4-2 冬の移ろい
「夢乃さん」
「……はい?」
佐藤京一が鬱になった具体的な理由に、それからの苦悶の日々、明確に自死を意識した動機を聞き流していると名を呼ばれて薄れていた意識が濃くなる。
「あなたは多くの人の死に携わって来たのですよね?」
「いえ……いや、そうですね」
咄嗟に僅かにでも情報を秘匿しようとし、隠す意味を見出せずに素直に伝えた。
具体的な人数はあまり覚えていないが、精々百に近い付近で前後しているだけだろう。
「つらくは無いのですか?」
「苦痛は、無いですね」
「それでは……」
言い淀んだ先を汲み取る。
「強いて言うなら趣味、でしょうか」
「……」
「誤解されるのはよくわかりますが、少々個人的事情が込み入っていまして」
ここまで来て秘匿するのはそれはそれで悪手。元々調子が悪く疑心を招いている現状を加速させてしまう。
だからと言って全て明らかにするのは、まるで己の弱点を曝すような行為で躊躇いがある。
どうにか遠回しに真相に触れる事なく、かつ偽りで取り繕っている体を見せない物言いはないのだろうか。
「死を意識し続けたいと言いますか……」
「忘れたくない?」
「えぇ」
曖昧に頷くと佐藤は少し目元を緩めどこか喜びや共感と言った感情を示した。
「メメント・モリ、ですか」
「ん」
等しく死が訪れるのだから、今ある生を楽しむべし。
死を意識する事はとても似通っていながらも、その本質は私とは真逆を向いている。
「まぁ、そうですね。そこまで深く意識していたわけではないのですが」
ただ勝手にそう誤解してくれて、警戒心を解いてくれるのならばこの程度の誰も傷つかぬ些細な嘘は軽い物だ。
「他にもカルペ・ディエムと呼ばれる事もありますよね。僕はこちらの響きの方が好きなのですが」
「カルペ・ディエム、ですか。すみません、私は知らない単語ですね」
「言い回しが異なる、と言った程度ですよ。その日を摘め、そう訳される事が多いですね」
その日を摘め。
そう聞いた途端この身を襲ったのは強烈な違和感。何か、根本的に違えているのではないかという懸念。
「……佐藤さんはとても知識豊かな方なんですね。もしかして元信者だったりしますか」
「信者? いえ、僕はただ鬱になってから何か解決策はないかと少々調べただけで。
ただ何かを信仰していたら、今こうして夢乃さんと顔を合わせて居る事もなかったかも知れませんね。神でもなんでもない、自分が本当に信ずる事の出来る何かがあれば」
宗教は人を救う。
この世の摂理、避けようのない不条理、不運な事故。
所謂どうにもならない事を信仰は試練と定義する。乗り越えられるために与えたもうたと、そしてその先には普段の幸福ある日常が待っていると。
「日本は無神論者が多いですし」
クリスマスから一週間過ぎれば初詣で仏教徒に鞍替えする……というのはよく言われる皮肉だ。
まぁそこまで悪い文化ではない。宗教含め、他国の様々なイベントを取り入れた結果、今のような都合の良い文化や民衆意識が形成されただけだ。
「まぁ信仰を持っていても、自殺者が多い国もありますけどね」
物騒な単語を不意に口にしたと自覚してか、歩く街並みを慌てて見回す佐藤。人影は少なく、喧騒はもちろん無いのだが誰もこちらを気にしている様子は無い。誰も他者の不幸には目を向けようとしない。
「仏教徒が主の国が多いんでしたっけ」
「僕もそうだと認識しています。仏教徒は他の宗教と比べてストイックですからね。敷居が高いのでしょう」
喜捨の精神。余分な存在を捨てる事で、本当に大切な物が見つかるものという教え。確かに率先し幸福を得て、他者にもそれを分け与えようとする他宗教よりも小さいようで大きな差があるのだろう。
ただ、それ以上に、何かを信ずる人々と、何も信ずるものが無い人々には雲泥の差が生まれる。
信仰に限らず、何か本人が信じ生きる事が出来れば問題ない。けれどそもそも信じる物の選択肢の中から信仰を除外している多くのこの国の人々はある種の悲劇だ。
戦争からの様々な国の介入により政から意義が薄れ、カルト宗教の悪行により人々からは無意識に忌避される。
受け入れようのない苦難は信仰という受け皿を無くし、自死を罪と戒め抑制する教義も失われ。そうして自殺者が多い国に成り果てた、というのはただの無為な憶測。
「夢乃さんには何か信じる物はありますか?」
夢乃在処に信ずるモノなど何も無い。
そう吐露しようとも詮無きこと。何のためにこの名を名乗っているかなど、私以外全ての人間には、いや私にすらもはや不要なのかもしれない。
「私は……自分でしょうか」
「合理的ですね」
「夢が無いと素直におっしゃっても怒りませんよ」
「いえいえ。この命題の究極的な答えは必ずそこに行き着きますし」
自分が無ければ世界は存在し得ない、か。
当然人一人居なくても世界など回り続けるのだが、自分の世界は自分が居なければ成り立たない。そう、難しいものではない。
……チリ、と胸の奥が少し焦げた気がした。何かに辿り着きそうで。
「佐藤さんはどうですか?」
尋ねたという事は尋ねられたいケースが多い。
再び覚束なくなりそうな足元を踏みしめるためにそう返す。
「私は」
迷わずに何かが出て来そうだった。
「……私は、なんでしょうか」
迷い、いや、口に出て来る途中にまるで見失ってしまったかのように呆然と。そう。
「祈ってください」
「……?」
「目を閉じて、ただ何かを想うのです。きっと本当に大切な物は、その暗闇からでも見出せる」
神妙な様子で頷き、二人して邪魔にならないように道の端へと移動する。
躊躇うようにゆっくりと目を閉じて、何かに祈り始める佐藤。
何故こんなことをしているかを忘れ、自分がどこに居るかを忘れ、どこまで忘れ切れたのだろうか、数分そのまま経過した後ゆっくりと瞼を開けた。
「あぁ……」
忘却の中。
「思い、出した」
忘れていたものを。
「丁度こんな寒い時期」
頬に伝う一筋。
そんなものなど気づいていないように片手を空へと伸ばし、まるで過去に降る雪でも掬うように。
「皆で過ごした青春があったんです。
今でも言える。あの輝いていた日々は、人生で最高だった。そしてこれからも」
「奥さんはその中に?」
「いいえ」
「……友人は」
「連絡を取ろうと思えば取れますが、疎遠です」
あぁ……と二人でため息を漏らす。判ってしまったのだ。
鬱病の基盤は、自死願望の根底は、幸福の基準は。
「思い出に勝てるわけがないじゃないですか。そう、思いませんか?」
「そう、でしょうね。過ぎてしまった出来事に、その時最高だと定めたそれに、後から訪れる何もかもは勝てるはずが無い」
視線が交わり、表情が歪むよう口角を上げる彼。
その姿はまるで何時かどこかで上げた慟哭の、残響みたいだった。
「教えてくれてありがとうございます。
何故僕が死にたかったのか、ようやく納得のいく答えに出会えた気がします」
「いえ、私はただ手伝っただけです。十分、一人で気づかれる可能性はありました」
そう、ただ認めてしまえば良かったのだ。それで全てが終わり。
全て、あの日からの延長線上。エピローグのそのあと。自ら絶対的に定められた最高に辿り着けず、相対的な幸福や絶望の中を漂う残滓。
ゴールデンタイムはもう来ない。今持っている家庭は本体のおまけのようなもの。そう、認めてしまえば、全てが終わるから。終わっていたと気づくから。
「今ここに居る僕は何なんだ。見えている、生きているこの、世界は」
「全て灰塵ですよ」
青春の燃えた跡。
あるいは燐光。かつての光で今も輝いていると錯覚するもの。
「あぁ」
心底。
「疲れたなぁ」
長い、無窮の闇路を歩いて来たように、佐藤京一はそうかぶりを振った。




