第二話 10年後の二人
第二話です。
鏡により魂が入れ替わった二人が、それぞれの身体で過ごしたそれぞれの十年間。
少しずつ変わっていくアレンとリリアを、みなさまに見守っていただければ嬉しいです。
十年後。
魔王城の庭園に、澄んだ剣戟の音が響いていた。
朝露の残る芝生の上で、一人の美しい女性が剣を振るっている。
腰まで流れる銀紫色の髪。夜空を閉じ込めたような瞳。額から伸びた二本の角は、魔王の血を示す優美な形へ成長していた。
幼かった身体は、十年の歳月を経て、二十歳の女性へと成長していた。
踏み込み。横薙ぎ。返す刃で斜め上へ。
剣を振るう動きに合わせ、腹の奥から魔力を少しずつ全身へ流す。肩にも腕にも溜め込まず、指先まで細く行き渡らせる。
かつては、少し放つつもりで訓練場の壁に穴を開けた。
今は違う。
アレンは最後に鋭く剣を突き出した。
その切っ先へ、淡い紫色の魔力が集まっていく。
「――散って」
小さく呟くと、剣先から放たれた魔力が空中で幾つもの光へ分かれた。
光は庭園の花々を傷つけることなく、その隙間を縫うように飛び、離れた場所に並んでいた訓練用の標的だけを正確に撃ち抜いていく。
最後の一つが消えると同時に、アレンは剣を止めた。
身体を巡っていた魔力も、波が引くように静まっていく。
「……よし」
十年前なら、重心の違いを意識しなければ、それだけで剣筋が乱れていた。
だが、今はもう違う。
この身体で歩き、食べ、眠り、剣を振るい、思い通りに魔力を扱うことも覚えて――日々を過ごしてきた十年。
もはや一つ一つ考えなくても、身体は思った通りに動いてくれる。
「姫様、朝から精が出ますね」
庭園の入口から侍女の声がした。
誰もが彼女を、魔王の娘リリアと呼んだ。
けれど、その中にいるのは――かつて勇者と呼ばれた男、アレンだった。
「姫様。陛下から贈り物が届いております」
「お父さまから?」
侍女が運んできた箱を開く。
中には、青い花が丁寧に詰められていた。
人族の国、そのさらに奥深い山嶺に築かれた街で、三年に一度だけ咲くという希少な花。
魔力を込めて使えば、魔法の効果を増幅させるとも伝えられている。
魔族の国では、まず目にすることのできないものだった。
その上には、一通の手紙。
『お前が一度見てみたいと言っていた花だ。国境を三つ越えて取り寄せた。枯らすなよ』
アレンはしばらく手紙を見つめ――苦笑した。
「お父さまったら、またこんなものを……」
そう言いながら、アレンは嬉しそうな表情を浮かべていた。
その呼び方は、もう演技ではなかった。
◇
十年前。
魔王城から逃れた直後のアレンは、何度もヴァルガスへ訴えた。
自分はリリアではない。勇者アレンだ。あなたの娘と魂が入れ替わったのだ、と。
けれど、《転魂の鏡》の魔法は魂の気配まで混ぜてしまったらしく、誰にも信じてもらえなかった。
ヴァルガスでさえ、娘が魔王城崩壊の恐怖で混乱しているのだと思っていた。
それでもアレンは諦めなかった。
いつか元に戻る。
自分は勇者だ。
魔王の娘ではない。
そう思い続けていた。
入れ替わって数日後の朝、侍女たちが姫君用のドレスを持って部屋へやってきた。
「姫様、お支度のお時間です」
「私は勇者アレンだ。そんなものを着るつもりはない」
アレンは腕を組んで拒んだ。
けれど、鏡に映る自分の姿は、かわいくぷくっと頬をふくらまし、顔を赤く染める、不機嫌そうな十歳の美少女にしか見えなかった。
十六歳の勇者として鍛え上げた身体とは違い、力ずくで抵抗しても、手際のよい侍女たちに囲まれればかなわない。
「本日は評議の場へお出ましになります。どうかお支度を」
「だから、私は――」
言い終える前に、侍女たちは慣れた手つきで衣装を整えていく。
気づけばアレンは、鏡の中の自分から目をそらせないまま、姫君のドレスに袖を通していた。
ふわりと広がるスカート。
胸元には小さなリボン。
髪にも、それまで自分なら絶対につけなかったような飾りが添えられている。
アレンは恐る恐るスカートの裾を指先でつまんだ。
「……動きにくい」
「すぐにお慣れになりますよ、姫様」
「慣れるつもりはない!」
言い返した瞬間、鏡の中の少女の頬がさらに赤くなる。
それを見て、アレンはますます不機嫌そうに眉を寄せた。
けれど――そうすればするほど、鏡の中では頬を膨らませた少女が拗ねているようにしか見えない。
この身体では、いくら抵抗しても無駄なのだ。
アレンはそう悟り、小さくため息をついた。
「……次は、最初から任せる」
「はい。かしこまりました、姫様」
侍女たちは笑わなかった。
姫様は魔王城で起きた出来事の恐怖から、まだひどく混乱しており、おかしな言動になっているのだと受け止め、仕えるべき姫君として真摯に接していた。
アレンはそれでも、自分は勇者であり、いつまで経ってもその気持ちが変わることはないと思っていた。
あの日までは――。
入れ替わってから一年も経たないころ。
慣れない魔族の身体と、その内に秘められた膨大な魔力にうまく適応できず、アレンは苦しんでいた。
そんな状態が続いたある日、アレンは高熱を出して寝込んだ。
熱にうかされ、目を覚ますたび、すぐそばにはヴァルガスがいた。
政務のため何度部下に呼び戻されても、少し経てばまた枕元へ戻ってくる。
「勇者だったら、この程度の熱……」
「馬鹿者。勇者であろうがなんであろうが、病人は寝ていろ」
「だから私は、あなたの娘じゃ……」
「分かった、分かった。今は喋るな」
そう言って、冷たい布を額へ乗せる。
夜が更けても。朝が近づいても。
ヴァルガスはそこにいた。
高熱で意識が朦朧とする中、アレンは目を覚ました。
大きな手が、自分の小さな手を包んでいる。
教会で育ったアレンには、こんなふうに誰かが夜通しそばにいてくれた記憶などなかった。
勇者なのだから立て。
勇者なのだから戦え。
勇者なのだから弱音を吐くな。
それが当たり前だった。
だから――その言葉が口からこぼれたとき、自分でも気づいていなかった。
「……お父さま……」
「……なんだ?」
「行かないで……」
アレンの小さな指が、無意識にヴァルガスの手を握り返した。
ヴァルガスは何も言わなかった。
ただ、その小さな手を包み直すように握り返した。
「行かぬ。ここにいる」
翌朝。
熱の下がったアレンは、自分が何を口走ったのかを思い出し、プリンセスベッドの布団の中で頭を抱えた。
さらに、自分からヴァルガスの手を握っていたことまで思い出す。
「…………」
アレンはとうとう頭から布団をかぶった。
けれどヴァルガスは、そんなアレンにも以前と変わらず、愛情深く接していた。
あの夜の言葉も、それまでのアレンのおかしな言動も、何もなかったかのように。
何も言わず、からかいもしなかった。
ただいつも通り、ぶっきらぼうに朝食を持ってきた。
それからだった。
「お父さま」という言葉が、少しずつアレンの中へ根を張り始めたのは。
熱が下がってから、アレンは着替えのたびに侍女たちへ抵抗するのをやめた。
毎朝争うより、必要な支度を済ませて一日を始めるほうがいいと分かったのだ。
それでも袖口を留めるときには、「ここは自分でやる」と小さく主張した。
侍女たちも、そんなアレンの意地を尊重してくれた。
魔法の制御に失敗して、城の柱を破壊してしまったときも。
人間との和平について提案し、数日間言い争ったときも。
リリアとして迎えた誕生日に、溢れんばかりのプレゼントをヴァルガスが用意してくれたときも。
「こんなもの、受け取れない! これはリリアへの贈り物だろう!」
そう言って、アレンが必死になって受け取ることを拒んだときも。
ヴァルガスは怒り、困り、ときには呆れながらも、最後にはいつもアレンの言葉を受け止めてくれた。
それでも誕生日の贈り物だけは、頑として引かなかった。
「勇者でもなんでもいい。我はただ、今ここにいるお前の誕生日を祝いたいだけだ」
アレンは何も言えなくなった。
目の前には、自分のために用意された贈り物が並んでいる。
しばらく迷ったあと、アレンはその中から小さな髪飾りを一つだけ手に取った。
「……これだけだから」
そう言いながら、アレンは大切そうにその髪飾りを手のひらへ載せた。
十年。
その積み重ねだった。
勇者として成果を求められ続けたアレンにとって、それは初めて知る無条件の愛だった。
アレンは青い花へ視線を戻し、そっと手紙を箱へ戻した。
十年という歳月は、勇者だった自分に「父」を与えていた。
そして――その十年間に変わったのは、アレンだけではない。
◇
二人の声が月の夜に、初めて繋がったあの日から。
二人は何度も《転魂の鏡》の破片を試した。
失敗を繰り返しながら、少しずつ鏡に残された力の法則を知っていった。
夜が深まると、二つの破片は互いを求めるように淡く共鳴する。
そして遠く離れた場所で、アレンとリリアがそれぞれの破片へ同時に触れたときだけ、一度結ばれた二人の魂をつなぐ道が、ほんのひととき開かれる。
姿を見ることはできない。
けれど、声は届く。
満月の夜には鏡の力がさらに強まり、普段よりも声が鮮明になり、長く話せることもあった。
片方しか触れていなければ、どれほど待っても声は届かない。
だから最初のころ、リリアは夜になると鏡を抱えて待っていた。
『アレン、いる?』
「いる。今日はどうした」
『明日、王様に会わなきゃいけないの』
「王の前では、分からなくても堂々としていろ。分からないことは後で聞けばいい」
『それから剣が重いの』
「右足を半歩引け。腕だけで振ろうとするな」
『……難しい』
「俺もお前の身体に慣れるので苦労してる。お互い様だ」
『アレンは大丈夫なの?』
「……実は昨日、魔法の訓練をした」
『うん』
「訓練場の壁に穴を開けた」
『ええっ!?』
「うるさい! お前の魔力、どうなってるんだ。少し出しただけだぞ!」
『少しって、どうやったの?』
「身体の中にある魔力を集めて、一気に――」
『だめ! 一気に出しちゃだめ!』
「……先に言え」
『だって私には当たり前だったから、説明が必要だなんて思わなかったの!』
「俺には当たり前じゃない! 十日前まで魔族の魔力なんかなかったんだぞ!」
実際、その日の魔法訓練は散々だった。
暴発した魔力の風で銀紫色の髪は大きく乱れ、頬にはうっすらと煤までついた。
部屋へ戻って鏡を見たアレンは、その姿にしばらく固まったあと、
「……なんなんだ、この身体は」
と、頬を膨らませていた。
その話まで聞かされたリリアが、鏡の向こうで吹き出した。
「……今、笑ったな?」
『笑ってない』
「笑っただろ」
『だって、アレンがそんな顔で怒ってるところを想像したら……』
「想像するな!」
『待って、ちゃんと教えるから!』
リリアは笑いを堪えながら、魔力は一か所に押し込めず、腹の辺りから身体全体へ少しずつ流すのだと教えた。
さらに角にも魔力が流れると聞かされ、アレンは思わず叫んだ。
「知るか! 俺には十日前まで角なんかなかった!」
今度こそ、リリアは声を上げて笑った。
別の夜には、アレンから相談した。
「今日、城下へ行った」
『どうだった?』
「子供に囲まれた。いきなり『姫様!』って五人くらい飛びついてきたんだぞ」
『昔からよ。私、よく城を抜け出して遊んでたから』
「……どうすればいいのか分からなかった」
『普通に遊んであげればいいじゃない』
「勇者は子供とどう遊ぶんだ?」
一瞬、鏡の向こうが静かになった。
『勇者じゃなくて――今は、私として聞いてるんでしょう?』
アレンは言葉に詰まった。
「……そうだな」
『だったら難しく考えなくていいの。あの子たちの名前を呼んで、一緒に笑ってあげて』
次に城下へ行ったとき、アレンは教えられた通り子供たちの名前を呼んだ。
そして一緒に鬼ごっこをすることになった。
最初こそ、
「子供相手に本気になれるか」
などと言っていたアレンだったが――。
「姫様、こっちだよー!」
「待て! 今のはずるいぞ!」
始まってしまえば、勇者だったころからの負けず嫌いが顔を出した。
十歳の少女の身体で懸命に子供たちを追いかけ、あと少しというところでするりと逃げられる。
「くっ……!」
悔しそうに頬を膨らませるアレンを見て、子供たちは声を上げて笑った。
「姫様、かわいい!」
「かわいいと言うな!」
ますます頬を赤くしたアレンを囲んで、また笑い声が広がった。
遊び終わったころ、一人の少女がアレンへ小さな花冠を差し出した。
「姫様、これあげる!」
「……俺に?」
少女はきょとんと目を丸くした。
「姫様、また変な言葉使ってる?」
「……っ」
アレンが言葉に詰まっていると、少女は気にした様子もなく、にっこり笑って花冠を差し出した。
「はいっ、どうぞ!」
「あっ、その……ありがとう」
頭に載せられた花冠に、アレンはしばらく固まった。
外そうと手を伸ばしかける。
けれど、自分を見上げる子供たちの嬉しそうな顔を見て、その手を止めた。
頬を少し赤くしながら、ぼそりと言う。
「……今日だけだから」
結局その日、アレンは花冠をつけたまま城に戻った。
その夜。
「……喜んでた」
『でしょう?』
「一緒に遊んだ。鬼ごっこだ」
『ふふっ。勇者様が鬼ごっこ』
「今は勇者じゃないんだろ?」
鏡の向こうでリリアが黙り、少し嬉しそうに答えた。
『……そうね』
アレンは少し迷ったあと、付け加えた。
「……花冠も、もらった」
一瞬の沈黙。
そして――。
『見たかった!』
「絶対に見せない!」
こうして二人は互いに教え合った。
アレンはリリアへ、剣の握り方を。人間の王侯への接し方を。勇者として旅した土地を。好きだった食べ物を。
リリアはアレンへ、魔力の扱い方を。魔族の習慣を。城の人々の名前を。父ヴァルガスの不器用な優しさを。
入れ替わりから二年目。
リリアの身体が十二歳になったころ、アレンは初めての生理を迎えた。
ある朝、着替えの途中でアレンは下腹部に鈍い痛みを感じた。
「……なんだか、お腹の下が痛い」
声を聞いて駆けつけた侍女は、アレンの顔色や熱を確かめ、痛みが始まった時刻や具合を尋ねた。
身支度を手伝いながら様子を見ると、衣服にわずかな血がついていた。
「姫様、初めての生理でございます。お怪我や病気ではありません」
侍女は清潔な布と着替えを用意し、手当ての方法や、痛みがつらいときは休んでよいことを静かに教えた。
「生理が始まったということは、姫様のお身体が、子どもを産む可能性のある女性の身体へ成長したということでもございます」
その言葉に、アレンは息をのんだ。
自分の知らないところで、この身体の成長は先へ進んでいた。
その事実を思うと、不安が胸の奥から込み上げた。
この身体はリリアのものだ。
リリアは魔王国の姫。
いずれ国のために、誰かを伴侶に迎えなければならない日が来るかもしれない。
そう想像しただけで、アレンはひどく恐ろしくなった。
けれど、この気持ちを話せる相手は、アレンの身体にいるリリアだけだった。
その夜、鏡がつながると、アレンは昼間から胸につかえていた思いを打ち明けた。
「お前は、こういうことを知っていたのか」
『十歳のころ、侍女たちから教わったの。大きくなれば生理が始まることや、そのときの準備を。でも、私はまだ経験したことがないわ』
「知識はあっても、経験はないんだな」
『そう。だから、分かったようなことは言えない。でも侍女たちの話なら覚えてる。一緒に思い出してみましょう』
「今日、侍女に言われたんだ。この身体は、いつか子どもを産める可能性があるって」
アレンは一度言葉を切り、鏡の向こうへ目を向けた。
「お前は姫だ。いつか、国のために誰かを伴侶に迎えることになるかもしれない。そう考えたら、急に怖くなった」
『……そうだったのね』
「お前の身体のことなのに、俺がこんなふうに怖がるのはおかしいか?」
『おかしくないわ。今、その身体で生きているのはあなたなんだもの。不安に思うことまで、一人で抱えなくていい。いつかのことは、そのとき一緒に考えましょう』
リリアの言葉に、アレンはようやく息をついた。
二人はすぐに答えを出せないまま、鏡越しにしばらく話し続けた。
打ち明けた不安をリリアが受け止めてくれたことが、アレンの胸に静かに残った。
侍女に手入れの方法を教わり、頼ることも覚えるうちに、アレンはリリアの身体を預かって生きることを、少しずつ自分の生活として受け止めていった。
それからアレンは、侍女に髪の梳かし方やまとめ方、服装に合わせた髪飾りの選び方を尋ねるようになった。
姿見の前で髪や服の乱れを確かめ、食事の席での所作や来客への礼にも気を配り始めた。
女性としての身だしなみや王女としての礼儀を、自分の意思で身につけたいと思うようになったのだ。
入れ替わりから四年が過ぎ、リリアの身体が十四歳になったころ。
アレンは、魔王城の評議の場で諸侯たちを前に挨拶をすることになった。
前夜、鏡越しにリリアが所作を教えてくれた。
『背筋は伸ばして。でも、剣を構えるみたいに身構えなくていいの』
「王女として立つのは、剣の稽古より難しいな」
『私も最初はそうだったわ。全部を一度に覚えなくていい。あなた自身の言葉で話して』
翌日。
アレンは教わった通りに一人ひとりへ礼をし、父の隣で落ち着いて諸侯たちの言葉を聞いた。
会議が終わり、人々が退出していく。
隣にいたヴァルガスが、ふとアレンへ目を向けた。
「立派な王女になったな」
アレンは思わず目を丸くした。
「……そうなのかな」
「ああ」
それだけ言うと、ヴァルガスはいつものように先に歩いていった。
部屋へ戻ったアレンは、一人で姿見の前に立った。
十四歳になった少女が映っている。
幼かったころより髪は長くなり、ドレスを着ても、もう以前のような違和感ばかりを覚えることはない。
アレンは鏡の中の自分をしばらく見つめ――。
そっと、髪の乱れを指先で直した。
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
その夜。
鏡がつながる。
『アレン?』
「なんだ」
『今日、何かいいことあった?』
「……どうしてそう思う」
『声がちょっと嬉しそうだから』
「別に」
『ふふっ』
「笑うな」
『もう立派な姫様ね』
「お前が教えてくれたからだ」
『いいえ。身につけたのは、あなた自身よ』
アレンは返事をしなかった。
けれど、その言葉を否定もしなかった。
アレンはもう、リリアの代わりを演じているだけではなかった。
自分の意志で、王女として人々の前に立っていた。
最初は、相手の人生を壊さないためだった。
元に戻るその日まで、相手の代わりを務めるために。
二人とも――そう思っていた。
◇
やがてリリアの話す内容が変わり始めた。
『今日、魔物に襲われていた村を助けたの』
「そうか」
『……怖かった。でも、逃げなかった。小さな女の子がね、「勇者様、ありがとう」って』
「よくやった」
『……うん』
さらに年月が過ぎた。
『今日、戦争で食べ物を奪われた村を見た』
「そうか」
『ねえ、アレン。勇者って、魔王を倒すだけじゃないのね』
アレンはすぐには答えられなかった。
自分はずっと、魔王を倒すことこそ勇者の使命だと教えられてきた。
けれど十歳だった少女は、自分の身体で世界を歩きながら、別の答えを見つけようとしていた。
「……お前がそう思ったなら、忘れるな」
『うん』
入れ替わりから六年。
リリアが入った勇者アレンの身体は、二十二歳になっていた。
そのころには、リリアは勇者の力で人々を救い、戦争を利用して私腹を肥やす貴族の不正を暴き、種族だけを理由に剣を向ける者を何度も止めていた。
人々は彼女を、ただ強いからではなく、自分たちを守ってくれるから「勇者」と呼ぶようになった。
勇者としての立場を確かなものにしたリリアの名は、人間の国の街々に広まっていた。
同じころ、リリアの身体で十六歳になったアレンも、王女として日々の務めを果たしていた。
四年前に諸侯の前で立ったあの日から、アレンは少しずつ公の場を任されるようになっていた。
そしてアレンもまた、リリアから教わった魔法を自分なりの戦い方へ変えた。
城下の子供たちの名前を覚え、魔族の習慣を学び、人間との和平について自分の言葉で魔族たちと語るようになった。
最初は「リリアの代わり」だった。
けれど年月が過ぎるにつれ、周囲の者たちが笑いかけている相手は、もう過去のリリアではなかった。
今ここにいる――アレンだった。
二人はいつの間にか、借りた人生を演じるのではなく、それぞれの場所で自分自身の人生を生き始めていた。
◇
鏡越しに話すだけでは、足りなくなったのがいつだったのか。
二人とも正確には覚えていない。
鏡越しの連絡はその後も続いていた。
けれど、会いたいと思ったからといって簡単に会える二人ではなかった。
一人は人間たちの希望である勇者。
もう一人は魔王のただ一人の娘。
二人が国境付近で会っていたと知られれば、それだけで両国を揺るがしかねない。
だから二人は急がなかった。
鏡越しに情報を集め、国境の巡回が薄くなる時期と道を調べ、誰にも見つからず行き来できる場所を探した。
そうして三年。
ようやく見つけたのが、人間と魔族、どちらの支配も及ばない国境近くの古い遺跡だった。
最初の秘密の会合。
遺跡の入口で、アレンは一人の青年を見つめた。
金色の髪。青い瞳。
自分の身体だった。
「……アレン?」
「リリア……」
二人はしばらく何も言えなかった。
「……変な感じ」
「何が?」
「私が、そこにいる」
「それを言うなら、俺がこっちに立ってる方が変だ」
「あなた、私の顔でそんな難しい顔してたの?」
「お前こそ俺の顔で笑うな。気持ち悪い」
「ひどい!」
二人は笑った。
入れ替わって以来初めて、鏡越しではなく、同じ場所、同じ空気の中で。
そのころの二人にとって会う理由は、互いの身体の状態を確認し、元に戻る方法について情報を交換することだった。
少なくとも――そう思っていた。
◇
二度目に会ったのは、それから三年後。
入れ替わりから六年目のことだった。
リリアはもうアレンの身体を完全に使いこなしていた。
立ち姿も、剣を腰に下げる仕草も、笑ったときの表情さえ、アレンの知っている「昔の自分」ではなかった。
「……強くなったな」
「誰かさんが夜中に剣の振り方をうるさく教えるからよ」
「俺の身体を鈍らせられたら困る」
「まだそんなこと言ってる」
リリアは笑い、成長したアレンを見つめた。
「アレンも……変わったわね」
「そりゃ何年も経ってるからな」
「そうじゃなくて……綺麗になった」
「……お前の身体だぞ」
「分かってる。でも、不思議ね。昔はあなたを見ると『私の身体だ』って思ってたの」
リリアは静かに続けた。
「今は――あなたにしか見えない」
アレンは目の前の青年を見る。
かつて自分だった身体。
けれど、その表情も仕草も声の調子も、もう全部――。
「……それを言うなら、お前もだ」
「え?」
「もう俺には、俺の身体には見えない。リリアだ」
リリアはしばらく黙り、
「……そっか」
とだけ答えた。
その日、二人は以前より長く遺跡にいた。
◇
三度目。
入れ替わりから八年目。
情報交換は、とっくに終わっていた。
「……他に話すことは?」
「ない」
「そう」
「……」
「……」
夕暮れの遺跡に沈黙が落ちる。
「じゃあ、帰るか」
「……もう少しくらいいいじゃない」
「何が?」
「せっかく会えたんだから」
リリアは石壁へ背を預けた。
アレンは少し迷い――また腰を下ろした。
何を話すわけでもない。
ただ二人で夕暮れを眺めた。
それだけだった。
それでも二人とも、帰ろうとは言わなかった。
いつのころからか、鏡は元に戻る方法を探すためだけの道具ではなくなっていた。
秘密の会合も、情報交換のためだけではなくなっていた。
けれど――二人とも、それに名前をつけようとはしなかった。
◇
そして、十年目。
夜が深まったころ。
机の上に置かれた鏡の破片が、淡く輝いた。
アレンがそっと指を触れる。
ほぼ同時に、遠く離れた場所でもリリアがもう一つの破片へ触れた。
『アレン』
「リリア」
いつもの声。
だが、その夜の声は違った。
『人間の王が、魔族への総攻撃を決めた』
その知らせを伝えるリリアは二十六歳。
人間たちから勇者と認められ、軍を率いることを期待されていた。
アレンの表情が変わった。
魔族側でも主戦派の将軍たちが人間の王都への侵攻を求めている。
ヴァルガス自身は戦争を望んでいない。
だが人間が攻め込めば、魔王として軍を率いなければならない。
人間側も勇者を先頭に総攻撃を始めようとしている。
一度二つの軍が激突すれば、憎しみは次の憎しみを生む。
十年前と同じだ。
『こちらの将軍たちは、勇者が先陣に立てば勝てると言ってる』
「……お前はどうする」
『軍は連れていかない』
「何?」
『私一人で魔王城へ行く』
そして――
『私が魔王を倒す』
「リリア!」
『殺さない。倒すだけよ』
「どういう意味だ」
『父上は魔王よ。人間が攻めれば、魔族の王として戦わなければならない。でも、人間の勇者と魔王が、双方の軍を背負って一騎打ちをするなら?』
アレンは黙った。
『私が勝ったら、父上には人間との和平を受け入れてもらう』
「お父さまが勝ったら?」
『私は勇者として総攻撃への参加を拒否する。そして王を説得して、人間軍を退かせる』
「王が聞かなかったら?」
『今、人間側は私を先頭に立たせることを前提に作戦を組んでる。勇者が参加を拒めば、少なくとも予定通りの総攻撃はできない』
「……その間に和平交渉を始めるのか」
『うん』
軍と軍をぶつけるのではない。
勇者と魔王。
たった二人の決闘を、戦争を止めるための最初の一歩にする。
「……お父さまが、その条件を受けると思うのか?」
『だから、あなたにもお願いしたいの』
「俺に?」
『父上を説得して』
アレンは息を呑んだ。
『十年間、父上と一緒に暮らしてきたのはあなたでしょう? 今の父上が何を考えているのか、何を大切にしているのか。たぶん、実の娘だった私より、あなたの方が知ってる』
その言葉が胸へ刺さった。
『私は勇者として父上の前に立つ。だからアレンは――娘として、父上に話してほしい』
「リリア……」
『二人で止めよう』
十年前、互いの身体へ入れ替わった二人は、ただ元へ戻ることだけを願っていた。
けれど今は違う。
人間の世界で勇者として生きてきたリリア。
魔族の世界で魔王の娘として生きてきたアレン。
二人だからこそ、二つの世界を繋げられるのかもしれない。
「……それでも、お父さまが断ったら?」
『受けさせる』
「どうやって?」
『私、一人で行くのよ。人間の軍を一人も連れずに、勇者が魔王城まで来る。それでも父上が、勇者との一騎打ちから逃げると思う?』
アレンは思わず額へ手を当てた。
「……逃げないな」
『でしょう?』
「頑固だからな」
『誰に似たのかしら』
「お前だろ」
『アレンでしょ』
二人は小さく笑った。
『アレン』
「なんだ」
『私は父上を殺さない』
「……ああ」
『父上にも、人間を殺させない』
そして――
『あなたが愛してくれた私の父を、これ以上、孤独な王にはさせない』
アレンは答えなかった。
十年間、自分の身体で生きてきた少女。
泣きながら剣を握り、人々を守り、自分で考え、自分で選び、その一方で自分が魔王の娘として生きる方法を教えてくれた少女。
自分は彼女へ剣を教えた。
彼女は自分へ魔法を教えた。
自分は彼女へ人間の世界を教えた。
彼女は自分へ魔族の世界を教えた。
どちらか一人では、ここまで来られなかった。
いつからだろう。
鏡の向こうから声が聞こえるだけで、安心するようになったのは。
いつからだろう。
会える日を、待つようになったのは。
そしていつから――目の前にいる彼女を、自分の身体だと思わなくなったのは。
自分以上に勇者らしくなった、魔王の娘。
いや。
それだけではない。
アレンにとって、世界でただ一人。
自分が本当は誰なのかを知っている人。
そして――今の自分を作ってくれた人。
「……分かった」
『アレン?』
「一緒に、お父さまを説得しよう」
少し間があった。
『うん』
「魔王城で待っている」
『うん』
二人はしばらく黙っていた。
いつもなら、このあと決まってどちらかが口にする言葉があった。
――元に戻る方法は、何か分かった?
十年前から、何度も繰り返してきた問い。
けれど、その夜。
アレンは初めて――
元に戻る方法について尋ねなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
十年という時間の中で、アレンもリリアも少しずつ「相手の人生」ではなく、「今の自分の人生」を歩き始めています。
次回は、いよいよ勇者と魔王――そして二人が選んだ道が大きく動き始めます。
続きも楽しんでいただければ嬉しいです。




