4-1 佐藤京一
覚醒、目覚めるという行為はとても苦しい。
真っ先に自覚する感覚は暗闇に埋もれていた事と、呼吸を忘れていたような息苦しさ。
もっともそれは起きてからも大差は無く、常に皮膜のような物が体や心を覆っている感覚。世界が遠い、感覚が、反応が、鈍い。
表情を創っていて思う。本当の私はどこに居るのだろうと。
人混みの中を掻き分けながら思う。どうして溺れながら足掻いているのかと。
悪いニュースや、他人の悪行。そして自分が今まで犯して来た比類なき業を思い出して自覚するのだ。
何故私はまだ生きているの?
死ぬために必要な過程の量と、生きるまでに必要な過程の量はあまりにも違い過ぎる。
生きるというのは本体や環境を健全に向けた上で、それを保ち続けなければならない。
死ぬというのは気づけばそういう領域に至っていて、最後に自殺という手段を取るだけで終い。
私は死ぬために自殺幇助人という道を選んで、今もまだ多くの人々の死を超えながらも生きている、生き延びてしまってる。
いや、死んでいないだけというのが正鵠を射る。
あぁ、まるで、水中に居るみたいだ。
駅の臭気に堪えながら外へ出て見れば、地面は投げ捨てられたゴミとこびりつき黒ずんだガムの跡。
嫌気が差して空を見上げれば、張り巡らされた電線に排気ガスにより澱んだ鈍色の雲。
昼間なのにシャッターの降りた商店街を淡々と歩き、ふと目に留まった展示用のテレビからは今日の被害者だとか、政で楽しそうに乱痴気騒ぎを繰り広げている大人達。
ベッドタウンの機能しか期待されていない地方には、居住地の合間に福祉施設が立ち並び、その老人達を補助するのも老いた人々が主という喜劇が詰まっている。
私は思う。
こんな世界、生きる意味などありはしない、と。
わかっている。
わかっているのだ。
今のは意図的に悪い箇所へと意識を向けただけ。世の中にはどうしようもない事は多々あるが、それに並ぶほど幸福、そう呼べるような出来事も多々ある。
だからこそ。
こんな国、こんな人生、こんな私、生きる意味などありはしない、と。
その幸福は私にとって生きる意味ほどの重みを持たない。
家族の安心感、友人や恋人との笑いあえる些細な日常、仕事終わりに飲む酒の味。
ほとんどが私には持ち得ぬものであり、感じたとしても幸福と認識する事は少なく、僅かにでも心動かされようともそんな僅かなものでは生きる意味には能わなかった。
先程挙げた――いわゆる不幸とやらも、この図式が当て嵌まる。
大部分はもう慣れてしまった。常である不幸は日常と意識せねば人は狂ってしまう。
けれど麻痺した箇所が痛かった事は覚えているし、まるで幸福と出会えぬ生き方をしている私には新しい不幸が次々と実感できる場所まで迫りくるだけだ。
その無数のそれらが一本でも、何時か私自身を殺す刃になる事を、夢乃在処は切に願っている。
「……」
「もしかして、あなたが夢乃在処さんですか? いえ、人違いだったらすみません、おかしなことを言ってしまって」
かつて公園だった場所、唯一当時から残されただろうベンチに座っていると一人分離れた場所に座っている男性が声をかけてくる。
「えぇ、そうです……」
簡潔な挨拶を普段通りに告げようとして、ふと思い立った言葉を言ってみる事にした。
「私は夢乃在処。
生きるには余力が足りない。死ぬには絶望が足りない。
そんな人を導く事が、私の仕事です」
決まり文句なんか作ってみてもいいかも知れない、そう思い口上を述べてみたところ上手く表情を創る事が出来なかった。
脱力。なんだか、とても疲れきってしまったような。
「あ、あぁ良かった。何となくそうかなと思ったんですけど、夢乃さん本人で本当に。
えっと僕の事は知っていると思いますが、直接顔を合わせたのは初めてなので……」
「佐藤京一」
「……えぇ」
先んじて名を呼ぶと、どこか苦々しそうに頷く壮年の男。確かに今のは話の流れを切り、不快に思われたかも知れない。
「すみません。今日は少し寒くて頭がぼんやりしているようです」
「そうでしたか。確かに雪でも降りそうな天気ですしね」
暑さで思考かやられるとは聞いたことはあるが、寒さは聞かないという感想を呑み込む。
「仕事は確かに果たすのでご安心を」
「それは心配していない……と言えば嘘になりますが、ここ一ヶ月ほどしっかりと連絡を取り合ってある程度は信頼しているので大丈夫です」
佐藤京一。
四十代前半で、家庭持ち。妻と、高校生の息子が存在し、長年定職にも就いていた事からローンで購入した家に自家用車も所持。
ただここ数年で会社の上が挿げ変わり、会社方針が大きく変動した事から問題が発生。配置替えから業務が変わり、齢から新しい物事に上手く慣れる事に失敗し、仕事が徐々に不調。また上手く成果を上げられない事から職場の対人関連にも問題が発生し、鬱を患い休職を挟んでからの退社。
現在退職手当と補助金を貰いながら求職、及び病気療養を続けているが芳しくなく、家庭不和も発生し自殺を決意――今までの経験から珍しくない物だと言える。
「あとわかっているとは思いますが、僕の始末は……」
濁された言葉にコクリと頷く。
佐藤が求めるのは厳密には自殺幇助ではなく、同意殺人に当てはまる。妻子に保険金を残したいという希望から、自殺ではなく明確に他殺に見える終わりを望んだ。
それに対し私は他殺ほどではないが自殺幇助よりも増す罪の重さから多額の報酬を要求し共に納得。普段行う自殺幇助から、約束の時間を反故にしたこと故の私による他殺。それとは別に分類される珍しいケースだが、一度だけ同意殺人を求められた事例が過去にあった。その時は保険金目当てではなく、自ら毒などを服用し直接自らの命に手をかける勇気が生まれない……と事前に断言されての心情的理由だったが。
「私はあくまでも幇助人に過ぎません」
「……」
彼の無言を貫く。
「死を求める人を誘えど、欲さぬ人に自分本位で死んで欲しいと乞うたり殺める事は在らず、真っ当に生きたいと願う人ならばそもそも縁などありはしない。
ただ、死にたいと願う人に、イチからゼロまで擁護するわけでもなく、まして生きて欲しいと願うなど――そんな、自分本位かつ残酷な願いは決して抱けませんが」
まるで、自分に言い聞かせるためだけの呪詛。
「今日一日で、それを確かめればいいんですよね」
「えぇ、往きましょう。その刻まで、二人で」
今日も仕事を行おうと、少しだけ揺らいでいる自分を自覚しながら一日を始めた。
きっとこの揺らぎは、私が切望していた変化に近いものだと思うから。




