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滋賀の草津は

 やがて到着した奈良駅で、佐知子の手を引く良一は、駅を出ようとしない。

「ちょっと、あんた。どこ行くのん」

「おまえ、さっき、奈良は嫌や、お伊勢さんに行きたい言うてたやろ」

 確かに、彼女にはそんなことを言った覚えがある。奈良駅から加茂駅で乗り継いで、伊勢市に向かうルートがある。夫の多少勝ち誇った声音が腹立たしく、佐知子も反対はしない。

 夫婦は駅を出ることなく電車を乗り継いだ。この駅を一歩出れば、東大寺や興福寺、春日大社などの寺社仏閣を始め、訪れるべき名所は数え切れない。目的地を持たなくとも、風景に染まりながらのんびり鹿と戯れて散策してもいい。そんな恵まれた場所を、惜しげもなくパスしたのである。

「もうっ。いつまで持ってるつもりやのん?」

 佐知子は奈良を発した列車の中で、夫から紙袋を奪うように手に入れた。夫はショルダーバックとは別に、パンの入った紙袋を後生大事に抱え込んでいて、がさがさ五月蝿く目障りなのである。第一、彼女は多少、小腹が空いた。佐知子はサンドイッチのパックを開けて中身を検分し、ハムサンドとチーズサンドをより分けて、チーズサンドを温く味の残った缶コーヒーと共に夫に押しつけた。彼女はチーズが苦手なのである。彼女はよく良一のわがままを指摘する。良一は、たしかに、指摘通りかもしれないと思いつつ、より分けられ与えられたサンドイッチをみると、妻の主張は一方的過ぎるような気がするだろう。

「おまえ、さっきは電車の中で、物を喰うなて言うてたやないか」

「頭の固い人やね。駅弁やと思たらええんよ」

 サンドイッチは夫婦和合のアイテムとはならないまま、二人の腹の中に消え失せてしまった。佐知子はコーヒーの空き缶二つ、空になったサンドイッチのプラスチック容器を手際よく紙袋に戻して、後は貴男の仕事だと言わんばかりに夫の手に戻した。


 乗り換えに降り立った加茂駅で、乗り継ぐ電車を待って、30分ほど時間が空いた。良一は手にした紙袋を捨てるゴミ箱を探しつつ、駅舎の中にあった記念スタンプを見つけて、ゴミ箱を忘れた。ショルダーバックを探ったがスタンプを押せるものが見つからない。周囲を見回すとゴミ箱が見つかった。紙袋から空き缶とプラスチック容器を取り出して、ちゃんと分別してゴミ箱に捨てた。

 そんな夫の姿を妻は傍らで眺めていたが、やがて首をかしげた。夫は紙袋を折り目を丁寧に広げて捨てる気配がないのである。ただ、すぐにその意図を察した。良一は嬉々として紙袋に記念スタンプを押し、その文字を読みあげた。

「吉祥天女の微笑む浄瑠璃寺への駅」

「止めえな。恥ずかしいやんか」

 妻は夫に子供じみたことをするなと言うのである。良一夫婦に伊勢参りを示唆した老夫婦は浄瑠璃時に参拝すると言い残して、改札口から姿を消していた。駅舎の中やホームに残る乗降客は良一夫婦のみである。二人は平日の早朝だと言うことを思い出しつつ、吹きさらしのホームの寒さを避けて、駅舎のベンチに腰掛けていた。新たな男女の出現に気づいたのは、そこに響いた若い女の言葉である。

「止めて、恥ずかしいじゃない」

 若い女がさっき佐知子が放った非難を、別のアクセントで言ったのである。二十代半ばの男女で、関係は恋人とも夫婦とも判別はできないが、佐知子は若い女が男のわがままに振り回される雰囲気を読み取って、夫婦だろうと思った。事実、その通りだった。

「へぇ、東京からわざわざ……」

 若い女が語る出身地に、佐知子は驚きと敬意をこめてそう言った。地元の人間らしい駅員の姿があって、こんな田舎という表現は口ごもって避けたが、確かに、この駅ののんびりした風情は東京との距離の長さを感じさせる。

「ええっ、あの人の趣味につきあわされて」

 そう語る若い妻のあきらめが混じった柔らかな視線の先に、二人の夫が居る。

「へぇ、年季が入ってるやんか」

 若い男に見せられたスタンプ帳を眺め回した良一は、敬意を込めて評しながら、サンドイッチの紙袋に押したスタンプを無造作に折りたたんでポケットに隠した。スタンプの収集という点で良一はこの若い男の勝ちを認めた。男というのはこういう場合、幾つになっても子供と変わりがない。

 佐知子は若い妻と顔を見合わせて笑った。夫たちから漏れ聞こえる話を聞けば、この若い妻は、趣味につき合わされて旅をしているのである。年齢的に離れているのに、この二人の妻の気が合うのは、互いに共通の悩みを抱えて共感を感じるからだろう。

 若い夫は、まもなくやってきた電車に興味は示さず、申し訳程度に数枚の写真を撮っただけで、良一夫婦と電車に乗り込んだ。これも、一種の鉄道マニアなのだろうか。この若い夫は、鉄道の車両ではなく、駅舎の写真や記念スタンプを集めるのが趣味だという。

「たぶん男って、こうやって何かを征服した気になるのね」

 若い妻が夫を称したので、その通りだと自分の経験を込めて佐知子は頷いた。若い夫は言った。

「この沿線は、駅と駅の間隔が開いてるんで、何か落ち着いた感じがしますね」

(そのとおりや)

 良一も頷いた。駅舎を撮影して回っている若い夫にとっては不都合なことかもしれないが、駅が少ないというのは列車の振動に身を任せることが出来て、この旅の雰囲気はいい。木々に囲まれた渓谷沿いに、がたごと走って景色を楽しむ風情がある。間近では急流であるはずの木津川も、この沿線の車窓から距離を置いて眺めると、流れまでゆったりしているようで、紅葉の季節なら美しさがもっと引き立つに違いない。

「この木々は紅葉するのかしら」

 この時期は枝ばかりになって木々を眺めて若い妻が佐知子にぼやいた。駅舎撮影の趣味につき合わされて、旅行はしていても、花や紅葉などの、季節にあった旅行をしたことがないと言うのである。男のわがままと言う点で、佐知子も若い妻に大きく頷いて同意した。

突然に、夫は妻に切符を要求した。車掌が車内に回ってきたのに気づいて、乗り継ぎ切符を頼むつもりである。佐知子は夫自身によってではなく、夫が引き留めるように呼び止めた車掌が振り返った姿でようやく夫の意図を察した。

 もちろん車掌は笑顔で求めに応じたが、手渡された切符を見て、人の良い笑顔に困惑が浮かんだ。別に、夫婦の責任ではないが、長年車掌をしていると、切符を買い求める人物を見れば、乗客の意図を察することが出来る。無人駅で乗り込んで、この電車の沿線で降車するつもりだとか、目的地をつい乗り過ごしたとか、目的地の違う電車に誤って乗ってしまったとか、ふと、陽気に誘われて目的地を変更したとか、考えればきりがない。この夫婦の場合はどれにも当てはまらない。まるで明確な目標を持たぬまま彷徨っている感じがするのである。車掌はあえてこの列車の終点の亀山駅を指定せずに言った。

「切符は降りた駅で精算なさってください」

 車掌が戻り、列車が渓谷に別れを告げると、間もなく伊賀に到着する。お転婆だった佐知子は子供の頃に忍者遊びを経験しているから、この忍者で有名な地名はよく知っている。折り紙で手裏剣を折った記憶が指先に残っていて、たぶん、今でも作れるだろう。そういう話をしようと、若い妻の方を眺めると、彼女はそんな話題どころではなく、電車の外を眺めてヤキモキしている様子が見て取れる。停車中にホームに出た夫が写真を撮るのに夢中になっている。列車の発車のベルが鳴っていた。

「お客さんっ」

 車掌が年を経たカメラ小僧に電車に戻れと注意をした。停車の都度、ホームに同じカメラ小僧を見かけたので、彼の旅の意図を察していたらしい。こういう配慮が行き届くのは良一の気に入った。都会の電車の車掌ならこうはゆくまい。佐知子はヤキモキする若い妻の様子が微笑ましい。この世の中で、夫の身勝手につき合わされてうろたえるのは、自分だけではないらしい。

「ゆっくり温泉にでも入る予定やったんやけどねぇ」

 良一は若い夫に語った。もちろん、良一の傍らの佐知子は眉をひそめた。白浜で温泉に入る予定だったのがダメになった、その事を自分のせいにしているような気がして不愉快だ。

「次で降りましょう」

 佐知子は夫に有無を言わせず断言した。彼女は地図で草津という地名を探り当てたのである。草津と言えば温泉に決まっている。三重県に向かう関西本線を柘植駅で乗り換えれば、滋賀県の草津が北にある。二人はこの若い夫婦と柘植で別れを告げた。やはり、若い夫はホームで写真を撮るのに夢中で電車の中の妻をヤキモキさせている。佐知子の見るところ、この若い妻には夫のわがままを包み込む優しい包容力があって、いい夫婦に育つと思った。



夫婦のすれ違いは、JR草津線の中でも明らかになっていきます。そんな勘違い夫婦の行く先は……

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