第五話 監査官は、知っていることを答えてくれません!
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翌朝、私は出勤して最初に、退職届の書き方を調べた。
念のためである。
別に辞めたいわけではない。私はただ、受付窓口で冒険者に依頼票を渡し、報酬を計算し、昼休みにパンを食べ、定時になったら帰りたいだけなのだ。
それなのに、ここ数日で私が扱った案件ときたら。
廃止されたはずの手数料制度。
記録上は死亡者ゼロなのに、十二人分が計上されている埋葬費。
実在するかどうかも怪しい受領者。
そして、それらすべてに共通する承認コード、A-714。
「……転職先は、パン屋にしようかな」
「パン屋に失礼よ」
背後から声がした。
振り返ると、エッダさんが帳簿を抱えて立っていた。
「パン屋だって、売上と在庫の帳尻くらい合わせるわ。あなたが行ったら、小麦粉の仕入れ伝票から王国の陰謀を見つけるでしょうね」
「私、そんな人間じゃありません」
「そうね。あなたは、ただの受付係よ」
「そうです。だから助けてください」
「嫌よ」
即答だった。
エッダさんは私の机に帳簿を置き、眼鏡を押し上げた。
「昨日、支部長があなたを探していたわよ」
「……何の用でしょう」
「それを私に聞かないで。私は会計係。人間関係の仲介業者じゃないの」
そう言って去ろうとする彼女の背中に、私は声をかけた。
「エッダさん。昨日の夜、支部長が私のところに来たことは知っていますか?」
足が止まった。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬を、私は見逃さなかった。
「……知っているわ」
「どうしてですか?」
「ここはギルドよ。あなたが夜まで帳簿を見ていたことも、支部長がその帳簿を気にしていることも、知らないほうが難しいわ」
「では、支部長がA-714について何か知っていることも?」
「ミレイユ」
エッダさんは振り返った。
その表情から、いつもの皮肉っぽい笑みが消えていた。
「知らないことと、答えられないことは違うの。そこを混同しないことね」
それだけ言い残して、彼女は会計室へ戻っていった。
……朝から名言をいただいてしまった。
できれば、もっと実用的な助言が欲しかった。
たとえば、王国の陰謀に巻き込まれた受付係が安全に定時退勤する方法とか。
そんな便利な手引書は、残念ながらギルドの備品棚にはなかった。
*
午前十時。
「ミレイユ・アルブレヒト」
受付窓口の前に立っていたのは、王国監査官セドリックだった。
いつもどおり皺ひとつない上着。磨かれた靴。無駄のない立ち姿。
そして、こちらが何を知っていて、何を知らないのかを、すべて把握しているような目。
「少し時間をもらえるか」
「業務中ですが」
「業務に関する話だ」
「それなら、支部長を通していただけますか?」
「支部長には話を通してある」
私は窓口の奥を見た。
バルド支部長が、こちらを見ないようにしながら書類を読んでいた。
あの人、昨日は私に「A-714のことを誰にも話すな」と言っていたくせに、今日は監査官を呼び込んでいる。
上司の言動に一貫性を求めるのは、贅沢なのだろうか。
「……承知しました」
私は窓口の札を裏返した。
『一時離席中』
この札を出すとき、私はいつも少しだけ心が軽くなる。
今日は違った。
まるで、自分の意思で扉を開けてしまったような気がしたからだ。
*
監査官に連れていかれたのは、支部長室ではなかった。
ギルドの裏手にある、小さな応接室。
窓はひとつ。机と椅子が四脚。壁には古い王国地図が掛かっている。
セドリックは私に座るよう促し、自分も向かい側に腰を下ろした。
「昨日、北方の記録を調べていたな」
「はい」
「支部長から報告を受けた」
「どこまでですか?」
「君が知っていることの、かなりの部分だろう」
「それは報告を受けた側の感想であって、内容の回答ではありません」
言ってから、少しだけ後悔した。
相手は王国監査官だ。
受付係が正論で殴っていい相手ではない。
しかし、セドリックは怒らなかった。
むしろ、わずかに口元を緩めた。
「なるほど。君は質問に対して、回答の形式まで要求するのか」
「帳簿を扱う仕事ですので。数字だけ合っていても、項目が違えば正しい報告にはなりません」
「……そうか」
セドリックは机の上に、一枚の紙を置いた。
そこには、私が作成した報告書の写しがあった。
「まず、確認しよう。君は十二人が死亡したと考えているのか?」
「いいえ」
「では、生存していると?」
「それも判断できません」
「理由は?」
「死亡を裏付ける記録がない一方で、生存を裏付ける記録もないからです。埋葬費の支出記録はありますが、受領者の氏名がありません。受領印が本物かどうかも、現物を調べなければ分かりません」
「では、君の報告書にある『十二人分の埋葬費』という記述は?」
「帳簿上、その名目で支出された金額を、十二人分として記載しているという意味です。実際に十二人が埋葬されたと断定したものではありません」
セドリックは黙っていた。
私は続けた。
「記録があることと、記録どおりのことが起きたことは、別です」
言葉にした瞬間、エッダさんの声がよみがえった。
原記録と集計記録の一致を確認。ただし、実態確認は対象外。
十年前の帳簿にあった、あの一文。
記録の中だけで世界を完結させれば、現実がどれほど違っていても、帳簿は正しいままでいられる。
セドリックは、私の報告書を裏返した。
「その考え方は、間違っていない」
「ありがとうございます」
「だが、君はその考え方を貫くには、まだ経験が足りない」
「……それは、どういう意味でしょうか」
「帳簿の不一致を発見することと、その不一致を公にすることは違うという意味だ」
私は眉をひそめた。
「公にしてはいけない理由があるのですか?」
「ある」
あっさりと、彼は答えた。
予想外だった。
もっとこう、監査官らしく「調査中だ」とか「規定に従え」とか、曖昧な言葉で煙に巻かれると思っていたのに。
「その理由を教えてください」
「教えられない」
「……今、あるとおっしゃいましたよね?」
「あることと、君に説明できることは違う」
私は深く息を吸った。
この人もか。
この人も、知っていることを答えてくれない。
「では、質問を変えます」
「どうぞ」
「A-714は、何の承認コードですか?」
「旧特別配分制度に関連するコードだ」
「十年前に廃止された制度ですね?」
「記録上はそうなっている」
「記録上は、ですか」
「君は言葉尻を拾うのが得意だな」
「受付係は、申請書の記載漏れを拾うのが仕事です」
「それは頼もしい」
まったく頼もしい顔ではなかった。
「A-714は、現在も使われています。昨日の報酬支払いにも、三年前の埋葬費にも。廃止された制度のコードが、どうして現在の取引に使われているのですか?」
「その質問には答えられない」
「なぜですか?」
「私の権限だけでは、回答できないからだ」
私は口を閉じた。
権限。
その言葉には、ひとつの可能性があった。
「……監査官より上の権限が必要ということですか?」
セドリックの目が、ほんのわずかに細くなった。
今度こそ、私は確信した。
少なくとも、この人はA-714を知らないわけではない。
「ミレイユ君」
彼は静かに言った。
「君は、何を明らかにしたい?」
「帳簿が正しいかどうかです」
「それだけか?」
「今のところは」
「では、もし帳簿が間違っていると分かったら?」
「訂正します」
「訂正した結果、十二人が本当に生きていたとしても、彼らが帰ってこられなくなったとしても?」
私は、すぐには答えられなかった。
セドリックは続けた。
「もし帳簿が正しいと分かったら? 君が不正だと疑った支出が、実際には十二人を救うために必要だったとしたら?」
「……その場合は、不正だとは言いません」
「では、その支出が正当だったとしても、受領者の氏名を隠すために別の記録が改竄されていたら?」
「それは、別の問題です」
「そうだな」
彼はうなずいた。
「だからこそ、帳簿だけを見て結論を出してはいけない」
私は少しだけ、肩の力を抜いた。
この人は、私の調査を止めたいのだと思っていた。
けれど、もしかすると。
「……監査官は、十二人が生きていると思っているのですか?」
セドリックは答えなかった。
沈黙が、答えのように思えた。
私は、トーマスが持ってきた十年前の書類を思い出した。
十二人の名前の横に書かれていた、「帰還確認」の印。
そして、セドリックがその書類を見たときに漏らした言葉。
──まだ、生きていたのか。
「監査官」
「何だ」
「あなたは、あの十二人を知っているのですか?」
セドリックは机の上で指を組んだ。
「知っていた者もいる」
「今は?」
「分からない」
「それは、本当に分からないのですか。それとも、答えられないのですか?」
今度は、彼が沈黙した。
長い沈黙だった。
やがて、セドリックは椅子から立ち上がった。
「今日のところは、ここまでにしよう」
「まだ質問があります」
「分かっている」
「なら――」
「君の質問は、正しい」
彼は私の言葉を遮った。
「だが、正しい質問をすることと、正しい答えにたどり着くことは同じではない」
扉に手をかけたところで、彼は振り返った。
「ひとつだけ忠告しておく。A-714の記録を調べるなら、北方の帳簿だけを見るな」
「……どういう意味ですか?」
「同じ金額を、別の帳簿でも探せ」
私は息をのんだ。
セドリックは、それ以上何も言わずに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私はしばらく、その場から動けなかった。
同じ金額を、別の帳簿でも探せ。
それは、会計の基本だ。
支出記録があれば、対応する収入や送金の記録があるはずだ。ギルドから王国へ送られた金なら、王国側にも受け取った記録がある。
もし両方の帳簿が一致していれば、金の流れは説明できる。
けれど。
もし、一致していたら?
そして、その一致が、現実とはまったく違うものだったら?
*
昼休み。
私は食堂でパンをかじりながら、トーマスを探した。
彼は食堂の隅で、冷めたスープを前にして考え込んでいた。
「トーマスさん」
「ミレイユさん。どうしました?」
「十年前の書類について、確認したいことがあります」
トーマスは周囲を見回した。
「ここで話しても?」
「できれば、誰にも聞かれない場所で」
「……分かりました」
私たちは食堂を出て、使われていない備品室へ向かった。
トーマスは扉を閉めると、すぐに尋ねた。
「監査官に会ったんですか?」
「どうして分かったんですか?」
「父の書類を見たとき、監査官の顔が変わりました。あなたが調べている以上、何か動きがあると思っていました」
私はうなずいた。
「監査官は、A-714について知っています。ただ、詳しいことは教えてくれませんでした」
「やはり……」
「それと、北方の帳簿だけでなく、同じ金額を別の帳簿でも探せと言われました」
トーマスの顔色が変わった。
「別の帳簿?」
「はい。ギルドの支出記録に対応する、王国側の受領記録があるはずです」
トーマスは、しばらく黙っていた。
それから、持っていた鞄を開けた。
「実は、もうひとつ父の書類があります」
「まだあったんですか?」
「すべてを一度に見せるのは危険だと思っていました。ですが……」
彼は古い封筒を取り出した。
表には、何も書かれていない。
中から出てきたのは、一枚の複写書類だった。
十年前のものらしく、紙の端が黄ばんでいる。
表題には、こう書かれていた。
『北方特別配分・送金照合表』
私は思わず、身を乗り出した。
「これが……?」
「父が保管していたものです。王国側の記録を照合した際の控えだと聞いています」
表には、送金日、金額、受領部門、承認コードが並んでいた。
その一番下。
私は、見覚えのあるコードを見つけた。
A-714。
金額は、三年前の埋葬費の記録と一致していた。
いや、正確には。
「……同じ金額ですね」
「はい」
「でも、送金日は十年前です」
トーマスがうなずいた。
十年前の送金照合表に記された金額と、三年前の埋葬費として計上された金額が、同じだった。
偶然かもしれない。
同じ額の支出が、何度も発生すること自体は不自然ではない。
けれど、承認コードまで同じなのだ。
「受領部門は……」
私は文字を追った。
『王国北方防衛管理局』
その下に、手書きの注記があった。
『受領確認済み。実受領者の照合は、特別配分規程第九条により省略』
私は、紙を持つ手に力が入るのを感じた。
実受領者の照合は省略。
つまり、金を受け取った部門は記録されている。
けれど、実際に誰が金を受け取ったのかは確認していない。
昨日見つけた、十二人分の埋葬費。
受領者の名前がなく、「本人確認済み」とだけ書かれた記録。
そして、十年前の照合表。
私は書類を見つめた。
「……トーマスさん」
「はい」
「お父様は、この書類を使って何を調べようとしていたんでしょう?」
「分かりません。父は、私には何も教えてくれませんでした。ただ、解雇される少し前に、こう言っていたんです」
トーマスは目を伏せた。
「帳簿の中には、金の行き先が分からないものがあるんじゃない。行き先が分かっていることにされている金があるんだ、と」
私は、何も言えなかった。
行き先が分からない金なら、調べればいい。
受領記録が欠けているなら、追加資料を求めればいい。
けれど。
行き先が分かっていることにされている金は、もっと厄介だ。
記録上は、問題がない。
照合も済んでいる。
承認もある。
監査の対象外であることまで、規程に書かれている。
つまり、調べようとする者がいなければ、ずっと正しいままでいられる。
「ミレイユさん」
トーマスが、低い声で言った。
「父は、何かを見つけたから解雇されたのでしょうか」
私は答えられなかった。
その可能性はある。
けれど、今の段階では、証拠がない。
お父様が不正を発見したのか。
誤った集計を指摘しただけなのか。
あるいは、別の理由で解雇されたのか。
私たちは、まだ何も証明できていない。
「……分かりません」
私は正直に答えた。
「でも、この書類は重要だと思います。原本の保管場所と、複写された経緯を確認したいです」
「父の家に、ほかにも資料があるかもしれません」
「無理はしないでください。今は、資料が存在することと、その内容が正しいことを分けて考えましょう」
そう言うと、トーマスは少しだけ笑った。
「ミレイユさんらしいですね」
「どういう意味ですか?」
「父も、よく似たことを言っていました」
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
私は彼の父親を知らない。
どんな人だったのかも、どうして解雇されたのかも。
それでも、十年前に帳簿と向き合っていた人が、今の私と同じことを考えていたのなら。
その人が残した記録を、私は簡単に捨てたくなかった。
*
午後三時。
私は正式な照会書を作成した。
照会先は、王国北方防衛管理局。
照会内容は、三年前の埋葬費に関する支出について、受領者の氏名、本人確認の方法、支出の承認根拠、ならびにギルド側のA-714との対応関係を確認すること。
加えて、十年前の送金照合表に記載された同コードについても、現在の記録との関連性を確認するよう求めた。
断定的な表現は避けた。
不正とも、横領とも、改竄とも書かなかった。
確認したい事実だけを書いた。
最後に、私は一文を加えた。
『本照会は、既存の原記録を変更するものではなく、記録間の不一致および実態確認の未了事項を明らかにすることを目的とする』
書き終えて、私は筆を置いた。
これでいい。
まずは、回答を求める。
回答がなければ、なかったという事実を記録する。
回答があれば、内容を検証する。
どんな答えであっても、記録を残す。
私にできることは、そのくらいだ。
「……よし」
私は照会書を持って、支部長室へ向かった。
今度は、バルド支部長も逃げられない。
*
「却下だ」
支部長は、照会書に目を通すなり言った。
「……理由をお聞きしても?」
「北方防衛管理局への照会は、王国監査官の権限で行うべきものだ。支部の受付係が直接照会する案件ではない」
「では、監査官に照会を依頼していただけますか?」
「必要があれば、こちらから依頼する」
「必要かどうかの判断基準は?」
「ミレイユ」
支部長が顔を上げた。
疲れた顔だった。
怒っているというより、眠れない夜が何日も続いているような顔。
「君は、どうしてそこまで知りたがる?」
「記録に不一致があるからです」
「不一致があれば、すべて調べなければならないのか?」
「少なくとも、理由を確認する必要はあると思います」
「その結果、誰かが困ることになってもか?」
「……困る人がいるなら、なおさら、どうして困るのかを知る必要があると思います」
支部長は目を閉じた。
しばらくして、彼は照会書を机の上に置いた。
「君は、正しいことをしているつもりなのだろう」
「つもり、ではありません。必要な確認をしているだけです」
「同じことだ」
「違います」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「正しいかどうかは、確認してから判断します。私はまだ、この支出が不正だとは言っていません」
支部長は私を見た。
その目に、ほんの一瞬だけ、安堵のようなものが浮かんだ。
けれど、すぐに消えた。
「……照会書は預かる」
「回答を求めていただけますか?」
「検討する」
「それは、回答を求めるという意味でしょうか?」
「ミレイユ!」
支部長が机を叩いた。
私は口を閉じた。
彼はすぐに、叩いた手を引っ込めた。
「……すまない」
その声は、かすれていた。
「頼む。今は、これ以上動かないでくれ」
「どうしてですか?」
「君が考えているより、ずっと多くの人間が関わっているからだ」
「その人たちが関わっていることと、帳簿を確認しないことに、どんな関係があるんですか?」
「……」
「支部長。私は、誰かを告発したいわけではありません。ただ、何が起きたのかを知りたいんです」
バルドは、ゆっくりと椅子に座り直した。
「知ってどうする?」
「必要なら、訂正します」
「訂正したら、すべてが元に戻ると思うのか?」
「いいえ」
私は答えた。
「でも、間違った記録を正しいままにしておくこともできません」
支部長は、長いあいだ私を見つめていた。
やがて、彼は小さく首を振った。
「……君は、本当にあいつに似ているな」
「あいつ?」
問い返した瞬間、支部長は顔をこわばらせた。
「忘れてくれ」
「誰のことですか?」
「仕事に戻りなさい」
「支部長──」
「これは命令だ」
私は口を閉じた。
支部長は、私から目をそらした。
それ以上、何も聞けなかった。
*
受付に戻ると、窓口の前に一人の冒険者が立っていた。
見覚えのある顔だった。
登録番号、三〇一七。
アルノ。
三年前の記録では、活動記録が途絶えているはずの冒険者。
けれど、彼は昨日も、その前も、確かにこの窓口に来ていた。
「お待たせしました。今日はどのようなご用件でしょうか?」
「報酬の受け取りだ」
彼は依頼完了票を差し出した。
私は書類を確認した。
薬草採取。報酬五ゴールド。手数料一ゴールド。
まただ。
私は処理を止めた。
「こちらの手数料について、確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
「何か問題があるのか?」
「通常の手数料率と異なるため、承認根拠を確認しています」
アルノは、少しだけ眉を動かした。
「……そうか」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
私は書類の余白に、確認中であることを記録しようとした。
そのときだった。
「ミレイユさん」
アルノが、私の名を呼んだ。
私は顔を上げた。
「はい?」
「北方の帳簿を、調べているんだってな」
背筋が冷たくなった。
「……どこで、その話を?」
「聞いたんだ」
「誰からですか?」
「それは言えない」
セドリックと同じ答えだった。
私は、彼の顔をじっと見た。
「アルノさん。あなたは、三年前にもこのギルドを利用していましたか?」
彼は答えなかった。
「登録記録では、三年前から活動記録が途絶えています。ですが、昨日の受領書には本人確認済みとあります。どのように本人確認を受けたのか、教えていただけますか?」
「……君は、受付係だろう」
「はい」
「なら、受付の仕事をしていればいい」
彼の声は、静かだった。
脅すような調子ではない。
むしろ、心配しているようにさえ聞こえた。
「余計なことを調べれば、君が困る」
「それは、私を心配してくださっているのですか?」
アルノは、答えなかった。
代わりに、私の手元にある依頼完了票を指さした。
「その依頼票を、よく見てみな」
「……何か問題が?」
「報酬額じゃない。依頼番号だ」
私は書類に目を落とした。
依頼番号は、北方の薬草採取に関するものだった。
依頼主は、王国北方防衛管理局。
そして、承認コードの欄には。
A-714。
「この依頼は、いつ発行されたものですか?」
私は顔を上げた。
アルノは、もう窓口から離れようとしていた。
「アルノさん!」
彼は立ち止まった。
「あなたは、三年前から活動記録がないんですよね?」
アルノは振り返った。
そして、ひどく疲れた顔で笑った。
「記録にないなら、俺は三年前から、ここにはいないことになるんだろうな」
そう言い残して、彼は去っていった。
私は、依頼票を握りしめたまま立ち尽くした。
記録にないなら、存在しない。
記録にあるなら、存在する。
そんな単純な話ではない。
でも、誰かが意図的にそう扱っているのだとしたら。
十二人の名前が消えたことも。
埋葬費の受領者が確認されていないことも。
そして、三年前から活動記録が途絶えているはずのアルノが、今もギルドの窓口に立っていることも。
すべてが、ひとつの問題につながっているのかもしれない。
私は依頼票を裏返した。
裏面の下端に、小さな文字が印刷されていた。
『特別配分規程第九条に基づく対象者については、本人の所在確認をもって受領確認に代える』
所在確認。
本人確認とは違う。
受領確認とも違う。
私は、何度もその一文を読み返した。
誰かが、その人の所在を確認した。
だから、受領確認も済んだことにした。
しかし、その人が実際に金を受け取ったかどうかは、分からない。
そして、本人が今も生きているかどうかも。
私は書類を机の上に置いた。
もう、これは単なる手数料の問題ではない。
誰かが金を受け取ったことにされている。
誰かが死亡したことにされている。
そして、誰かが存在していることにされている。
そのどれもが、帳簿の上では正しいのかもしれない。
だからこそ、私は調べなければならなかった。
記録の中の人間ではなく。
実際に、そこにいる人間を。
*
終業時刻を過ぎたころ、私の机に一通の封筒が置かれていた。
差出人はない。
封筒の中には、短い手紙と、一枚の古い名簿が入っていた。
手紙には、こう書かれていた。
『A-714を調べるなら、次は北方防衛管理局の記録を見ろ。
ただし、照会を出してはいけない。
あそこには、照会された記録だけを先に処理する仕組みがある。
記録が消える前に、原本を探せ』
私は、何度も読み返した。
照会を出してはいけない。
原本を探せ。
その下には、差出人の名前の代わりに、ひとつの数字が書かれていた。
十二。
添付された名簿を開く。
そこには、三年前に活動記録が途絶えた十二人の名前が並んでいた。
そして、一番下。
私は、思わず息を止めた。
十二人の名前の横に、全員同じ印が押されていた。
『帰還確認済み』
その横に、日付がある。
三年前の日付だった。
さらに、名簿の右下には、もうひとつの記載があった。
『現地確認担当:セドリック・ヴァレン』
王国監査官の名前だった。
私は手紙と名簿を、ゆっくりと封筒に戻した。
セドリックは、十二人のことを知っていた。
彼らが帰還したことも、確認していた。
それなのに、どうして昨日、あんな顔をしたのだろう。
どうして「まだ、生きていたのか」と言ったのだろう。
私は、窓の外を見た。
夕暮れの街を、冒険者たちが歩いている。
笑い声。荷車の音。夕食の匂い。
いつもと変わらない、グランベルの街。
そのどこかに、記録から消えた十二人がいるのだろうか。
それとも、彼らはもう――。
「……帰りたい」
思わず口から漏れた。
今日はもう、帰りたかった。
でも、机の上には、照会を出してはいけないと書かれた手紙がある。
そして、三年前に十二人の帰還を確認した監査官の名前がある。
明日、私はセドリックにもう一度会わなければならない。
今度こそ、質問を変える必要がある。
彼が何を知っているのかではなく。
彼が、何を確認したことになっているのか。
私は名簿を鍵のかかる引き出しにしまい、帳簿の表紙を閉じた。
その表紙には、こう書かれていた。
『北方特別配分記録──原本』
私は、まだ知らなかった。
この名簿が、十年前に解雇されたトーマスの父親の手によって作られたものだということを。
そして、その原本が。
今も、王国監査局の地下書庫に保管されているということを。




