旅は西へ
列車は草津線の終点草津駅にたどり着いた。夫婦にとって終点ではなく、京都へ向かう東海道本線との乗り継ぎ駅である。二人のニンジャは、夫婦が行く先を間違えないように、京都に向かう電車のホームまで導いた。ここから先は方向は同じだが、夫婦は各駅停車、二人のニンジャは急行に乗る。二人は親切にも、先にやってきた急行に乗り込んで、この次の電車に乗るようにと各駅停車を指示して、夫婦に向かって閉じたドアの向こうで人なつっこく手を振った。
夫婦もホームから手を振って応じていた。しかし、急行が西の方に姿を消すと、夫は真顔になって妻に向き合った。
「お前が草津へ行くなんて言うから、おかしなことになるんや」
良一は小声で妻に囁いた。駅のホームには大勢の乗客がいて、他人の目が気になったのである。しかし、佐知子の声は大きく、返事には遠慮がない。
「あんたかて、知らんかったやないの」
二人をまとめかけていた意識は綻びた。やがてやって来た各駅停車の車内は、席が全て埋まっているという程度に混んでいた。隣り合わせに座っている夫婦だが、佐知子には拗ねた夫がそっぽを向くように会話を避けているように思えた。ただ、良一は斜め向かいの年配の母子の会話に耳を傾けていたのである。良一には正確に再現することはできないが、その年配の母と娘の会話のアクセントや言い回しが、なぜか懐かしく祖母が思い起こされる。
(なるほど)
良一は納得した。昔は近江と呼ばれたこのあたりの土地の商人が、大阪に移り住んで大阪商人の一部をなした。大阪の一角の商人のコミュニティで、この土地の言葉が使われて引き継がれていたという事である。
電車は順調に走っていて、これから、琵琶湖がその尻尾とも言える瀬田川へ姿を変える、その付け根辺りを横切って京都へ向かうところである。良一は近江商人と自分の意外な関係を、その教えにたとえて妻に尋ねた。
「お前、『三方よし』って知ってるか?」
三方よし。客が喜び、商人も利益を上げつつ、社会貢献にもなっている。そんな取引を尊べという近江商人の教えである。しかし、妻は夫の言葉を聞いては居ない。
「ほらっ、琵琶湖よ、琵琶湖」
大騒ぎをするには気恥ずかしい。しかし、目の前に広がる日本一の湖を見つけたことをも誰かに報告したい衝動に駆られたのだろう。しかし、夫の返事は妻の言葉を拒絶した。
「あたりまえや。あれが十和田湖やったら、どないするっちゅうねん」
二人は互いの視線を避けて再び黙りこくった。電車は間もなく京都に到着する。その時、良一がふと思いついたように妻に尋ねた。
「お前、石山寺って行ったことあるか? 紫式部が源氏物語を書いたとこや」
佐知子は首を横に振った。良一は言葉を続けた。
「境内からの見晴らしがええねん。そこからちょっと足を伸ばしたら、ボケ封じで有名な岩間寺もあるんやで。お前に丁度ええがな」
夫の言葉は足らないか、悪意に満ちて、一言多すぎるかどちらかである。ただ、その提案も、実行すべきだったのははるか過去の話である。電車の中には間もなく、京都駅に到着するというアナウンスが流れるに違いないのである。石山寺に目的地を転じるためには、佐知子が琵琶湖を発見した次の停車駅で、この電車を降りていなければならなかったのである。
「あんたって、いつもそう」
佐知子は夫の優柔不断を責めた。この夫は几帳面な割に、何処か抜けていて優柔不断なのである。佐知子は過去の夫の優柔不断な行為を一つ一つを不満や不安とともに思いだし、良一は過去に妻に責められた失敗の一つ一つを苦い思いと共に思いだした。
「古いこと、思い出したって、しゃあないで」
「あんたの優柔不断に御利益のある神さんがおったら、真っ先に連れてったるわ」




