二章
小学六年生の三学期。
卒業まで、あと一か月もなかった。
当時、クラスの女子の間で流行っていたアニメがあった。
日曜の朝にやっていた、女の子が六人出てくるやつ。
私は毎週欠かさず見るほど好きだったわけじゃない。
でも、キーホルダーは集めていた。
学校の近くのスーパーにガチャが置かれていて、一回二百円。
全部で六種類あった。
私たちのグループでは、いつの間にか全種類を揃えるのがちょっとした目標になっていた。
「また黒?」
休み時間。
私の筆箱についたキーホルダーを見て、美咲が笑った。
「昨日二回やったのに」
「何個目?」
「三個目」
「いらな」
「美咲、いる?」
「いらない」
美咲が笑った。
隣にいた奈央が、自分の筆箱を持ち上げた。
白い髪に、大きなリボン。
私がまだ持っていないキャラクターのキーホルダーが揺れていた。
「あとこれだけでしょ?」
「そう」
「早く出してよ。みんな持ってるじゃん」
「分かってるって」
「卒業までにはね」
奈央はそう言って、自分のキーホルダーを美咲のものと並べた。
「中学行ってもつけとこうよ」
「さすがにランドセルじゃないけどね」
「筆箱ならいけるでしょ」
三人で笑った。
二人とも、本気で急かしていたわけじゃない。
私だけ持っていないからといって、何かが変わるわけでもない。
それでも、並んだ二人の筆箱を見ると、自分だけ一個足りないことが妙に気になった。
「今日またやろうかな」
私が言うと、美咲が、
「出るまでやれば?」
と笑った。
「お金なくなるー」
何でもない会話だった。
それでも、その日の帰り道も考えていた。
あと一個。
それがあれば、三人で同じものを持てる。
卒業して、中学に入って。
クラスが変わっても。
十二歳の私には、それがずいぶん大事なことに思えていた。
その日の帰り、私はスーパーに寄った。
ガチャをもう一回やるつもりだった。
財布には百円玉が四枚あった。
二回は回せる。
でも二回やって、また黒いキャラが出たら最悪だ。
そんなことを考えながらゲームコーナーへ向かうと、先に誰かが立っていた。
A子だった。
同じクラスだけど、ほとんど話したことはない。
休み時間も、一人で席に座って本を読んでいることが多かった。
A子はガチャの前で、小さな財布の中を二度確認してから、百円玉を二枚取り出した。
一枚ずつ機械に入れた。
私は少し離れたところで立ち止まった。
あのアニメ好きだったんだ。
少し意外だった。
A子がハンドルを回した。
ガコン。
落ちてきたカプセルをその場で開けた。
その手元には白いものが見えた。
一瞬、見間違いだと思った。
白い髪。
大きなリボン。
「え」
声が出た。
A子が振り返った。
私は近づいた。
「それ出たの?」
A子は少し戸惑ってから頷いた。
手の中には、間違いなくあのキーホルダーがあった。
私が何回やっても出なかったやつ。
それをA子は、一回で引いた。
「すご」
私は笑った。
A子もほんの少し笑った。
キーホルダーを手のひらに乗せて眺めていた。
その時、最初に思ったことを今でも覚えている。
いいな。
その次が、
何でA子が。
だった。
休み時間の会話が浮かんだ。
あと一個。
卒業までに。
みんなでお揃い。
私はA子の手元を見た。
「ちょっと見せて」
A子がこちらを見た。
「それ。すぐ返すから」
少し迷ってから、A子はキーホルダーを私の手に乗せた。
軽かった。
二百円の、小さなキーホルダー。
「いいなあ」
口にすると、余計に返したくなくなった。
鞄の中には、昨日出た黒いキャラのキーホルダーが入っていた。
三個目のダブり。
私はそれを取り出した。
「ねえ」
黒いキーホルダーを差し出す。
「これと交換しない?」
A子は、私が差し出したキーホルダーを見た。
「これ、持ってないでしょ」
答えない。
「私これ三個あるから。ちょうどいいじゃん」
「いらない」
小さな声だった。
「え?」
「交換しない」
A子が手を出した。
「返して」
私はA子が引いたキーホルダーを握ったまま、その手を見た。
朝、美咲たちが並べていた筆箱が浮かんだ。
これを返したら、また私だけ持っていない。
「でもさ」
私は黒いキーホルダーをA子の手に押しつけた。
「こっちもかわいいじゃん」
A子は受け取らなかった。
手のひらから滑って、床に落ちた。
私は拾って、もう一度差し出した。
「そっちの方がA子っぽいし」
何がA子っぽいのかなんて分からなかった。
ほとんど話したこともない。
ただ、返したくなかった。
A子は私が握っているキーホルダーを見ていた。
「それ、私の」
「だから交換でしょ」
「してない」
少しだけ強い声になった。
私は周りを見た。
ゲームコーナーには誰もいない。
店員も近くにはいなかった。
A子がもう一度、手を出した。
「返して」
私は黒いキーホルダーをA子の手のひらに置いた。
A子が引いたキーホルダーは、そのまま鞄に入れた。
「じゃ、これあげるから」
「いらない」
「いいじゃん。同じ二百円だし」
同じ値段のキーホルダーを一個ずつ。
だったら交換だ。
私はそういうことにした。
「また明日ね」
A子は何も答えなかった。
私は先にゲームコーナーを出た。
呼び止められるかと思ったけれど、
最後まで声はしなかった。
翌朝、教室に入るなり美咲が気づいた。
「え、出たじゃん」
私の筆箱を指さす。
ファスナーのところには、昨日A子が引いたキーホルダーをつけていた。
白い髪に、大きなリボン。
「昨日出たの?」
「うん」
反射的に答えた。
嘘だった。
でも、わざわざ訂正するほどのことでもないと思った。
奈央も寄ってきた。
「見せて」
「ほんとだ。やっとじゃん」
「何回やったの?」
「もう、分かんないくらい」
二人が笑った。
私も笑った。
美咲が筆箱を机に置いた。
奈央も並べた。
私もその横に置いた。
三つの筆箱から、
同じキャラクターのキーホルダーが揺れた。
「これでみんなお揃いだね」
奈央が言った。
「卒業してもつけとこうよ」
「中学でこれつけてたらちょっとダサくない?」
「昨日まで欲しがってた人が言う?」
「それはそれ」
笑い声が重なった。
やっと同じになった。
その時、
少し離れた席にいたA子と目が合った。
正確には、
A子が見ていたのは私ではなく、筆箱だった。
私はとっさに筆箱を自分の方へ引いた。
A子はすぐに目をそらした。
美咲たちは気づいていない。
胸の奥に、少しだけ嫌なものが残った。
代わりのキーホルダーは渡した。
同じ二百円のものだった。
そう考えると、少しだけ気が楽になった。
休み時間が終わる頃には、私はもう別の話をしていた。
それから何日か経った日の夕方だった。
家に帰ってしばらくして、インターホンが鳴った。
母が玄関へ出て、すぐに私を呼んだ。
「同じクラスの子だって」
玄関へ行った。
ドアを開けると、A子が立っていた。
「どうしたの?」
A子は少し黙ってから言った。
「あれ、返して」
すぐに何のことか分かった。
「キーホルダー?」
A子が頷いた。
「でも交換したじゃん」
「してない」
「したでしょ。私のも渡したじゃん」
「私、いらないって言った」
少し腹が立った。
「でも持って帰ったじゃん」
A子は答えなかった。
私は、それを肯定だと思った。
「じゃあ交換じゃん」
「違う」
「何が違うの?」
「返して」
「もう筆箱につけちゃったし」
「外せるでしょ」
「なんで今さら?」
A子が一度、後ろを見た。
住宅街の道には誰もいない。
それから私を見た。
「今日じゃないとだめだから」
「何で?」
A子は答えなかった。
「明日学校でいいじゃん」
「明日じゃだめ」
「そんなに欲しいなら、またガチャやれば?」
A子の顔が少し変わった。
怒ったようにも、
困ったようにも見えた。
「私のだったから」
「だから交換したって言ってるじゃん」
「してない」
「してるよ」
「してない」
同じ言葉を繰り返しているうちに、
私の方が正しいような気がしてきた。
「じゃあさ」
A子が顔を上げた。
「交換じゃなかったって、証拠あるの?」
A子は黙った。
「誰か見てた?」
返事はない。
「あの時、二人しかいなかったじゃん」
自分で言って、
勝ったような気がした。
A子はしばらく私を見ていた。
それから、
「……もういい」
と言った。
「じゃあね」
A子は背を向けた。
門を出ていく後ろ姿を見ながら、
少しだけ嫌な気持ちになった。
それでも、
ドアを閉める頃には別のことを考えていた。
翌日、A子は学校に来なかった。
昨日のことが引っかかっていたから、
少しほっとした。
顔を合わせれば、
またキーホルダーのことを言われるかもしれない。
次の日も来なかった。
三日目になると、
クラスでも話題になった。
「A子、転校するんだって」
誰かが言った。
「え、いつ?」
「知らない。けど、家にはもう誰もいないらしいよ」
私は聞いていたけれど、会話には入らなかった。
担任から説明があったのは、その日の帰りの会だった。
A子は家庭の事情で転校することになった。
先生が言ったのは、それだけだった。
転校先も、
いつ引っ越したのかも分からなかった。
机の中に残っていたものも、
いつの間にかなくなっていた。
それから、いろんな話を聞いた。
夜逃げだったらしい。
お父さんが借金していたらしい。
警察が来たらしい。
家で殴られていたらしい。
言う人によって話は違った。
「A子、死んだらしいよ」
そう言ったのが誰だったのかは、
今でも思い出せない。
でも、
その言葉だけは残った。
「え、マジ?」
「家でなんかあったって」
「じゃあ転校じゃないじゃん」
そんな会話をした気もする。
誰と話したのかは覚えていない。
先生に聞いた子もいた。
先生は、
「変な噂を広めないように」
とだけ言った。
それで余計に、
本当なのかもしれないと思った。
私は一度だけ、
筆箱につけたキーホルダーを見た。
白い髪。
大きなリボン。
返しておけばよかったのかな、と思った。
でも、
それとこれとは関係ない。
A子の家で何があったとしても、
私のせいではない。
私は取ったわけじゃない。
交換しただけだ。
そう考えた。
卒業式にも、
A子はいなかった。
式が終わり、写真を撮って、友達と笑った。
春休みになり、
中学に入った。
クラスが変わって、部活が始まった。
気づけば、
A子の名前を聞くことはなくなっていた。
あのキーホルダーも、
いつまで持っていたのか覚えていない。
たぶん中学に入ってしばらくして、
どこかでなくした。
ただ、
A子は死んだ。
そういうことになっていた。
少なくとも、
私の中では。




