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伊勢参りへ

 

 二人は列車を乗り継いだ。目的地を奈良に変更すると言うことに、互いに異論はない。二人は隣り合わせに座っているのだが、むっつり黙りこくって、互いの視線を避けている。時は朝の8時で、この日はまだ始まったばかりと言ってもいい。

 二人を乗せた列車は、山の麓に点在する町を一つづつ結んで、次の一歩を確認して踏み出す年寄りの歩みのように、落ち着いた雰囲気で走っている。最初の目的地はこの山脈の向こうの遙か南側である。そびえる山の峰はさほど険しさはなく、ほっこり滑らかで優しい。しかし、山に隔てられて南北を直線で結ぶルートはない。ふと気づけば、この夫婦の関係を象徴するように、列車は白浜と隔てられてしまったのである。

「何、それ?」

 佐知子は良一が、がさがさと膝に抱える紙袋のことを聞いた。良一は袋の口を開けて佐知子に中身を明かした。

「サンドイッチやがな。腹減ってないか?」

「恥ずかしいで、あんた。こんなとこで食べるつもりやったん?」

 4両編成の短い列車は、席が全て埋まっていて、吊革に掴まっている乗客の姿をちらほら見かけるほど混んでいる。たしかに、この環境で食事をするのは憚られる。


 突然に、夫婦がそろって眉をひそめたのは、高校生らしい少女たちの声がかん高く、夫婦の耳を射たからである。他の乗客の迷惑を顧みない、かん高いおしゃべりが存在するというのは、大阪と変わりがない。

(不躾な……)

 夫に同意を求めようとした佐知子は、夫の表情にさっきまでの反感を蘇らせた。

『日本の美人の人口密度には、ひどい偏りがあって、大阪の男は日本で一番、損をしている』

 全大阪の女の神経を、ぐりぐり逆なでするようなことを言ったことがある。少女を眺める夫の姿に、そんな昔の言葉を思いだしたのである。数十年前には笑って聞き流していた言葉だが、今は許せない気分なのである。

(へえっ)

 良一はため息を付きながら驚くように思った。再び、女子高生たちに目を転じると、おしゃべりに飽きて、何か考え事をするようにうつむき加減に黙ってしまっている。決して美人とは言えないが、その少女の表情が質朴な雰囲気を漂わせていて愛らしいのである。都会の喧噪に染まらなければ、日本女性というのはこういう親しみやすさを持っているのかもしれない。

 夫婦を乗せた電車は、それだけが義務であるかのように、減速と加速を繰り返して一駅ごとに停車する。車窓に移り変わる景色のように、夫婦はすれ違ったままだが、時々、二人を繋ごうとするように、どちらかが言葉を発する。

「ねぇ、あれが香具山なの?」

 この路線の駅名と、目の前の光景を重ねて、佐知子は夫に尋ねた。背後の車窓に目を転じると、今までの連なった山並みと対照的に、奈良盆地の中にお椀を伏せたような隆起があって、その柔らかな曲線が女性の乳房を連想させる。彼女はその山の名が知りたいと思い、たまたま停車した香具山駅の名とあわせて推測したのである。

「わかれへんわ」

 良一は短く答えた。中途半端な知ったかぶりは恥をかくだけだと言うことを学んだらしい。佐知子はあれが香具山だと勝手に決めた。

「ちょっと、」

 佐知子は浮かせた尻を右側の夫にぶつけて、気の利かない夫に、少し席を譲れと指示をした。佐知子の左側に人が二人座れるかどうかと言うスペースがあり、もう少しこの幅を大きくすれば、今し方、その香具山駅から電車に乗り込んできた老夫婦が並んでゆったり座れるだろう。老夫婦は良一夫婦より歳を20ばかり経ているようだ。指は節くれ立っていて農夫のものだが、腰の曲がった妻を導く夫の手が優しく、羨ましい夫婦の関係を思わせる。

(あんたも、あれを見習ったらどお?)

 佐知子は夫にそう主張したい。老夫婦は二人で伊勢神宮を参拝するのだという。

「へえっ。お伊勢参りですか。よろしぃなぁ」

 佐知子は隣に座った老夫婦を良一の代わりの相手に選んで話しかけた。

「うちらは、この寒い中、奈良を歩きますんやで」

 良一は妻の言葉に、心密かに腹立たしい。せっかく目的地を奈良に変更することに同意してやったのに、妻はそれを夫のせいにして不満を別の老人に漏らしているのである。

(お伊勢参りか?)

 良一はそう思った。大阪の人々にとって、やや懐かしい響きがある。良一のような年齢の大阪人の小学校の修学旅行先は、大抵、この伊勢に決まっている。良一も佐知子も出身校は違っても、修学旅行の行く先は伊勢だった。

 ただ、伊勢という土地は、良一たちにとって、遠出と言うには近すぎ、気まぐれに訪れるには遠すぎる。観光の空白地と言えるかもしれない。そこに訪れる口実が出来たと言うことは、久しぶりに、という郷愁を誘ったりするのである。良一は地図の路線を指でなぞって、伊勢の位置を探り当てた。


 大阪人夫婦の旅は、和歌山から奈良へ、奈良から伊勢へと続いていくのでしょうか。


 物語は全九話の予定です。以後完結まで毎日新たなエピソードを追加しますね。車内で夫婦漫才を繰り広げるかのような夫婦の旅を、終着点まで見守ってやってください。

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