4-4 追認
「落ち着きましたか?」
「……はい。ありがとうございます」
私が泣き始めて、そして泣き終えるまで佐藤は一定の距離を保って待ち続けてくれた。
慰めるわけでもなく、疎むわけでもなく、視線すらきっと向けておらずただ嗚咽が収まるのを聞いてくれていた。その距離感がどこか嬉しかった。
「それは良かった」
礼に対する返答はその短い言葉に柔らかな微笑みだけ。年の功には叶わない、そう思わされた。
「けれど、何故涙が出てしまったのか自分にはわからないのです」
「哀しかったか嬉しかったのではないのですか? 人は感動する時、涙を零すのですから」
妥当な返答に私はゆっくりとかぶりを振る。
「当時の感情を思い返したり、今ある程度冷静になった頭で分析してみても"どちらでもない"これが適切な解だと判断しました」
「それでは」
ハッキリとしない答えに居心地の悪さを覚え、視線を僅かに逸らした私に倣ってから佐藤は暗くなり始めた空を仰ぐ。
「それでは、産声だったのかも知れませんね」
「産声?」
「夢乃さんは赤子が胎か這い出た時、どうして鳴き声を上げるか知っていますか?」
呼吸を行うため。これは医学的見地から出る言葉であり、あまりにも情の薄い答えだと思う。
初めての呼吸にしてみても、泣き叫ぶという結果が生み出される他の体の構造は幾らでも選択肢はあったはずだ。
刺激に対し堪えかねた。母体の中とは比べて外界は五感を刺激し過ぎる、そういった理屈。
眩しい、寒い、臭い、苦しい、重い。あまりにも多すぎる情報に対しての純粋な生理反応……これは、先程の私に最も近いか。
あとはこの世に生まれた絶望に嘆いた。これは、斜に構えた悲観主義者の論。
もう戻れない至極の残滓で身を穢し、帰りたいこんな世界では生きてはいけないと泣き叫ぶところを、母が、そっと、抱きしめるのだ。それに対し赤子は泣き叫ぶのを止める、あぁこれでもう逃げられないのだ、と。
「咄嗟には出て来ないですね」
血を忘れたなら答えられる。獣のように吠えるのならば答えられる。理屈に溺れたのなら答えられる。
「きっと、そういうものなのでしょう」
「そうかもしれません」
決定的に判っている事と言えば、先程の産声は何かの誕生を招くものではないという事ぐらいか。ただそれは、口に出すだけ詮無き事。
「そろそろ終わりに向けて動かなければなりません。
ただ今回は私事情で時間を食ったため、少し後ろに約束をずらしても構いませんが」
「不要です」
その返答は、既に答えを一つに決めているという事。
「あなたは僕に大切な物を思い出させてくれた。一番に大切だった物を思い出させてくれた。
それ以降の幸福は全て二番以下で、これからも不幸と満たされきれない苦痛は止まない。
人生、生きていれば良いことがある。だから死ぬな……なんて言葉は嫌な所から目を背けて他者に割を食わせている人間の詭弁でしかない。
不幸から目を逸らすのは幸福への近道なのは間違い無いだろうけれど、目を逸らしている自覚があって初めて成立する話。僕には気づかないフリをし続けるのはもう無理、なんです。今朝までは迷っていたけれど、本当に」
「その言葉を約束と見なして構いませんか?」
「はい」
「受諾しました――」
これにて契約は果たされる。湧き出た呪いは他者の手によって自らを貪り喰らう。
佐藤が望んだ終の地は自宅だった。
最期に安寧を求めるのを甘えと断ずるのは容易くて、私はそれを決して成してはならぬ立ち位置に居るものだと自覚している。
妻子が行っているという旅行のチケットのコピーを確認して、一軒家の中から物音も各種メーターが回っていないのも確認して、佐藤を少し離れた位置で待機させ単身一人靴を変え、髪を帽子にまとめ、雨合羽に手袋を着用してから玄関のドアを内からチェーンまでかけて家の中が安全であることを確認する。
「どうぞ」
目立たぬ位置で待機していた佐藤に声をかけて、私が一人土足でフローリングの床を踏んでいるのを確認し咄嗟に嫌悪感を見せたが互いにそれは無かった事にした。
「これからの手順を確認します」
第一に佐藤の殺害。
家に元々あった出刃包丁を凶器に使用し、空き巣に入った何者かと鉢合わせして殺害されたものだと誤認させる。
死への抵抗が予想されるため手足を拘束するが、これは絶命を確認してから解く。絞痕が確認された場合、空き巣と鉢合わせた不運とは矛盾が生じるのだが、私の安全と、真に隠すべき己の正体や同意他殺という事実さえ隠せれば他は些事。
第二に家漁り。
誤認を誘う目的に、この時あらかじめ確認しておいた後金の回収を行う。
最後に庭にある大窓の破壊。
うっかり閉め忘れた侵入経路よりも、具体的な道筋を作る事で思考を誘導する。
これも窓の作りをあらかじめ写真で送って貰っており、必要な道具は持ち込んでいる。気をつけるべきは時系列程度か。もし返り血が窓を破壊する前に付着している等という事態が発生すれば訝しげに思われる可能性が上がる。
「……目は隠しますか?」
手足を家具へと縛り終え、口枷になるタオルを持ちながら問いかける。
対する佐藤は若干恐怖に震えてはいるものの、事前に服用していた本人の睡眠薬とアルコールが効いているのか、どこか現実ではないどこかへと焦点を合わせているような視線だった。
「隠さないでください。見えないほうが、きっと恐ろしい」
「わかりました。
口を封じます。厳しいとは思いますが抵抗はしないでください、暴れなければ正確に心臓を突き立てて一瞬で意識は飛びます」
巻きつけられたタオルを強く噛み、コクリと頷くその様子に私は包丁を握る。
間髪入れず突き刺した、
先端は確かに、
――逸らされた上体により右胸へと突き刺さった。
「――っ!」
余計に苦しむだけで、訪れる死は変わらないというのにこれは生き物の性か。
抜きだした包丁をもう一度握り直し、片手でシャツの胸元を掴み上げ体を固定するが、暴れる体に答えてか拘束が左手だけ緩んだ。
「……フグッ!!」
佐藤は何かを叫ぼうとしたが口枷がそれを邪魔し、もう一度振りかぶられた刃を逸らすために胸から湧き出る血液を散らしながら左腕が壁となり致命傷に至れない。
人の死は何時もこうだ。不確定要素が少ない方が珍しい。
なるべく取りたくはない案だったが背後に回り、左腕を拘束しながら右手で逆手に持った包丁で胸よりも確実性の増す首を狙う。
服の繊維が付着する量も違うし、行きずりの犯行にしては咄嗟に首を狙う事はおかしいので避けたかったが、こちらのほうが力の入れやすさも拘束し首を狙う確実性も変わって来る。
「夢乃、さん――っ!」
縺れ合う中、気が回らず緩んだタオルの隙間から紡がれる言葉。
息も絶え絶えな中、悲鳴でも、助けを呼ぶ声でもなく、口に出したのは私の名前。
「辞めませんっ!」
先んじて言葉を否定する。
今からでも辞めてくれと、通報はしない、自殺は思いとどまった、そんな言葉を打ち砕く。
何度も、そう何度も聞いて来た言葉。約束の時間の後に生きたいと願い叛してきた自殺志願者達の言葉。
「ただ死という存在を生々しく突きつけられただけで、これからも生きて活き続ける。そんなのはあなたには無理だ!」
佐藤が死を選ぶかはほとんど確率の問題なのだと私は今この瞬間も思っている。
最後の判断のタイミングでは死へと確率の波が揺れてしまい、痛みも相まって今この瞬間では生へと確率の波が揺れただけ。
少し手段や条件が違えたのら、十分に逆の結果が生まれる事もあっただろう。依頼主は確かに死を渇望していたが、それと同等に愛と責任感を抱いていた。その重さを理解しているからこそ、一度肉へと沈んだ刃を確かな物にしている。
「それでも!」
「それだからこそっ! 私という幇助者がここに居る!
後日あの時死んでおけばよかった、そう惰性で生きぬように境界を分かつ存在として、私がっ!!」
もう一度突き刺した先端は頭骨に弾かれる。
僅かに避けた皮膚からは噴水のように血が吹き出す。まるで、生きたいと血液が叫んでいるように。
「それでも思い出したんですっ!
妻と出会ってから、息子が生まれてから確かに幸福があったことを!
今日思い出した輝かしき青春はもう要らない、これから永劫二番以下の幸福に溢れた人生で構わない!!」
その誉れある妥協を聞き届け、私は空気を出し切り力の抜けたその体を今度こそ確かに貫いた。
抜かれた刃先から噴水のように出る血液に避けようのない死と、新たな痛みさえ感じる間もないだろう意識の消失を確信する。
「どうか恨んでください」
今までの抵抗が嘘のように緩やかに崩れゆく体に独り言ちる。
「あなたが定めた一番は間違いじゃなかった、間際でようやく認めた二番以下も間違いじゃなかった。
ただ一つ間違ったとすれば、それは私という存在だけ。だからせめて、自分の人生だけは恨まないで」
届いているかも怪しい言葉に――責めるなど出来るわけないじゃないですか、とそんな男の声が聞こえた気がしたのは私の願望だったのか否か。




