第十九話 かくして運命の歯車は回り始める
リラヘール河が流れる、とある山脈の麓。
川の上空に魔法陣が現れた。
「──ク、ガッ!?」
魔法陣から光の粒子が放出され、それが一人の人間の形を成した。その人間は河原の砂利の上に放り出される。
「……ぬ? ここは、そうか、まだリラヘールか」
白の拘束衣、首元には鮮血色の首巻き。
緑碧の長髪女はきょろきょろと周囲を見回す。
それはアインスたちを襲った暗殺者──強制転移の術式で飛ばされたジューダス・エクスマキナと呼ばれる人物だった。
「クハハ、ならばまだ十分追い付けるはず。この我がこれほど屈辱を味わったのだ。大人しく引き下がるワケが──」
ジューダスの言葉は途中で止まった。
こちらの近づく足音に気付いたからだ。
足音は二つ。
明らかにジューダスに向けて歩を進めていた。
ジューダスは警戒する。
時刻は深夜。月明かりしかないような真っ暗な河原だ。
通常であれば人が寄り付くような場所ではない。
「──ほう、魔素の気配を感じて様子を確かめてみれば……成る程成る程、下賤な暗殺者に出くわすとはな」
現れたのは、彫りの深い顔をした赤髪の壮年だった。
「どうだ、ネフェラよ、寄り道して正解であっただろう? 吾輩の勘も偶には当たるものだ」
自らの顎髭を撫でながら、壮年の男は背後に向かって気さくに話し掛けた。
男の背後には影のように付き従う侍女の姿があった。
「ふむ、犬も歩けば棒に当たる……と言ったところでございますかね。旦那様の日頃の行いを考えるとまったくの偶然かと思われます」
主人への不敬を述べながら、ネフェラと呼ばれた侍女は淡々と答えた。
「クハ──クハハハハハッ!」
ジューダスはその二人を見て、豪快に笑った。
──ゲオルグ・トゥルス・クロムバッハ。
──ネフェラ・アイムバッハ。
仕事に就く際に渡された資料に書かれていた情報。その二人はこの国でも最高峰の異能者だった。
「僥倖だ。僥倖でしかない。よもや貴様らのような強者と邂逅するとはな。……噂は聞き及んでいるぞ。『無刀流』に『屍御前』よ」
ジューダスは身を震わせ、戦闘態勢に入る。
「あの覇王の小娘にしろ、今回の仕事はまったくもって驚愕に値する。最初は何とつまらぬ仕事だと、ほとほと呆れ返っていたが、蓋を開ければ何と愉快痛快であることか」
ジューダスの口元がこの上なく楽しそうに歪む。
「さあ『名乗り』の時間だ。我の名は──」
意気揚々としたその宣誓は、
「──それ以上汚い口を開くな。下郎が」
ゲオルグによって遮られた。
「クロムバッハ流、抜刀術──桜花一閃」
ゲオルグが僅かに右腕を動かした。
「──ぎぃああああああああ!?」
瞬間、突如、一切の前触れもなく。
ジューダスは数秒の内に十数個の肉片へと変貌していた。
頭部が、腕が、腹部が。ありとあらゆる肉塊が空中を舞う。
肉のカケラが噴水のように血を吹き出す。
さながらそれは血の霧のようだった。
不可視の一撃。
未知の攻撃。
如何なる異能なのか。
ゲオルグはただ腕を軽く動かしただけで、眼前の敵をバラバラに両断した。
「お見事でございます」
ネフェラが主人の手際を簡潔に褒め称える。
「ああ、予想よりも随分と簡単な相手であったな。吾輩が手を下すまでもなかったか」
ゲオルグとネフェラの前には、血溜まりと、かつて人であった肉塊しか残っていなかった。
「急ぐべきだと存じ上げます、旦那様。ここに来るまでに魔素をかなり消耗してしまいましたから」
「ああ、本来であれば三日は掛かる道のりを半日で踏破したのであるからな。当然であろう」
耳をすませば、遥か遠くで響き渡る鐘の音が聞こえる。
ゲオルグとネフェラは知っている。
その音が意味することを。
「ついにあの力を使われたのでございますね、ゼノアさん……いえゼノア・ダインスレイグ様」
ネフェラは感慨深げに呟く。
「ああ、ついにこの日が来た。これで諸国にも覇王の再来が知れ渡ることであろうな。近い内にも五大強国の耳にも入るはずだ」
「つまりは──」
「ああ、これで世界は動くだろう。薄氷の停戦に亀裂が入る。修復できないほどのな」
ゲオルグは重々しく告げた。
それは運命。抗えないほどの大きな流れだった。
「──クハッ、然り、やはりあの小娘は貴様らクロムバッハ家の仕込みか」
「なに──!?」
それはゲオルグとネフェラ以外の声だった。
死んだはずの人間の声。
ゲオルグは死体のカケラ、肉塊を見た。
だが、そこには血溜まりしかない。
「──どこだ!? どこにいる!?」
ゲオルグとネフェラは警戒しながら周囲を見回す。
そして見付けた。
死んだはず暗殺者は川のほとりに静かに立っていた。
「……先程が噂の『無刀流』か。
我は一体何をされたというのか。
斬撃か? 刺突か? 打撃か?
あるいは我が知らぬ未知の異能か? まったく、どちらにしろ興味深い」
異常な光景だった。
肉塊となったはずの人間が、まるで幽霊のように自らの足で平気で立っているのだ。
暗殺者の服も身体も、何事もなく再生していた。
「吾輩は間違いなく脳と心臓を破壊した。にもかかわらず、なぜ貴様は生きている? ……いや、そもそも貴様は何者だ?」
「何事にも例外はあるということだ、クロムバッハ家よ。……ああ、『名乗り』はもうせんぞ。途中で邪魔をされて興が削がれた。我の名を知りたければ小童にでも聞くと良い」
如何なる超人の異能者とて、脳と心臓を破壊されれば死に至るしかない。
それが一般的な人間の常識だった。
ゲオルグやネフェラの歴戦の戦闘経験を踏まえても例外は一つも存在しない。
「……名残惜しいが今日のところはこれで撤退させてもらおう。なにこの調子であればいずれまた近い内に相見えることだろう」
暗殺者はまるで御馳走を取り上げられた犬のように口元を皮肉げに歪ませる。
「それではなクロムバッハ家の諸君。
運が良ければ──否、運が悪ければまた会おう。
クックックッ、ふはははははは、ハッーハッハッハ!」
ジューダスの姿が血の霧に変化する。
服も身体も全てが変化した。
川辺に残るのは、暗殺者の残響だけだった。
「……旦那様、追うべきでございますか? 今なら追跡することも──」
「構うな。今は他に優先すべきことがある」
ゲオルグは踵を返して、先を急いだ。
ネフェラもそれに追従する。
「……焦らずとも吾輩たちが覇王を御輿に担いだ以上、連中とは否が応でも矛を交えることになるだろうさ。……ああ……その時にこそいずれは……」
ゲオルグは何事を呟き、静かに決意を固めた。
ああ、そうだとも。
運命の歯車はまだ回り始めたばかりなのだから──
*****
「──くん……アイ君、起きてっば!」
誰かの声が聞こえた。
僕を呼び覚まそうと必死に声を掛けてきた。
「……ノア?」
「やた、やっと起きた!」
ここはどこだ?
僕は周囲を動かそうとしてたが、身体がまったく動かないことに気付く。
ここはオルド大橋?
そうか、あの暗殺者──ジューダス消えた後、僕は倒れてしまったのか。
「だめっ! アイ君! 酷い傷なんだから動かないで!」
酷い傷だって?
言われて気付く。僕はノアの太腿に頭を乗せられていた。
いわゆる膝枕のような状態だ。
「な、んだ……ずいぶ……んと……恥ずかしい……格好だね……」
どうしてだろう。
口が重い。喋るのも億劫だ。
「坊ちゃん、無理に喋るんじゃねェぞ! たぶん折れた肋骨が内臓に刺さってる!」
少女形態のヴァーゲストも僕のことを心配そうに見下ろしていた。
ヴァーゲストは僕の腹部に手をかざして、何かの異能を使っているらしい。
でも肋骨が内臓に刺さっただって?
そうか、だからこんなにも身体が重いのか。
「ゲスちゃん、もっと強い治癒術式はないの!?」
ノアが泣きそうな顔になりながら叫ぶ。
「コレが限界なんだよ、姫ちゃん! 元々専門でもなんでもネェ! 俺ちゃんが出来るのは、せいぜい痛み止め程度が関の山だ!」
「……ああ、もう! こんなことならネフェラさんの言う通り、ちゃんと治癒術式を勉強しておくんだった!」
まったく、僕の頭の上でうるさい限りだ。
大丈夫だよ。
人間はこの程度じゃ死にはしない。僕は嫌というほどそれを知っているんだ。
「ノア……君は、覇王の子孫……だったんだね……驚いたよ……」
「そんなことはいいから! アイ君は安静にしてて!」
そんなことか。
結構驚いたんだけれどなぁ。ひょっとしたら今まで生きてきた中で一番かもしれないぐらいに。
「わ、わたし……アイ君が死んじゃったら……」
僕の顔にボロボロと水滴が落ちてくる。
それはノアの涙だった。
「……大丈夫、だよ」
喋ることは無理そうでも、手を少しだけ動かすことぐらいは出来そうだ。
僕はノアの止めどなく落ちてくる涙を拭った。
ああ、そうだ。
義妹も泣き虫だった。
手術が近くなると怖い怖いとわんわんと一日中泣いていたし、それ以外のこと──嬉しくても悲しくてもしょっちゅう泣いていた。
まあ、それでいて、何でもない様なことでよく笑う子でもあったけれど。
……ああ、そうか、ノアはそんなところも似ているのかもしれない。
ただただ、ごく自然に生きていく。
誰かと共に、泣き、笑い、喜び、悲しむ。
きっと僕は羨ましかった。
殺人衝動を抱き続けるこの僕には、それは到底不可能なことだったから。
叶うのならば、いつか僕も──
「──ああ、それは……なんて……」
浅ましく身勝手な──人間の希望なんだろう。
「アイ君? ……っ、ゲスちゃん急いで!? またアイ君の意識が!?」
「クソ、ネフェ公がいればこんな負傷どうにでもなるのによォ!」
二人の声が、遠くに聞こえる。
どうやらまた意識の糸が切れかけているようだ。
「──ッ、アインスお坊ちゃま!? この状況は一体!?」
「──ネフェラよ、急げ、今すぐに治療を始めるのだ」
二人以外の新しい声が聞こえてきた。
はて誰だろう。
すでに僕の意識はゆっくり眠るように──




