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奈良へ

 白浜という温泉地は、地理に疎い佐知子でも知っている。大阪の堺市の自宅から見れば、JR阪和線で和歌山まででて、電車を乗り継いだ終点の町である。

 温泉へ向かう道すがら、和歌山で途中下車して市内の観光の時間を費やしたとしても、夫婦の自宅から、白浜温泉まで三、四時間といったところか。ゆっくりと温泉に浸かって一泊するとすれば、昼過ぎに自宅を出発すればいい。


 佐知子がのんびりした旅行を望んだにも関わらず、今、夫婦が居るJR浅香駅のホームは、朝の6時半を回ったところで、夜が明けて間もなく、吐く息は白く、外気に晒された肌は凍る。几帳面にスケジュール通りに物事を進めなければ気が済まない夫は、昨夜、朝4時前に目覚まし時計を合わせて、旅行の準備を打ち切っていた。この日の朝、彼女はそんな時間に叩き起こされて、欠伸をかみしめながら電車を待っていたのである。

 やってきた電車に乗り込んだ良一は、車内を見回した。

「おちついた雰囲気やな」

 平日の各駅停車である、乗客は多くない。その状況を、良一は周りを見回して、そういう言葉で称したのである。

(それだけが理由やないわ)

 佐知子はそう思った。通勤ラッシュの時間から大きくずれていて、こんな朝早くから好きこのんで電車に乗る人間がいないだけである。ぽつりぽつり人が居て、人より空いている席の方が多い。

(どこにでも座ればいいのに)

 佐知子の不満をあおったのは、夫が車両中央の席に陣取って手招きで妻の席を指定したことである。佐知子の感覚で言うと、和歌山に行くには次の駅で急行に乗り換える必要があるだろう。ドアに近い席の方が便利なのである。

「ちゃう。各駅停車でのんびり行くんや」

 次の駅が迫ったとき、席から立ち上がりかけた佐知子を制して良一はそう言った。たっぷり時間があるから、各駅停車でゆっくりした旅気分を味わおうと言うのである。

(早朝暗い内から、叩き起こした理由はそれ?)

 夫は自分勝手な決断をし、相談もせずに押しつける。そういう不満が鬱積して佐知子の表情から滲み出して、夫に対する不信感を醸し出している。さらに佐知子の不安が混じった反感をあおったのは、今朝の外出のドアを閉めた瞬間、夫が発した言葉を思い出したからである。

「平日やからな、どこの旅館もがらがらやがな」

 夫は調べもせずに勝手に推測して、運命に身を任せて行き当たりばったりに宿を取るつもりでいる。夫婦は今夜の宿を予約していないのである。

(ひょっとしたら、今夜は温泉どころか、白浜の街で野宿することになるかもしれない)

 佐知子は夫の推測に不安を抱いた。普段は臆病と言えるほど、几帳面で段取りを考える夫が、今日は一転してのんびりした曖昧さを主張するのである。曖昧で成り行きのまま生活するも、ノウハウや経験を要する、夫にそんな経験があるはずがない。どこかに致命的な齟齬が生じるに違いない。


 良一の算段は別にあった。夫婦の隙間を埋めるために会話をしようにも共通の話題がない。事実、出発前に、妻が文庫本をバッグにしまい込んだのが見えた。単調な電車の旅の時間を、あの本で潰すつもりだろうと思った。各駅停車の旅行なら、仲良く並んだ夫婦に、その土地の乗降客や。車窓からの風景が適度に話題を与えてくれるに違いない。

(のんびりした旅行も、無駄やないやろ)

 良一は妻にそう威張ってみせることが出来るはずだった。しかし、和歌山行きの電車に乗るなど十年ぶりだった。実際に電車に乗ってみると、自信が揺らいだ。内心、それを認めざるを得なかった時、良一は大げさにも、自分の人生に思いをめぐらせた。良一は自宅と大阪市内の会社の往復に人生を費やしていたのである。しかし、結婚してから、何処にもつれていってもらってへん。そんな妻の不満には思い至らないのである。良一は話題を変えた。

「うん。和歌山県人っていう雰囲気やな」

 古い田舎の行商人姿の女性が、大きな風呂敷包みを背負って車中に入ってきた。良一はその女性の姿から出身地を評したのだった。駅の近くには小売業者に生鮮食料品を卸す中央卸売市場がある。そこで野菜を買い付けたのだろうと考えたらしい。見るからに使い慣れた風呂敷包みから、青々とした生命観のある大根の葉の先がのぞき見える。その大根を見た良一は、更に言葉を続けた。

「雑賀孫一の時代から、和歌山の女性というものは、ああいうものなんや」

 夫はこれから出向く和歌山という土地に敬意を込めて、唯一、和歌山の有名人として知っている人物の名を挙げて、その行商人の明るく質朴で働き者といった雰囲気を誉め称えた。


 ぷっと、佐知子は吹き出した。意図して夫にその笑顔を見せた。列車が堺市駅を発ってからわずか一駅目、時間で言えば数分の距離である。そこで和歌山県人であるべき女性が列車を降りた。もちろん、ここは和歌山どころか大阪府の一角である。あの女性はれっきとした大阪のおばちゃんらしい。冷静に考えてみれば、大阪で数本の大根を購入して和歌山に売りに行くという商売が成り立つはずがないのである。佐知子の目から見て、彼女が背負った大根はスーパーの店頭のものより小振りで、おそらく家庭菜園で作ったものを、自慢話のついでに息子夫婦の家にでも届けてやるつもりなのだろう。その女性に対してではなく、その女性を評した夫の顔が面白かったのである。自分の勘違いを、むっつり黙った不機嫌な表情で隠している。

 もちろん、この後、夫婦の会話は途絶えてしまった。良一は黙っていると言うことを全く苦にしない質だが、この時は、彼の横で表情も変えない妻の沈黙に耐えかねたらしい。良一は妻ではなく、隣の席の男を捕まえて、旅の話を始めた。

「ほんまは、奈良のお寺をゆっくり回って歩きたかったんやけど」

「ほんになぁ。今の時期の奈良は、凛と、空気が透き通るようで、ええ雰囲気ですわ」

 ゆったりした口調で語る老人と会話する夫の話題が、佐知子には腹立たしい。旅行の相談を受けた時に、夫はそんな地名は一切口にしなかった。自分に同情でもして自説を曲げて、白浜に連れていってくれると言うのだろうか。

 既に、列車は和歌山県に入っているはずだが、車窓に見える景色は住宅地や店舗が並んで見えて、良一が期待した田舎の雰囲気がない。

「えっ。長崎?」

 和歌山に向かう電車の中のアナウンスで、九州を連想する場違いな駅名を聞いたような気がした。良一はそれを傍らの妻に確認したのである。

「長滝・な・がぁ・たぁ・きぃ」

 佐知子は夫の聞き違いを、一音ごとに区切って訂正した。その口調や目つきに夫を侮蔑する色が滲み出していて、早朝から彼女を叩き起こした夫に復讐しているらしい。

 その長滝を過ぎる辺りから、この路線を囲む木々が多くなる。その木々を通してぽつりぽつり点在する集落が見え、良一が考える田舎の雰囲気に近づく気配がする。しかし、その雰囲気は次第に失われて和歌山駅に到着した。JR阪和線の南の終点である。

 駅舎越しに見える光景の賑やかさは、大阪の街と変わりがない。彼が住む浅香近辺に比べれば、よほど大都会なのである。良一は正午を目安に、和歌山市内を観光した後、何か温かい食事をとってから、白浜へ向かうスケジュールを頭に描いている。

 そのスケジュールを頭に描きつつ、良一は駅の売店でサンドイッチを一パックと缶コーヒーを2本購入した。朝食の時間が早かったので、やや小腹が空いている。しかし、昼食時間にも近い。和歌山城辺りを夫婦で散策しながら、おやつ代わりに食べるには丁度良い分量だろう。そして、一パックのサンドイッチを分け合って食べるという行為は、夫婦の絆を高める効能を生み出すに違いない。


 しかし、妻に目を転じてみれば、先ほどから、佐知子は旅行のガイドブックを眺めつつ考えていたことがある。

「どこへいくんや?」

 良一は無言で手を引く妻に不平を言った。佐知子は良一の手を引いて、白浜行きの列車のホームにも、改札口にも背を向けた。ガイドブックによれば、この駅から奈良に向かう列車が出ているのである。

「あんた。さっき奈良に行きたいって言うてたやんか」

 意味のない同情で白浜に連れていって頂くのはゴメンだと思ったのである。もちろん、良一にも言い分がある。確かに、老人とそんな会話をした覚えがある。しかし、そんな言葉尻を捉えて、言いがかりをつけられているようで不愉快だ。


二人で仲良く奈良観光が出来れば良いのですが……。でも、大阪人の夫婦には喜劇がつきまといます。


 ちなみにこの物語は、大阪の某地方文学賞に応募した作品を改稿したものです。

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