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旅立ち 和歌山と言えば白浜温泉

 ひょんな事で、旅に出た大阪の夫婦ですが、些細な出来事で、次から次へと目的地が変わって……

 良一の呼吸を白く緩やかに吹き戻して、凍り付いた風がその存在を露わにする。夜が明けて間もなく、最も冷え込む時間帯の河畔の公園である。耳を澄ませば、彼の吐息が聞こえるほど荒い。時折、鉄橋を通過する電車の音がなければ、心臓の鼓動までかき消されずに聞こえるのではないだろうか。

 良一はこの散歩に、足腰の衰えを防ぐためという明確な目的を主張している。その点、妻の佐知子と価値観が合わない。一ヶ月前に夫婦が始めた早朝の散歩は、妻の反感を買った。

(なんで、こんな寒いときに、息を切らすようなしんどい散歩をせなあかんの?)

 ここ数日、良一はたった一人で、朝六時に起床して顔を洗い、身繕いをして柱時計の下のストーブで体を暖める。七時に家を出て、四十分きっかりで帰宅するという、几帳面な散歩を欠かさず続けている。このスケジュールの正確さが良一に散歩を続けさせているのである。実は、良一も足腰の衰えを感じて、しんどい。しかし、男としての誇りがかかっていて、やめるとは言い出しにくいのである。

 奈良に源流を発する大和川は、大阪に入って堺市と大阪市を隔てて流れ、大阪湾に注ぐ。良一夫妻の住居はこの川で大阪市と隔てられていた。そして、土地が川で隔てられる様子を象徴するように、良一は人の姿を飾る言葉について考えていた。

(大阪の言葉も気質も、そして人々も、幾つもあって一様ではない)


 大阪の言葉が美しい。そんな表現すれば、怪訝な表情をする人々が多いだろう。しかし、大阪商人の娘として大阪市で生まれ育った良一の祖母が語る大阪言葉は、実に美しく優しい響きを持っていた。ただ、この言葉という点では血脈は途絶えたようで、良一は祖母の大阪言葉を話すことが出来ない。

 大阪言葉は聞いていて怖い。そう評する人々もいる。良一は大阪生まれの人間として、そんな感想を首を傾げて聞いていた。実感がないのである。しかし、ドラマで描かれる大阪の中で過ごせば、田舎者がいきなり江戸っ子の群に放り込まれたように、生の言葉の荒々しさに不安感を感じ、面食らうに違いない。

 大阪で生まれ育った良一自身が、妙なことにそんな経験を持っていた。良一は北河内と呼ばれる大阪北東部で生まれ育った。しかし、大阪市南部の天王寺近郊の会社に就職後に、通勤に便利だという理由で、南海電車沿線を転々として、四十代始めにこの大和川のすぐ南に居を構えた。この大阪府南部の地域で、良一は大阪の人間でありながら、大阪言葉が怖いという感覚を味わったのである。このあたりの土地で初めて聞いた言葉は、確かに、ドラマの中の大阪弁そのもので、喧嘩でもしているのかと訝りたくなるのである。確かに荒っぽい感じがし、時には、笑顔で会話する相手に腹立たしさを感じることさえある。しかし、言葉に慣れてみると、その中身は実にあっけらかんとした、感情にも人柄にも表裏がない透明な明るさや開放感を持っている。浪速っ子にとって嫌な表現だが、江戸っ子の素直な性根に、蓄財が出来る知性が加われば、この地域の大阪人になるのではないかと思うのである。

 良一の生まれ故郷に住む父親が、同じ大阪言葉で、しみじみ語ったことがある。

「お前、言葉が荒ろなったな」

 この土地で四半世紀を経過して、今の良一は、この地域の言葉や気質が荒いとは思わない。しかし、父親から見れば、息子が気づかないうちに土地の香りが染みついていたらしい。ただ、素地には変わりがない。

 人々が言葉を作り出していて、言葉の持つ気質は人々にも当てはまる。ここは古墳が点在するほどの古い町だが、自治権を誇った昔から、大きく外部に門戸が開かれている。閉鎖社会で醸造された気質ではなく、この街に流入する人々がスパイスになって醸し出した気質である。良一に比べてよほど流暢に、この南部の大阪言葉を話す近所の人々が、正月明けに、四国や沖縄の土産物を持ってきてくれることがあり、浪速っ子だと信じていた人が、そうではなかったと気付かされるのである。

 そうやって、この土地で塗り固められた外見の隙間から、言葉や気質の違いが顔を見せる様子は、良一夫婦に似ている。長年連れ添った一組の夫婦だが、言葉や習慣の飾りが綻びて、その隙間から互いに違った価値観を覗かせているのである。


 自宅に戻った良一は、冷え切った上着を脱いで素肌を居間の暖かな空気に晒した。この一家に漂う雰囲気に身を晒す気がした。彼はふと気づいて、台所の境を区切る柱を撫でた。この家に大黒柱というものがあるなら、この柱に違いない。十センチ角という柱の太さは、大黒柱と呼ぶにはやや儚い。しかし、その表面は、幼い頃の娘が付けた傷まで、柱の木目の一部であったように溶け込んで、しっとりと体温を感じさせる。ただ、この家の歴史を味わう夫は首をかしげた。

 台所から漂う香りが原因である。いつもは質素な台所のテーブルに、その朝はみそ汁の代わりに鯛のお澄ましが付いていた。この家に二人っきりになった夫婦にとって、長年のお祝いのメニューだが、良一には心当たりがなかった。彼女の誕生日ではなく、まして、自分の誕生日でもない。1月初旬の肌寒い気温は、結婚記念日とも重ならないのである。ついさっきまで、一家の思い出に浸っていた良一は首をかしげて古女房に問うた。

「おいっ。何か、お祝いでもあったんか?」

 妻の佐知子は一拍の間をおいて、非難じみた口調で問い返してきた。

「あんた。ホントに忘れてるのん?」

 今月、この家のローンを払い終わったと言うのである。30年間に渡って続いた借金の重みから解放されて、今日を境に間違いなく、この小さな一軒家は晴れて夫婦の持ち物なのである。

 佐知子はやや首を傾げて夫を眺めた。この記念すべき日を喜んでいる様子がない。自分が夫の忘れていた事実を掘り返して指摘した。その自分に対する反感やろかと彼女は思った。良一は非難じみた口調の妻ではなく、ローンを払い終わったでと二人の共通の祝い事として笑顔を浮かべる優しい妻を期待している。二人は妙にずれているのである。

(いつの頃からやろう?)

 夫婦の間の会話が途切れているのである。すれ違うというわけではない。考える対象は同じだが、いつの間にか夫婦の価値観が異なっていて、夫の言葉に妻が納得できず、妻の言葉に夫は言いがかりをつけられるような反感を生むのである。夫婦の会話が対立を呼ぶ。二人は会話が減っていると言うことは自覚しているのだが、この二人が意図して会話を減らしているという事実が、この小さな家で夫婦でいられる理由なのかもしれない。

 たしかに、この瞬間も二人の価値観は異なっている。妻が考えるこの家ローンの記憶ではなく、良一は正月の記憶を辿っていた。何年前の正月だったのか、経過した年月は覚えていないが、その寂しさははっきり記憶に残っている。永年勤め上げた弱電メーカーを総務課長まで登って、定年退職をした翌年の正月のことである。受け取る年賀状の枚数が激減した。几帳面な夫のおかげで、老後の蓄えはあって、夫婦は質素ながら金銭的な不安が無い。佐知子にとっては、年賀状の枚数など、たいした問題ではないらしい。

しかし、激減した年賀状が、良一に世の中から切り離されてしまったことを教え、孤独感を煽ったのである。そして、年賀状の枚数を数える寂しさが、ローンを払い終わったと言うことと重ねあわせて、この世の中からまた一つ切り離されてしまったような気がするのだろう。佐知子は、こんな夫の心情を察することなく、素直にこの記念日を祝っているのである。良一はほっと重荷を下ろしたような安堵感の反面、そんな妻の素直さが多少腹立たしいのである。

「痛たっ」

 良一は眉をひそめて尻を撫でた。昨日、風呂場で転んで尻を打ち付けた時の痛みが引かず、歳を取ったと思わざるを得ない。同時に、広げた新聞越しに見える妻の横顔に、今朝はちょっと後ろめたいのである。昨夜、良一は妻と些細な口論を一方的に打ち切って、熱い風呂にゆっくり浸かるつもりで風呂場に入った。床のタイルの一部にぬるりと洗剤が洗い残っていた。その床で足を滑らせて尻を打ったのである。風呂場を洗った妻が、ひょっとすれば、意図的に、洗い残したのかもしれない。面子のようなものがあって、転んだという事実を妻には伏せている。しかし、この女は俺を殺すつもりだろうかと訝る気持ちが湧いた。もちろん、そんなことはあり得ず、想像を飛躍させたことを思い起こすだけで恥ずかしい。

(俺は、何時、こんな馬鹿なことで、こいつを疑うようになったんやろ)

 生真面目な夫は、そう自分を振り返るのである。

「二人でゆっくり温泉でもどうや?」

 良一は提案を重ねた。

「白浜と有馬、どっちがええ?」

 良一は新聞の折り込みチラシを妻に見せた。旅行会社のチラシで、土地の名所や名産品の写真に重ねて、その観光地の名と旅費が印刷されている。旅行を提案したのは、妻を疑った罪滅ぼしのつもりである。

 たまには夫婦でゆっくりと温泉につかるには丁度良いのではないかというのである。

(単純なひと……)

 佐知子はそう考えた。夫はじっくり考えたわけではなく、チラシを見て衝動的に思いついたに違いない。和歌山県の白浜と兵庫県の有馬、大阪の人々にとって身近でくつろげる温泉地に違いない。しかし、それ以外の温泉地も、温泉以外の観光地も、こんな寒い時期に旅行なんて、という旅行を拒絶する選択肢も、妻の佐知子は与えられていない。

(やさしいダンナさんで、ええねぇ)

 そんな近所の主婦の感想に、佐知子が素直に頷くことが出来ないのはこういう理由である。さらに、別の理由が加わって、今朝は夫の言葉に返事できないでいる。1月ばかり前、夫の提案で生命保険に加入していたからである。

 彼女は昨夜、テレビでサスペンスドラマを見た。よくありがちな筋立てて、夫に保険金をかけられた美人妻が、旅行先で保険金目当ての夫に殺されるというものである。彼女は殺害された美人妻を、旅行に誘われた自分に重ねて思いだしたのである。夫を疑いつつ、そんなことはあり得ないと即座に否定する感情も残っていた。見合い結婚だが、浮気をする甲斐性もない真面目な夫に恵まれた。

(私は、何時、この人をこんな風に疑うようになったんやろ)

 きっかけは別々だが、夫婦は二人で旅行する必要を認めたのである。温泉でも観光でも構わない、しかし、今の二人の溝を埋めるものが必要に違いない。結局、佐知子は妥協して、夫が提示した選択肢から白浜を選んだ。海辺の風光明媚な土地である。


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