第四話 二人が選んだ未来
本編最終話です。
入れ替わったあの日から十年――。
それぞれの姿で生きてきたアレンとリリアに、新たな選択の時が訪れます。
二人がどんな未来を選ぶのか。
どうか最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
魔王と勇者の決闘から、数か月。
人間と魔族の間では、和平交渉が続いていた。
長い戦争で生まれた憎しみが、たった数か月で消えるはずはない。
人間側には魔族を恐れる者がいる。
魔族側にも、人間を許せない者がいる。
何度も交渉は止まりかけた。
そのたびに、二人が間に立った。
人間として生まれ、魔族として十年を生きたアレン。
魔族として生まれ、人間として十年を生きたリリア。
どちらか一方の正しさを押しつけるのではなく、二人は互いの言葉を、互いの世界へ届けた。
そして少しずつ。
本当に少しずつ。
人間と魔族は、戦場ではなく言葉で向き合うことを覚え始めていた。
そんなある日。
魔王城に、一つの知らせが届いた。
◇
「――《転魂の鏡》を、修復できる?」
アレンは聞き返した。
魔王城の一室。
テーブルの上には、二つの鏡の破片が置かれている。
十年間。
二人を繋いできたもの。
向かいに座る老魔術師が頷いた。
ヴァルガスが、二人の同意を得て鏡の調査を密かに託した相手だった。入れ替わりの事情を知る者は限られ、彼にも秘密を守るよう厳命されている。
「完全に元の形へ戻すことは難しいでしょう。しかし、二つの魂を本来の肉体へ戻すだけならば、可能性はあります」
アレンの指が、僅かに動いた。
隣に座るリリアは何も言わない。
「どれくらいかかりますか」
「およそ一年」
一年。
その言葉が、妙に重く響いた。
「一年後には……」
老魔術師は二人を交互に見る。
「勇者アレン殿は、勇者アレン殿の身体へ」
次にリリアを見る。
「リリア姫は、リリア姫の身体へ。まだ調べるべき点はありますが、道筋は見えてきました」
戻れる。
十年間。
ずっと探していた答えだった。
アレンは何度も鏡へ尋ねた。
元に戻る方法はないのか。
リリアも調べ続けた。
どうすれば、自分たちは元通りになれるのか。
その答えが――
ようやく目の前にある。
「……そう、ですか」
それしか言えなかった。
◇
夜。
アレンは自室の鏡の前に立っていた。
そこに映るのは、一人の女性。
腰まで伸びた銀紫色の髪。
夜空のような瞳。
額から伸びた二本の角。
十年前。
初めてこの顔を鏡で見たとき。
恐ろしかった。
これは自分ではない。
こんな身体で生きるなんてできない。
そう思った。
小さかった身体は成長した。
魔力の使い方を覚えた。
髪の手入れも。
角をぶつけず服を着る方法も。
この身体に合った歩き方も。
全部、覚えた。
アレンが髪を耳へかける。
鏡の中の女性も、同じように動く。
当たり前だった。
自分が動けば、この身体が動く。
笑えば笑う。
泣けば泣く。
「……戻る、か」
呟いてみる。
勇者だった身体へ。
男だった自分へ。
本来のアレンへ。
なのに――
胸の奥に浮かんだのは、喜びではなかった。
怖い。
アレンは、その感情に気づいてしまった。
戻ることが。
◇
同じころ。
リリアもまた、自室で自分の手を見つめていた。
大きな手。
剣を握り続け、硬くなった掌。
十年前には、持ち上げることさえできなかった聖剣。
今なら、この手で自由に振るえる。
人々を助けた。
子供を抱き上げた。
傷ついた者を運んだ。
父と戦った。
そして――勝った。
鏡を見る。
金色の髪。
青い瞳。
かつては、見るだけで怖かった勇者の顔。
「……これが、アレン」
そう思っていた時期がある。
でも今は。
鏡の中にいる男が笑えば、それは自分が笑っている。
悲しそうな顔をすれば、自分が悲しい。
「これ……私なのよね」
リリアは呟いた。
その事実に、自分自身が驚いた。
◇
翌日。
二人は、かつて密かに会っていた国境の遺跡を訪れた。
誰にも勇者と呼ばれず。
誰にも姫と呼ばれず。
ただアレンとリリアでいられた場所。
今では国境の警備も以前ほど厳しくない。
それでも二人は、自然と昔と同じ場所に腰を下ろした。
「戻れるんだな」
アレンが言った。
「そうね」
「ずっと探してた」
「私も」
沈黙。
「……嬉しい?」
リリアが尋ねた。
アレンは答えられなかった。
代わりに聞く。
「リリアは?」
「ずるい。私が先に聞いたのよ」
「答えられないから聞いたんだ」
「……私も答えられないから聞いたの」
二人は顔を見合わせた。
そして。
少しだけ笑った。
「変だな」
「変ね」
戻りたかった。
十年間。
ずっと。
なのに。
「俺は……怖い」
アレンが初めて口にした。
リリアは笑わなかった。
「何が?」
「戻るのが」
自分の手を見る。
細い指。
長い髪。
女性の身体。
魔族の身体。
リリアから借りたはずの身体。
「これを失うのが、怖い」
リリアは黙って聞いている。
「お父さまの娘として十年生きた。城のみんなも、街の子供たちも、俺を姫として見てる。本当の名前は知らなくても、一緒に過ごしてきた相手は俺なんだ」
一度、息を吸う。
「それに……俺自身が」
胸へ手を当てた。
「もう、この身体を借り物だと思えない」
リリアが俯いた。
「……私も」
「え?」
「同じ」
大きな手を握る。
「昔はね、あなたを見るたびに思ってた」
リリアはアレンを見る。
「私の身体だって」
アレンは、かつての秘密の再会を思い出した。
――昔は、あなたを見ると『私の身体だ』って思ってたの。
――今は――あなたにしか見えない。
あの日。
リリアが自分へ言った言葉。
「今は、この身体を見ても……アレンの身体だって思わない」
リリアは自分の胸へ手を置く。
「私なの」
アレンは何も言えなかった。
「でも」
リリアが続ける。
「だからって、すぐに決めていいのか分からない」
「……ああ」
「だって戻れるのよ?」
「分かってる」
「本当の身体に」
その言葉に。
二人とも黙った。
本当の身体。
何をもって、本当というのだろう。
生まれた身体?
魂が入っている身体?
十年間生きた身体?
愛され。
傷つき。
笑い。
泣き。
自分自身として生きてきた身体。
答えは、その日には出なかった。
◇
それから二人は、何度も話した。
一日では決めなかった。
元に戻った自分たちを想像した。
アレンが、かつての勇者の身体へ戻る。
リリアが、魔王の娘の身体へ戻る。
それは決して不幸な未来ではない。
アレンなら、かつて鍛えた身体で再び剣を振るえるだろう。
リリアなら、父の隣へ戻れる。
けれど。
「戻ったら、俺はお父さまの息子になるのかな」
「父上なら娘だと言い張りそうだけど」
「言いそうだな……」
二人は笑った。
「私は勇者じゃなくなるのかしら」
「魂が戻ったくらいで、お前がやったことは消えないだろ」
「……そうね」
何度考えても。
何度話しても。
最後に辿り着く場所は同じだった。
元の身体へ戻れば、十年間が消えるわけではない。
でも。
今の身体で生き続けても――
生まれた身体を否定することにはならない。
どちらも、自分たちの人生だった。
だからこそ。
選ぶことができる。
◇
数週間後。
二人は、鏡を調べてくれた老魔術師の前へ立った。
ヴァルガスもいる。
現役の魔王として和平交渉を続けながら、この日だけはただの父親の顔をしていた。
「本当にいいのだな」
ヴァルガスが尋ねる。
アレンは頷いた。
「はい」
リリアも続く。
「決めました」
老魔術師が確認する。
「今は修復の見込みがありますが、年月が経っても同じ状態を保てるとは限りません。それでも、修復を進めずにおくのですね」
「分かっています」
アレンは鏡の破片を見る。
十年前。
これに人生を変えられた。
ずっと。
元に戻るための道具だと思っていた。
でも今は。
違う。
「修復は必要ありません」
アレンは言った。
「この身体で生きた十年は、もう借り物ではありません」
リリアも頷く。
「私もです」
ヴァルガスは二人を見つめた。
「後悔せぬか」
アレンとリリアは顔を見合わせる。
「するかもしれません」
アレンが答えた。
ヴァルガスの眉が上がる。
「でも」
リリアが続ける。
「後悔しない選択なんて、たぶんないと思うから」
「だから」
アレンは笑った。
「自分で選んだ方を、自分の人生にします」
ヴァルガスはしばらく黙っていた。
やがて――
「そうか」
それだけ言った。
だが。
その顔は、どこか誇らしそうだった。
◇
その夜。
二人は魔王城のバルコニーにいた。
月が出ている。
十年間。
あの月を見るたび、相手のことを考えた。
今では、鏡を使わなくても隣にいる。
「なあ、リリア」
「なに?」
「一つだけ、聞いていいか」
「うん」
「どうして戻らないって決めた?」
「今さら?」
「身体の話じゃなくて」
アレンは月を見たまま言った。
「他にも、理由があるなら」
リリアはしばらく答えなかった。
「……アレンは?」
「俺が先に聞いた」
「ずるい」
「この前お前がやった」
「あれは別の話でしょう」
「同じだ」
また沈黙。
やがてリリアが、小さく息を吐いた。
「じゃあ言う」
「うん」
「この身体で、自分の人生を続けたい。それは本当よ」
リリアはアレンを見る。
「でも、その未来に、あなたもいてほしいと思ったの」
「あなたが、その身体で生きているのが好き」
アレンが目を瞬く。
「銀紫色の髪も、角も、その優しさを感じる眼差しも、凛とした表情も好き」
リリアは、アレンを見つめたまま、少しだけ言葉を切った。
「まだ幼かった私の話をちゃんと聞いてくれて、魔法を自分で使えるようになったことも好き」
懐かしそうに微笑んでから、静かに続ける。
「でも、それだけじゃない」
「……」
「熱を出したとき、無意識にお父様を呼んだことも」
アレンの顔が赤くなる。
「それは忘れろ」
「嫌」
「リリア」
リリアは、少しだけ笑みを深めた。
「あなたが自分の意思で、私のお父様を『お父様』と呼んだことも」
アレンは言い返しかけて、口を閉じた。
「人間として生まれたあなたが、魔族のお父様を、自分のお父様として受け入れてくれた。かつては、倒そうとしていた相手なのに」
リリアの声が、柔らかくなる。
「私、それが嬉しかったの」
アレンは照れたように目を伏せた。
「……本当に、父親になってくれたからな」
「うん」
リリアは微笑んだ。
「そう言ってくれるところも、好き」
「魔族の子供たちの名前を全部覚えてるところも。困ってる人を見ると放っておけないところも。昔よりよく笑うようになったところも」
一歩。
リリアが近づく。
「全部、アレンだから好き」
その言葉を口にした瞬間。
リリアの脳裏に、一つの記憶が蘇った。
◇
入れ替わりから八年目。三度目の秘密の会合の日だった。
いつもの遺跡で落ち合った二人は、まず互いの近況を伝え合った。
目的は情報交換だった。
人間軍の動き。
魔族側の巡回。
鏡について新しく分かったこと。
話すべきことはたくさんある――はずだった。
ところが。
「……終わったな」
「終わったわね」
思ったより早く、すべての話が終わってしまった。
太陽はまだ高い。
「じゃあ、帰るか」
アレンが立ち上がろうとする。
「待って」
リリアが呼び止めた。
「近くに交易都市があるでしょう。せっかくだから、少しくらい見ていかない?」
「街を?」
「そう」
「俺たち、そんなことしてる場合か?」
「少しくらいいいでしょう?」
アレンは呆れたように息を吐いた。
「……まあ、帰るにはまだ早いか」
「決まりね」
それだけのことだった。
二人は目立つ装飾を外し、旅人の外套を羽織って市場へ向かった。リリアは髪を頭巾で隠し、勇者の証となる聖剣も覆っていた。
二人は市場を歩いた。
露店を眺め。
屋台で買った料理を分け合った。
人間と魔族。
両方の商人が行き交う街。
互いに警戒しながらも、商品を売り、買い、値段を交渉している。
戦場とはまるで違う光景だった。
「ねえ、これ美味しいわよ」
「お前、食べすぎじゃないか?」
「身体が大きいんだから大丈夫よ」
「食べすぎたら、あとで苦しくなるぞ」
リリアが笑う。
アレンも笑った。
勇者でもない。
魔王の娘でもない。
ただ二人で街を歩く。
そんな時間が。
リリアには、妙に心地よかった。
だから。
「おい、姫さん」
背後から聞こえた声に。
二人の表情が同時に変わった。
振り返る。
そこには三人の若い魔族がいた。
彼らはアレン――魔王の娘リリアの姿を知っているようだった。
だが。
その視線はすぐに、その隣へ向いた。
頭巾の端から覗く金色の髪。
青い瞳。
勇者アレンの姿をしたリリア。
彼らには当然、そこにいるのが魔王の娘リリア本人だとは分からない。
ただの――人間にしか見えない。
「何してるんだよ、姫さん」
一人が低い声で言った。
「なんで人間なんかと一緒にいる」
アレンが一歩前へ出る。
「この方は――」
「俺の兄貴は」
男の声が遮った。
「人間の騎士に殺された」
アレンの言葉が止まった。
「国境の戦いでな」
男は拳を握る。
「それなのに魔王様の娘が、人間と笑って飯食ってんのかよ」
「……」
アレンには、すぐに言葉を返すことができなかった。
自分は人間として生まれた。
そして、かつては勇者として。
魔族を倒すことこそが正しいと信じ、この国へ乗り込んできた。
目の前の男の兄を殺したのが自分ではないとしても。
その怒りを、間違っているとは言えなかった。
「……わたしは、あなたのお兄さんのことは知らないわ。けれど、あなたが――」
「知ってたら、人間と一緒にはいなかったっていうのかよ!」
余計に男の声が荒くなる。
そのとき。
一歩。
リリアが前へ出た。
今度は、人間の姿をした彼女が。
魔族の姫の姿をしたアレンを庇うように。
「あなたのお兄さんが亡くなったことを、私には軽く扱えない」
男がリリアを睨む。
「人間を許してなんて言わない」
リリアの手は、剣へ伸びなかった。
「許せなくてもいいと思う」
「だったら黙ってろ」
「でも」
リリアは退かなかった。
「お兄さんを殺した人間と、目の前にいる私まで、同じだと思わなくちゃいけないの?」
男が言葉を詰まらせる。
そして――
リリアではなく。
魔王の娘の姿をしたアレンへ顔を向けた。
「姫さん。こいつは人間だぞ」
アレンは、リリアを見る。
「……分かっているわ」
「俺たちの敵だろ!」
その言葉に。
アレンは一瞬、目を伏せた。
入れ替わる前なら。
自分も同じことを言っただろう。
人間と魔族は敵だ。
勇者と魔王は戦うものだ。
そう信じていた。
「……ええ」
アレンは静かに答えた。
「昔の私なら、そう言っていたでしょうね」
「……は?」
男が怪訝そうな顔をする。
当然だ。
魔王の娘が、人間を庇いながら、昔は敵だと思っていたと話している。
その横で。
リリアが小さく笑った。
そして再び、男たちへ向き直る。
「じゃあ、聞かせて」
自分自身――人間の姿をした身体を指す。
「私は、あなたに何かした?」
「……」
「あなたのお兄さんを殺した?」
「違う。だが人間は――」
「だったら」
リリアは、まっすぐ男を見る。
「人間だからじゃなくて、私自身を見て」
男は黙った。
「私たちは、ずっとそうやって戦ってきた」
人間だから。
魔族だから。
敵だから。
「でも、それをずっと続けたら」
リリアは一度、アレンを見る。
「いつまで経っても、誰かのお兄さんが死ぬわ」
アレンの目が見開かれた。
男たちも、何も言わなかった。
長い沈黙。
やがて。
最初の男が、小さく舌打ちした。
「……勇者みたいなこと言いやがる」
一瞬。
アレンとリリアの目が合った。
リリアは僅かに笑う。
「よく言われるわ」
アレンは思わず笑いかけたが、男の顔を見て、すぐに笑みを収めた。
「何がおかしいんだよ」
「……ごめんなさい」
アレンは男へ向き直り、頭を下げた。
男は唇を引き結んだ。しばらく黙っていたが、やがてアレンへ言った。
「……姫さん。変な人間に騙されんなよ」
「心配してくれて、ありがとう。でも、この方は私の大切な友人なの」
男は隣のリリアへ目をやった。
納得した様子はなかった。それでも、それ以上は何も言わず、仲間とともに去っていった。
姿が見えなくなってから。
アレンが大きく息を吐いた。
「……助かった」
リリアは男たちが去った方を見つめていたが、やがてアレンへ視線を戻した。
「変な人間、ですって」
「騙されないように気をつけないとな」
「ちょっと、あなた」
リリアが横から睨む。
「冗談だ」
「もう!」
ようやく、二人の表情が少し和らいだ。
「珍しいわね。アレンが言い返せなくなるなんて」
「剣ならまだしも、ああいうのは難しいんだよ」
「勇者なのに?」
「元勇者だ」
アレンはそう言って。
リリアを見る。
「でも、すごいな」
「何が?」
「剣を抜かずに、ああいう相手と向き合えるようになったんだな」
リリアは少しだけ肩をすくめた。
「怖くなかったわけじゃないわ」
「それでも退かなかった」
「ここで剣を抜いたら、あの人は、やっぱり人間は敵だと思ってしまうでしょう?」
「そうだな」
アレンの表情が柔らかくなる。
そして。
何でもないことのように言った。
「ちゃんと勇者になったんだな」
――とくん。
リリアの胸の奥で。
何かが鳴った。
その言葉は、この姿で必死に頑張ってきたリリア自身を認めてくれた言葉だった。
リリアは思わずアレンを見た。
けれど本人は。
何でもないことを言ったような顔で歩き始めている。
「ほら。そろそろ帰るぞ」
「……うん」
遺跡へ戻る道で。
夕焼けが二人の影を長く伸ばしていた。
「ねえ、アレン」
「ん?」
「また来ましょうね」
アレンが振り返る。
「今日、絡まれたばっかりだぞ?」
「今度はもっと平和なところ」
「……まあ、それなら」
少し考えて。
アレンが笑った。
「また来よう」
「うん」
たったそれだけ。
それだけだったのに。
その「また」が。
リリアには、どうしようもなく嬉しかった。
遺跡へ戻ってからも、二人はしばらく並んで座っていた。もう話す用事はなかった。それでも、すぐに別れる気にはなれなかった。
◇
――きっと。
あの日からだった。
用事が終わっていたのに、帰りたくなかった。
もう少し。
この人と一緒にいたかった。
そして。
もう一度、二人でどこかへ行きたいと思った。
あのときは。
まだ、その気持ちの名前を知らなかったけれど。
今なら分かる。
あれはきっと――
二人の、最初のデートだった。
◇
月明かりのバルコニー。
リリアは、目の前のアレンを見る。
「私は、この姿のアレンだから好きなんじゃない」
リリアは胸へ手を当てる。
「あなたが、あなたとしてこの十年を生きたから――好きになったの」
「……それ」
アレンの声が掠れた。
「告白、だよな」
「そうだけど」
「そうだけどって……」
「返事は?」
「今するのか!?」
「今しないでいつするのよ」
十年前。
泣いてばかりだった少女。
それが今では。
勇者になって。
父を倒して。
こんな顔で自分を追い詰めている。
アレンは笑った。
「……敵わないな」
「何が?」
「お前には」
そして。
アレンはリリアの手を取った。
大きな手。
かつて、自分のものだった手。
でも今は。
間違いなく、リリアの手。
「俺も好きだ」
リリアの目が大きくなる。
「俺が生まれた身体でいるからじゃない」
十年間。
鏡越しに話した。
何度も助けられた。
何度も喧嘩した。
秘密の遺跡で会った。
あの日。
国境の街を二人で歩いた。
そして。
勇者として成長する姿を見た。
「その身体で十年間生き抜いた、お前だから好きなんだ」
リリアの目から、涙が一滴落ちた。
「……遅い」
「何が?」
「私、結構前から好きだったのに」
「いつから!?」
リリアは少しだけ笑った。
「教えない」
「そこは教えろよ!」
教えない。
あの日だったなんて。
アレンの何気ない一言が。
自分にとって、どれほど嬉しかったのかなんて。
まだ少しだけ――
秘密にしておきたかった。
◇
告白を交わしてからも、二人はすぐに部屋へ戻らなかった。
繋いだ手を、どちらも離そうとしない。
「リリア」
「なに?」
「覚えてるか。初めて生理になった夜、俺が変なことを聞いたの」
リリアは少し考え、頷いた。
「いつか誰かを伴侶に迎えるのが怖いって話?」
「ああ。姫なんだから、国のために決められた相手と暮らす日が来るのかもしれない。そう思ってた」
アレンは繋いだ手へ視線を落とした。
「お前は、そのとき一緒に考えようって言ってくれた」
「覚えてるわ」
「今なら、考えられる」
リリアが、静かにアレンを見た。
「これからも、こうしてお前と暮らしたい。朝起きて、同じ食卓について、何でもないことで喧嘩して……次の日も、そばにいてほしい」
声にすると、望んでいた暮らしが一つずつ形になった。
「国のために選ばれるんじゃなくて、俺が選びたい。お前を」
リリアの指に、少しだけ力がこもった。
「私も、あなたと暮らしたい」
二人は顔を見合わせた。
「それ、結婚したいってことだと思っていい?」
リリアが尋ねると、アレンは耳まで赤くした。
「……そこまで言わせるか」
「大事なことだもの」
しばらく月を見上げてから、アレンはリリアへ向き直った。
「結婚しよう、リリア」
「はい」
返事は、驚くほど迷いがなかった。
けれど二人は、その嬉しさだけで話を終えなかった。暮らす場所や、それぞれの務めについても話した。和平のために行き来する日々は、まだ続く。離れることがあっても、相談することをやめないでいようと決めた。
「いつか、子どもを迎えることもあるのかな」
アレンが呟いた。
「あなたは、どうしたい?」
「まだ分からない。怖さもある。でも……お前となら、そのことも一緒に考えていきたい」
「うん。急いで決めなくていいわ」
答えの出ていないことも、二人の未来にはあった。
それでも、隣にいてほしい相手だけは、もう決まっていた。
◇
翌日。
「結婚を認めてください」
ヴァルガスは固まった。
魔王の執務室。
人払いを頼み、三人だけになった部屋で。
机の向こうで。
魔族最強と恐れられた王が、完全に動きを止めている。
「……もう一度言え」
リリアが答える。
「私たち、結婚します」
「待て」
ヴァルガスが立ち上がった。
「待て待て待て!」
「落ち着いてください、お父さま」
「これが落ち着いていられるか!」
ヴァルガスはアレンを指差す。
「つまり勇者が我が娘を娶るということか!?」
「勇者の身体に入っているのは、お父さまの実の娘です」
「では、我が実の娘がもう一人の我が娘を娶るのか!?」
「その言い方も間違ってはいません」
「何一つ分からん!」
アレンは思った。
魔王との決闘より、こちらの方が大変かもしれない。
「そもそも!」
ヴァルガスがリリアを見る。
「お前は勇者の身体だろう!」
「そうですね」
「そしてアレンはお前の身体だ!」
「そうですね」
「……」
「……」
「やはり何一つ分からん!」
「お父さま……」
結局。
ヴァルガスが二人の結婚を認めるまで――
三日かかった。
◇
それから、両国との調整と準備を重ね――婚礼の日。
魔王城には、人間と魔族、両方の客が集まった。
まだ和平は始まったばかり。
互いを警戒する者もいる。
けれど。
人間の勇者と魔王の娘の婚礼を見ようと、多くの者が同じ場所へ集まった。
世間にとっては、勇者アレンとリリア姫の婚礼だった。二人の魂が入れ替わっていることは、公にしていない。
花の敷き詰められた道。
その入り口に、アレンは立っていた。
白を基調とした婚礼衣装。
銀紫色の髪には、小さな花飾り。
隣にはヴァルガスがいる。
「行くぞ」
「はい」
アレンは父の腕を取った。
一歩。
また一歩。
道の先にはリリアがいる。
勇者の正装。
金色の髪。
青い瞳。
腰に剣はない。
今日は、戦うための日ではないから。
「アレン」
歩きながら、ヴァルガスが身を屈め、娘にだけ聞こえる声で呟いた。
「はい?」
「お前が勇者であったことは、今でも気に入らん」
「……はい」
「我を殺そうとしたこともな」
「それは……すみません」
「だが」
ヴァルガスが、なおも低い声で言う。
「お前は我が自慢の娘だ」
アレンの足が止まりそうになった。
「それだけは、忘れるな」
「……はい」
涙を堪えながら。
「お父さま」
道の終わり。
ヴァルガスはアレンの手を取り。
リリアへ渡した。
「勇者よ」
「はい」
「我が娘を泣かせたら、ただでは済まさぬぞ」
リリアは一瞬目を丸くし、それから笑った。
「もう一度、決闘を申し込まれますか?」
「次は我が勝つ!」
「結婚式で決闘を始めないでください!」
アレンの声に。
参列者たちから笑いが起きた。
人間も。
魔族も。
同じように。
リリアはアレンを見る。
そして。
その手を握った。
十年前。
互いの人生を奪ってしまったと思った。
でも今は違う。
二人は互いの人生を奪ったのではない。
互いの人生を知った。
支えた。
そして――
選んだ。
人間の勇者と魔王の娘。
魔王の娘になった勇者と。
勇者になった魔王の娘。
二人はその日から。
一つの未来を、共に歩き始めた。
◇
それから一年。
魔王城の一室から、大きな声が響いた。
「お父さま!」
「来たぞ!」
「呼んでません!」
ヴァルガスが堂々と部屋へ入ってくる。
アレンはベッドの上で、大きくなった腹を抱えていた。
「今日は孫に会いに来た」
「まだ生まれていません」
「ならば声だけでも聞かせておかねばならん」
「昨日も三時間、話しかけていたでしょう!」
「昨日と今日は違う!」
「何が違うんですか!」
少し離れた場所で、リリアが笑っている。
「笑ってないで止めてくれ!」
「無理よ。父上だもの」
「お前の父親だろ!」
「アレンのお父さまでもあるでしょう?」
「そうだけど!」
アレンはため息をつく。
けれど。
その顔は笑っていた。
新しい命が宿ったと分かった日。
怖くなかったわけではない。
この身体で経験したことのない変化。
母になるということ。
何度も不安になった。
そのたびにリリアは隣にいた。
侍女や医師の話を二人で聞き、つらい日には無理をせず休んだ。リリアにも分からないことは多かったから、知っているふりはしなかった。
「今日、怖かったことはある?」
夜、そう尋ねられるたび、アレンは少しずつ気持ちを言葉にできた。
将来が怖いと打ち明けた、あの月夜。鏡の向こうから届いた声が、今はすぐ隣にあった。
かつて。
鏡越しにアレンから剣の持ち方を教わったように。
今度はリリアが、アレンを支える方法を一つずつ覚えた。
二人とも。
初めてのことばかりだった。
だから二人で学んだ。
そして――
その日はやって来た。
◇
小さな産声が響いた。
アレンは、腕の中の赤ん坊を見つめていた。
金色の髪。
小さな角。
人間と魔族。
二つの世界の血を受け継いだ女の子。
リリアが隣から覗き込む。
「……小さい」
「当たり前でしょう」
「分かってるけど……」
「抱く?」
「いいの?」
「あなたの娘でしょう」
その言葉に。
リリアが少しだけ照れた。
「……うん」
アレンは慎重に赤ん坊を渡す。
かつて魔王を倒した勇者の腕が。
今は壊れ物を扱うように、小さな命を抱いている。
「名前」
アレンが言った。
「決めてたでしょう?」
「うん」
二人で赤ん坊を見る。
「フィア」
リリアが呼ぶ。
赤ん坊が、小さく動いた。
その瞬間。
扉が勢いよく開いた。
「我の孫はどこだ!」
「お父さま!」
「父上!」
出産を助けた者たちは、母子の様子を確かめ、家族で過ごせるよう隣室へ下がったところだった。ヴァルガスが入ると、扉は静かに閉じられた。
「声が大きいです。驚いてしまうでしょう」
アレンにたしなめられ、ヴァルガスは口を閉じた。
けれど、その目はすでに、リリアの腕の中へ釘付けになっている。
「……抱いてもよいか」
リリアは微笑んだ。
「ええ。頭を支えてあげてください」
差し出された小さな身体を、ヴァルガスは恐る恐る受け取った。
魔族最強と恐れられた王の腕が、今はひどく慎重に動く。
「……こんなにも、小さいのか」
腕の中で、赤ん坊が小さく身じろぎした。
それだけで、ヴァルガスの肩がぴくりと揺れる。
「お父さま、力を入れすぎないでくださいね」
「分かっておる。……分かっておるが」
その先の言葉が出てこない。
アレンもリリアも、急かさずに待った。
やがてヴァルガスは、赤ん坊を見つめたまま尋ねた。
「名前は決めたのか?」
二人は顔を見合わせた。
「フィアです」
アレンが答える。
「二人で決めました」
リリアも、静かに頷いた。
「……よい名だ」
ヴァルガスの表情が、ゆっくりとほころんだ。
小さな顔を覗き込み、そっと呼びかける。
「フィア」
「お前の母は、かつて勇者であった」
「その説明から始めるんですか?」
「そして父は、我が実の娘であり、現在は勇者だ」
「ややこしくなるからやめて!」
二人の声にも構わず、ヴァルガスは続けた。
「そして我は魔王だが」
腕の中の孫を揺らさぬよう、少しだけ胸を張る。
「今はお前の祖父である」
フィアは当然、理解していない。
それでもヴァルガスは、厳かに告げた。
「ゆえに世界のすべてより、お前を優先する」
「魔王としてそれ言っていいんですか!?」
「祖父だからよい!」
「お父さま、早く私にも抱かせてください」
「ならん。まだ我が抱いている」
「その子を産んだのは私です!」
「それとこれとは別だ!」
リリアが呆れて笑う。
アレンもつられて笑った。
その声に反応するように、フィアが小さな手を伸ばす。
ヴァルガスが顔を寄せると、柔らかな指が――その角を掴んだ。
魔王の動きが止まった。
「……掴んだ」
「掴んだわね」
「掴んだな」
「我の角を……!」
ヴァルガスの顔が輝く。
まるで世界を征服したかのような顔だった。
「生まれたばかりで魔王の角を掴むとは。将来は偉大な姫になりそうだな」
「お父さま、気が早すぎます」
アレンが呆れると、リリアも笑った。
「まずは、その手を離してもらわないとね」
「構わん。好きなだけ掴んでおれ」
ヴァルガスは身を屈めたまま、少しも動こうとしなかった。
アレンとリリアは顔を見合わせる。
そしてまた、笑った。
勇者は魔王を倒した。
だが。
魔王の命も。
二人が十年かけて築いた家族も。
失われることはなかった。
入れ替わった二人が最後に手に入れたのは――
元の身体ではない。
与えられた運命でもない。
自分で選び。
二人で結んだ。
新しい家族だった。
ちょっとした思いつきから、随分と長い話が出来上がりました、ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第四話をもちまして、本編は完結となります。
勇者と魔王の娘。
突然入れ替わってしまった二人が、それぞれの姿で十年という歳月を過ごし、ようやく自分たちの未来を選びました。
二人の選んだ幸せが、皆さまの心にも少しでも残ってくれたなら嬉しいです。
ですが、二人の物語はまだ終わりません。
次回はエピローグ?
二人が選んだ未来の、その先にある家族の物語をお届けします。
最後までお付き合いいただけたら幸いです。
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