のどかな草津線?
駅の売店で伊勢名物の赤福餅を買い求めたから、夫婦は伊勢参りは済ませたつもりである。この駅から北に向かう電車は、良一たちを待つようにホームで停車していた。綺麗に磨き上げられていて、良一がイメージする古ぼけた田舎の電車のイメージがない。車内は進行方向に向かって左右に並ぶ二人掛けのシートがあり、良一はそのシートの一つに立ち止まって、顎でシートを指示した。妻に先に座れと言うのである。佐知子は夫の意図を察した。
(ホンマに、この人は)
窓際に座ったら、景色がようみえるで、と、その配慮を素直に口にすればいい。
良一は座席から浮かせた尻を撫でた。列車は山間の平地を走っているのだが、今までのどの列車よりも揺れて振動し、良一の尻にずっと電車のシートに座りっぱなしだと言うことを気付かせた。
「揺れるな」
良一は妻に語りかけたが、妻は応じず、別の質問を投げかけた。
「あらっ。『こうか』って読むものだったのね」
甲賀という地名を、夫婦は伊賀と並んで忍者と関係づけて記憶していた。もちろん佐知子も地名だけは知っている。その駅のホームの標識の漢字に「こうか」とふりがなが振ってあり、夫婦は初めて正式な読み方を知ったのである。
「ほんまや。『こうが』とちゃうんか?」
忍者遊びという子供の時の素直な記憶が戻ったのか、この時の良一は頷いた。その素直な表情に妻は考えた。
(素直なら、ええ人なんやけどねぇ)
この列車はその甲賀の里を発したが、(変てこなもんを見た)良一は露骨にそんな表情をして、車窓の外に目をそらした。
甲賀から乗り込んできたらしい白人のバックパッカーが二人、空いた座席を探してこの車両に姿を見せたのである。クマのように大柄な二人で、体格では区別が付かない。佐知子は眼鏡と顎髭の特徴を捉えてこの2人の区別をした。良一は人種的な偏見で目をそらしたわけではない。二人の額の鉢巻きには、日の丸と『忍者』という文字が描かれていて忍者マニアなのかもしれない。どこかの土産物店で手に入れたらしい。年齢は二人とも二十代後半か三十代に達するだろう。ニンジャ遊びをするには歳を取りすぎている。この種の珍妙な連中とあまり関わりになりたくはない。
彼らは背負っていた荷を軽々と網棚に乗せ、夫婦の1つ前の席に付いた。視線を避ける良一の表情に気付いている。見ず知らずの土地で、こういう視線を受けることがあるのだが、距離を置くより、話しかける方が誤解をときやすい。2人のバックパッカーはそれをよく知っている。髭面のニンジャが人なつっこく夫婦を振り返って、額の鉢巻きの文字を指さして言った。
「ニンジャ、知ってる?」
その笑顔が人なつっこい。聞くまでもない。こういうマニアは忍者について語らせたら、日本人の良一夫婦より遥かに詳しいに違いない。
「へぇ。奈良から柳生を回ってこられたの? 私たちもさっき奈良を通ってきたところ」
自分も同じ奈良からきたという単純な共通点で、佐知子は二人に好感を持った。二人のニンジャは、昨日、柳生の里のあと、伊賀の里を回って、今日はこの甲賀に来たのだと言った。そして、真田十勇士の名をすらすら挙げて、これから大阪城を訪ねるつもりだと付け加えた。
佐知子はさらにこの旅行者と共通項を見つけて、親近感を滲ませた。
「わたしたち、その大阪から来たのよ」
「私たちは、オーストラリアから来ました」
眼鏡のニンジャは言い、カンガルーの手つきを真似して、
「オーストラリア。カンガルーやコアラがいる国ですね」
日本人に愛されている動物を挙げて、暗に(オーストリア)と勘違いをしないでくれと念を押したのである。彼らから見れば明らかに、位置も文化も歴史も異なる二つの国を、日本人は混同していることがある。二人のニンジャはそういうことを何度か経験したのだろう。
「日本は寒いですね。大阪は暖かいですか?」
「そうか。季節が逆なのね」
日本の寒さを指摘した眼鏡をかけた方のニンジャに、佐知子は北半球と南半球の違いを言った。
「あなた、私をアメリカ人だと思った?」
この国の人々は白人を見ればアメリカ人だと思う癖がある。眼鏡の方のニンジャはそういう経験を繰り返して、良一にも当てはめたらしい。プライドがあって、自分たちの母国をちゃんと主張しておきたい。
様々な誤解をとくことが出来たと考えたのか、二人のニンジャは夫婦に背を向けて座り直した。これ以上、夫婦の会話に割り込むのも無粋というものだろう。
良一の腹が鳴った。考えてみれば夫婦は朝五時に簡単な朝食を取ったあと、和歌山で買った一人分のサンドイッチを伊勢に向かう電車の中で、分けて食べた。二人の食事はそれだけだ。佐知子は土産物の包みを指さした。
「開けよか?」
佐知子は夫のために、土産物の赤福餅をここで食べようかというのである。
「いらんわ。俺はお前みたいに、電車の中で物を喰うような田舎モンやない。」
「あんたのために言うたってんのに……、時々、あんたの首、締めたろかて思うことがあるで」
「俺もな、思うねん。今晩、このカミさんを石にくくりつけて温泉に沈めたったら気持ええやろな」
「あんた、私と一緒に混浴に入るつもりちゃうやろね。すけべ」
前の座席で二人のニンジャは、顔を見合わせて笑い合った。背後から聞こえる夫婦の会話が聞き流すには大きすぎるのだが、耳障りだと言うより、掛け合い漫才のようで面白い。
(さすがは……)とニンジャたちは思った。
日本のコメディの中心地の大阪の夫婦だけのことはある。ただ、夫婦のために確認して置いた方が良い。眼鏡のニンジャが夫婦を振り返った。
「失礼ですが、温泉のある「クサツ」に行かれるんですか?」
夫婦の会話から漏れ聞こえた「クサツ」という地名と「温泉」という話題に、このひげ面のニンジャは疑問を抱いたのである。この列車の終点の滋賀県の草津は、温泉で有名な群馬県の草津ではないと、夫婦に諭した。
地名が同じなので、時々、勘違いをしている日本人がいるとも語った。旅行慣れしたバックパッカーの、土地勘のない人を恥じさせないようにとの優しい配慮が籠もっている。
「例えば、この列車の出発点の柘植の近くに『不動滝』がありますが、同じ地名が日本国内に幾つもあります。お不動さんの祠などの土地の固有の特徴やモニュメントと、滝という地形が組み合わさって、偶然に同じ地名になったんでしょう。草津の場合、『津』というのは港などを背後に控えて人が集まる所とされていますね。そういう人が集まる宿場のような場所が、草むした地形の中にあって、同じ草津の名が幾つかあるんじゃないでしょうか」
二人のニンジャは学問的な見知を語った。このニンジャたちは、こちらの分野が専門なのかもしれない。
しかし、学問的な解釈はどうでもよく、夫婦は顔を見合わせた。群馬県の草津は遠すぎるだろうし、白浜温泉ははるか南に距離が隔てられてしまった。突然に、彼らは旅の目的地を失ったのである。夫婦が落胆して見えたのだろう、ニンジャは日本には温泉なら何処にでもあると、二人を慰めた。草津線の駅を幾つか戻れば塩野か宮乃で温泉に入れるだろうとも提案した。この辺り、外国人の彼等の方が日本の地理に詳しい。
(戻る)と言うことに夫婦は、二人そろって抵抗を感じた。
この旅行を白紙に戻すような気がしたのである。温泉というのは、夫と妻の両方にとって1つの名目に過ぎない。
二人は地図や旅行ガイドブックに視線を落とした。この滋賀県の草津から、戻らないで行ける最も近い観光地と言えば、琵琶湖の湖畔か京都になるだろう。この時期、琵琶湖の湖畔というのはいかにも寒そうだという点で夫婦の意見は一致した。ひょっとすると、夫婦が互いの意見に素直に頷いて同意したのは、ここ数年来久しぶりの出来事だったのかもしれない。




