五章
待ち合わせの十分前に店へ着いた。
駅から少し離れた喫茶店だった。
家族連れや年配の客が何組か座っていた。
私は奥の二人掛けの席に座った。
スマートフォンには、
《一回だけなら》
《これで終わりにして》
絵里子からの最後の二通が残っていた。
入口のベルが鳴るたびに顔を上げた。
それは三回目のベルだった。
一人の女性が店に入ってきた。
写真で見た顔。
肩までの髪。
暗い色のコート。
辺りを見回し、
私を見つけて、こちらへ歩いてくる。
やっぱり絵里子だった。
もっと顔を見たら何か感じると思っていた。
昔の記憶が一気に戻るとか。
寒気がするとか。
でも、
最初に思ったのは、
そこらを歩いている普通の人と変わらない。
だった。
「久しぶり」
「……久しぶり」
絵里子は向かいに座った。
何から話そうか迷っていると、
向こうから口を開いた。
「画像のことでしょ」
「うん」
「先に言っとくけど」
私のスマートフォンを見ていた。
「送ってるの、私じゃないから」
私は最初に送られてきた画像を見せた。
「じゃあ、これは?」
絵里子はしばらく画面を見た。
「知らない?」
小さく息を吐いた。
「それは私」
思っていたより簡単に認めた。
「……やっぱり」
「でも、それだけ」
「その画像だけ?」
「それと最初のコメント」
「『懐かしいね』?」
「そう」
「なんで?」
注文したコーヒーが届いた。
店員が離れてから、
絵里子は口を開いた。
「仕事で嫌なことあった日で」
「うん」
「なんとなく昔の同級生とか見てたの」
「それで私を?」
「そう」
少し間が空いた。
「あの投稿が出てきたから」
「ガチャの?」
絵里子が頷いた。
「『小学生の頃これ集めてた』って」
一瞬だけ笑った。
楽しそうな笑いではなかった。
「それ、あんたが取ったやつじゃんって思って」
返す言葉がなかった。
隣の席の、
子供の笑い声が聞こえた。
「ちょっと腹立って」
「それで画像作ったの?」
「うん。今ならAIですぐできるし」
私は画像を見た。
歪んだスーパー。
向かい合う二人。
「キャラは覚えてたの?」
「何となく」
「二つとも?」
絵里子は少し考えた。
「私が取られたやつと、代わりに渡されたやつでしょ」
取られた。
それに対して何も言えなかった。
「で、その画像を送って、アカウント消した」
「その後は?」
「知らない」
即答だった。
その様子から、絵里子の気持ちは私の想像とは違っていたようだ。
何年も昔のことを抱えて、
私を恨み、執着していたようには見えない。
むしろ、
なんでそんな昔のことをと、話を早く終わらせたいようだった。
「そんな軽い気持ちでやったの?」
絵里子がこちらを見た。
「軽いか。うん」
少し考えて、
「その時はさ、腹が立ってたから」
と言った。
それだけだった。
私が想像していたものより、
ずっとなんでもないことだった。
そのことが、
なぜか怖かった。
しばらく、
どちらも口を開かなかった。
「ねえ」
私の声で絵里子が顔を上げた。
「あの日、なんで家まで来たの?」
「いつ?」
「キーホルダー返してって」
少し考えてから、
「ああ」
とだけ言った。
「覚えてる?」
「何となく」
私はあの日のあの時を覚えている。
絵里子が立っていた場所。
『今日じゃないとだめ』
という言葉。
「今日じゃないとだめって言ったよね」
絵里子が眉を寄せた。
「言った?」
「言った。明日じゃだめって」
「ああ」
少しして、
「たぶん、その日の夜だったからじゃない」
「何が?」
「引っ越すの」
絵里子は思い出したように答えた。
「学校から帰ってきたら、今日出るって言われたんだったような」
「前から決まってたんじゃないの?」
「どうだったかな。たしか、その日に初めて聞いたんだと思う」
私は、
明日学校で返せばいい、
と言った。
でも、
絵里子にはその明日がなかった。
「……キーホルダー、持っていきたかったの?」
「まあ」
「だから家まで?」
「たぶん」
私は
あのキーホルダーは大事だった。
ずっと返してほしかったし、あんたを恨んでいた。
そう言われると思っていた。
でも、
絵里子はコーヒーを見ながら、
「結局、それどころじゃなくなったけど」
と言った。
「それどころじゃない?」
「家族がいろいろあったし」
絵里子はそれ以上話さなかった。
少し迷ってから聞いた。
「……それってお父さんのこと?」
絵里子の表情がわずかに変わった。
「何で?」
「昔、いろいろ噂あったから」
虐待。
逮捕。
死亡。
どれも、
誰から聞いたのか分からない。
「夜逃げしたとか」
絵里子は小さく息を吐いた。
「まあ、そんな感じ」
「お父さん、後で捕まった?」
今度ははっきり私の顔を見た。
「調べたの?」
「ちょっとだけ」
「そっか」
それ以上、
聞くなという顔だった。
私は言葉を続けなかった。
少しの沈黙の後、
「あの時」
と私は切り出した。
「返しておけばよかったと思ってる」
絵里子は黙っていた。
「今さらだけど」
すると少し困ったように、
「もういいよ」
と絵里子は言った。
「え?」
「昔のことでしょ」
本当に、
もうどうでもいいような言い方だった。
私は
誤って許されれば、全てが終わると思っていた。
絵里子が腕時計を見た。
「そろそろいい?」
「あ、待って」
私は二つ目に送られてきた画像を表示した。
「じゃあ、これは?」
「知らない」
次の画像を見せた。
「これも?」
「知らないって」
見せていくうちに、
絵里子の顔から、
さっきまでの気怠さが消えた。
「……何これ」
その反応を見て、
絵里子を疑う気持ちが、
初めて少し揺らいだ。
絵里子がスマートフォンを受け取った。
何枚か続けて見た。
「全部送られてきたの?」
「うん」
「私じゃないよ」
絵里子からスマートフォンを返してもらった。
画像を開き、黄色い乗り物を指さす。
「これ、覚えてない?」
「何を?」
「後ろにあったじゃん」
絵里子はもう一度、画面を見た。
「こんなのあった?」
「手提げも」
「手提げ?」
「私、これ持ってたでしょ」
「知らないよ」
「見てたじゃん」
言ってから、
自分でも変だと思った。
十年以上前の私の鞄を、
絵里子が覚えている前提で話している。
玄関が映し出されている画像を出した。
「これも。私がここで、絵里子はこの辺に立ってた」
絵里子が私を見た。
「何でそんなの覚えてるの?」
「覚えてるよ」
「私は覚えてない」
「でも送られてきた画像には、ちゃんと」
「だから、私じゃないって言ってるじゃん」
少し声が大きくなった。
近くの客がちらりとこちらを見た。
絵里子はすぐに声を落とした。
「最初のは確かに私。そこは認めたよ」
「じゃあ、その後は誰なの」
「知らないよ」
「そんなわけない」
私は画面を指した。
「ガチャの場所も、キーホルダーの種類も、家に来たことも知ってる」
「家には行ったんだから、それは知ってるよ」
「そうじゃなくて」
うまく言葉にならない。
「こんな細かいこと、絵里子以外に誰が知ってるの」
絵里子は黙っていた。
「美咲たちにも言ってない。親にも言ってない。あの時だって、周りには誰もいなかった」
言葉が速くなっていく。
「だから、知ってるのは絵里子だけじゃん」
絵里子が真っ直ぐに私を見た。
「あんたも知ってるでしょ」
一瞬、
何を言われたのか分からなかった。
「……え?」
「あんたもそこにいたんだから」
当たり前のことだった。
なのに、
すぐに理解できなかった。
絵里子が画面を見た。
「店のことも、バッグのことも、家で何言ったかも」
私はそしてあのメッセージを開いた。
《証拠あるの?》
あの言葉が画面に表示される。
絵里子が眉を寄せた。
「これ何?」
「私が言った」
「私に?」
「そう」
絵里子はしばらく考えていた。
その顔を見て、
腹の奥が冷えた。
「……覚えてないの?」
「そこまでは」
「嘘」
思わず言った。
「何で嘘つくの」
絵里子の顔が固くなった。
「何で私が嘘つくの」
「だって、私にああやって言われたんだよ。普通覚えてるでしょ」
「その頃、他にもいろいろあったから」
私は黙った。
「家に帰りたくなかったし、急に引っ越すって言われたし。親もずっと揉めてたし」
少し間を置いた。
「キーホルダーを取られたのは覚えてるよ」
取られた。
その言葉だけが残った。
「でも、何着てたとか、どこに立ってたとか、何て言われたとか」
絵里子は首を振った。
「正直、そこまでは覚えてないよ」
私はまた、画像に視線を落とす。
黄色い乗り物。
紺色の手提げ。
玄関での二人の立ち位置。
あの時の言葉。
私は、
どれも覚えていた。
絵里子が言った。
「逆に、何であんたそんなに覚えてるの?」
答えられなかった。
絵里子が時計を見た。
「ねぇ、もういい?」
何も言えなかった。
絵里子は鞄を持って立ち上がった。
「最初のやつはさ、本当にごめん」
私は黙った。
「腹立ったからって、やることじゃなかった」
少し間を置いて、
「でも、その後のは本当に知らないから」
それだけ言って、
絵里子は足早に店を出ていった。
私は一人、席に残された。
スマートフォンには、
《証拠あるの?》
その文字が表示されていた。
――あんたも知ってるでしょ。
もちろん知っている。
私が言った言葉なのだから。
なのに今まで、
どうして一度も、
自分を疑わなかったんだろう。




