
生まれ育ち……大まかに言わず細分化すると、出自、育ち、環境、家庭、人生観、世界観、哲学、思想、信条、信念、妄執、その人を構成するありとあらゆる要素が存在して、それに干渉する幸福とも不幸とも知れない干渉する事象、この二つが存在してしまえばもう比較対象の他者なんて関係無い、全ては相対的なものに成り得てしまう」
「何かを感じる人間と、何かを感じさせる存在が出会えば、全てはその時点で相対的なものになる。
幸福も不幸も、事象の本当の、絶対的な価値なんて測れないまま」
確かに摂理だと夢乃は改めた。
避けようがないのだ。人が人であるという意識を持っているだけで、本当の価値は個々が味わう相対的な物になる。そうできている。
「なら、どんな環境でも不幸になる層と、幸福になる層は分かれるってこと?」
「極端な話ではそうだと思う。
当然生活水準が安定している国とそうじゃない場所では明確に差が生まれるけれど、どんなに恵まれている環境でも不幸になる人間は存在するし、逆にどれほど過酷な環境でも明るく生きていける人間は存在する」
「結局出自や育ち、なのかしら」
「そうでもないよ。
幸せになるために、まず一番効果的なのは自分は幸福だと思いこむこと。
これはとても効果的だよ? 百人中九十九人が不幸だって思うような人生でも、本人が幸せだと思っているのなら何もかもが解決してしまう。
……結構おバ……頭が緩いとか、楽天家といった要素があるから万人に取れる方法では無いけど。
次は認識範囲の制御。
自分より満ち足りている層を認識せず、自分より不足しているだろう層を認識し続ける。
ネットの巡回範囲や、見るニュースを調整するのが具体的かな。嫌な情報ばかり得ていると憂鬱になったり、人格が捻くれる可能性もあるのだけれど。
かなり悪いように聞こえるけど、ボランティア活動なんかも効果的だと思う。なんて言ったって自分より不幸な存在に助力し、認識、感謝され、救った実感が得られる。
あとはメインコミュニティのメンバーの中で上位に居るよう調整するだとか、逆に自分よりも一回り二回り輝いている人の中に身を置く事で自分も幸せなんだと錯覚したり、何かしらのおこぼれに出会えるかもね」
無茶苦茶な道理だ。
一般的に幸せになれる、そう言われている生き様では語られない理屈。
でも語られている中でも、このような側面は必ず持っていて。一理以上は間違いなく通るのが現実というやつだ。
「そこまで楽観的にはなれなくて、理詰めで人情に反するような方針も取れなくて、不幸だと嘆きながら、幸せになりたいと叫ぶのなら」
諦めたように、少女は寂しく笑うのだ。
「どうすればいいんだろうね」
「求めたものを得続けたのなら貪欲に次へ次へと果てまで辿り着き、毎日が日曜日だったのなら、今度は好きなことにすら慣れ飽き楽しめなくなる」
正の可能性が尽きないように、負の可能性も想像し得るだけ尽きない。
きっと正しい一つの答えは無い問題。その人がこれでいい。そう言えるものさえあれば、もう何も他には要らないのだ。その点佐藤は大切な物に確かに気づいた、少しばかり乗車が遅れてしまったのだけれど。
「相棒は幸せ?」
何時か投げかけた充実しているかという問いと似たもの。
けれど返って来た言葉は以前とは明確に違っていて。
「見て見て、この髪色を。枯れ切っているでしょ?」
夢乃にはそれが比喩表現なのだと否応にも理解させられた。
枯れ木に液体をやったのなら、それがどれほど澱んでいても恵みと喜ぶのか。
それとも既に繁栄を終えたあとと言いたいのか。
或いは、既に水を得てもどうにもならない次元に至っているのか。
言葉が思いつかず、だんまりを決めた夢乃に対して少女は開けたカーテンを元に戻しながら小さな声で囁く。
「……何時か」
夢乃はそれを聞き届けながらも、小型冷蔵庫から勝手に飲み物を取り出していつもの定位置へと身を収める。
「何時か、こんな嘘みたいな日常が終わりを告げて、向こう側から目を覚ませってベルを鳴らしながら迫って来る何かがいるかも知れない」
「それは……」
あり得ない、そう夢乃は断ずる事は出来ない。
むしろ、今まで危機的な状況に陥らなかったことが少ない方が奇跡のようなものだ。
細心の注意を払い行っている偽装工作は完璧ではない、死体が存在している以上、どうしても尻尾は常に狙われているようなものだ。
少女の手を借りている事もそう。どれだけ彼女が頑張っていようとも、依頼人が自殺前に誰かと接触していた様子や、ネット上に残ってしまうデータは必ず痕跡を残す。
「わたしは刑罰を、犯罪を行うコストとして認識している」
「商品に対する金銭を払うように、求められれば渡して必然の物だと?」
「そう。
かなり甘えた解釈だけれど、求められさえしなければ猶予期間や支払いを要求されていない物と見なしている」
だから、司法の手がノックをするようであれば、甘んじて受けるべき処罰を受けるものだと。
犯罪行為に対する矜持、司法制度に対する姿勢を少女は見せた。
決して相棒に対し強要するものではないし、一人だけ捕まったとしても率先し夢乃を差し出す事もしないと付け足して。
「私は、抗おうと思っている」
対する夢乃の返歌。
そもそも犯罪行為を行う動機は死ぬ理由を見つけるため。
矛盾しているが夢乃が生きる上で一番に優先されるべき願いはそれであり、理由を探せぬよう身を拘束されたり、自らの意思に関せず死を齎す存在は、死刑であったり、事故や病死であろうと避けて当然だった。
「けれど現実ってやつはこれ以上悠長に待ってくれやしないかも知れない」
「重ねて来た物が重すぎる」
「何時重さに耐えかねて、嘘みたいな時間が潰れるかもわからない」
「一ヶ月後かも知れないし、明日かも知れない。
一年持つかも知れないし……一呼吸の後にはもう潰れて迫って来るかも知れない」
「だから?」
「だから……」
一瞬の硬直。
カーテンを閉め切り椅子に座ろうとしている少女の動きと、既に椅子へ座っていてそんな様子を見ていた夢乃の視線が交わる。
「私は、来たるその日まで、精一杯抗おうと思う。
自分の人生を生きて、自分で自分の死因を見出す」
「――ック」
少女の、堪えようとした激情。
「くっ……あはっあはは――!」
けれど栓は飛び、少女の体もまた体重を押し付けた椅子に運ばれるまま部屋を移動し、壁へと頭をぶつけた。
それでもまだ、笑い声は止まなかった。
「……そんなに、可笑しい?」
同じ穴の狢のくせにと、怒気を隠そうともせず夢乃は目を細める。
「可笑しい、可笑しいよっ!?」
その怒りを正しく認識してなお、少女のタガは戻らない。
「それじゃ、まるで、常命に抗おうとする一般人そのものじゃないか」
いずれ来たる死に備えて、人が得た生に意味を見出そうとするように。
夢乃は同じく、避けられぬ終わりが来るのだとしたら、それまでに意味を見出そうとして。
とてもじゃないが一般人と呼べない夢乃が、死ぬために生を抗って、これの何が可笑しくないと言うのだろうか。
「あぁ……あぁ、これは可笑しい。うん、何もかもが、可笑しいな」
「でしょ?」
先程まで抱えていた怒りはすっかり忘れ、少女が一体何をそんなに笑っていたのかと理解した夢乃も釣られて口角を上げる。
気づけば、少しずつ衰えて来た少女の笑いに追いつくように夢乃自身も笑ってしまっていた。
「在処がそんな風に笑うところ初めて見た」
落ち着いた頃合いに相棒はぼそりと呟く。
「ねぇ、これからもずっとそうやって笑ってよ」
それに対する答えは決まっている。
「そんなの無理だし、出来たとしても嫌」
隙間すらなく閉まり切った窓。
静かに降り続けていつ止むのか想像もつかない外の天気は、昼間にも関わらずとても室内を暗く見せた。まるで唯一輝いている照明など無い物の様に。




