第四話 死者の受領印は、誰が押したんですか?
★☆★★
朝一番で、私は支部長室に呼び出された。
嫌な予感がする。
いや、正確には、昨日の時点ですでに嫌な予感しかしなかったのだが、今朝はそれが確信に変わっていた。
なぜなら、私の机の上に置かれていたからだ。
辞表ではない。
始末書でもない。
『北方地域関連資料の閲覧制限について』
という、いかにも面倒くさそうな通達である。
「……おはようございます」
「座れ、ミレイユ」
バルドは、朝から機嫌が悪かった。
机の上には、私が昨日作成した照会書の控えが置かれている。
その隣には、見覚えのない封筒があった。
封蝋には、王国財務院の紋章。
私は、そっと椅子に腰掛けた。
「昨日、セドリック監査官から連絡があった」
「はい」
「北方地域の古い記録について、独自の調査を行わないようにとのことだ」
「……そうですか」
「そうですか、ではない!」
バルドが机を叩いた。
「お前は受付嬢だろう! なぜ国家監査官が、お前の名前を出してくるんだ!」
「私にも分かりません」
「本当に分からないのか?」
「分かりません。分かっていたら、こんなに困っていません」
これは本音だった。
私は、ただ数字を確認していただけなのだ。
手数料が規則と違っていた。
薬草の在庫が帳簿と一致しなかった。
古い記録に、妙なコードがあった。
それを順番に調べていたら、なぜか王国財務院の紋章が登場した。
私が知りたい。
どうしてこうなった。
「とにかく、北方地域に関する記録は、今後、私の許可なく閲覧するな」
「承知しました」
「本当に分かっているんだろうな?」
「はい。許可なく閲覧しません」
「……ならいい」
バルドは、少しだけ安心したようだった。
私は立ち上がった。
「それでは、受付に戻ります」
「待て」
まだあるのか。
「昨日、お前が作成した照会書だがな」
「はい」
「差異の数字が間違っている」
私は目を瞬いた。
「どの数字でしょうか?」
「青葉草の在庫だ。八十四束足りないと報告していただろう」
「いいえ。実地数量と帳簿残高の差異は、四十六束です。八十四束というのは、特別配分の記録にある数量です」
バルドは黙った。
私は続けた。
「帳簿上の入庫合計は百二十束。通常の出庫記録が三十八束なので、通常記録だけで計算した残高は八十二束です。実地数量は三十六束。したがって、通常の記録から計算した残高との差異は四十六束になります」
「……」
「一方、特別配分として八十四束の処理が記録されています。それを差し引けば、百二十束から八十四束を引いて三十六束です。現物の数量とは一致します。ただし、その処理の受領者と承認根拠が確認できていません」
私は、昨日の報告書を思い出しながら説明した。
「ですので、現時点では、特別配分が正規の出庫だったのか、それとも別の処理だったのかは判断できません」
バルドは、私を見つめた。
その顔には、怒りと困惑が混ざっていた。
「……お前、本当に受付嬢か?」
「採用面接では、そう説明されました」
「そういう意味じゃない!」
分かっている。
分かっているけれど、ほかにどう答えろというのだ。
バルドは深いため息をついた。
「もういい。戻れ」
「はい。失礼します」
私は頭を下げ、支部長室を出た。
扉を閉めた瞬間、ようやく息を吐いた。
危なかった。
もし昨日、勢いで「八十四束が盗まれた」と報告していたら、今ごろ私は自分の報告書を訂正する羽目になっていた。
数字は、正しく読まなければならない。
それが、今回の教訓だ。
……できれば、こんな教訓は覚えたくなかったけれど。
◇
受付カウンターに戻ると、冒険者たちが列を作っていた。
「次の方、どうぞ」
「討伐依頼の報告をお願いします」
「はい。依頼書と討伐証明をお預かりします」
いつもの仕事。
いつもの会話。
いつもの書類。
こういう時間が、私は好きだった。
依頼を受け付け、必要な記録を確認し、報酬を精算する。
決まりが明確で、手順が決まっていて、記録と現実が一致している。
何も問題がなければ、それでいい。
ところが。
「……あの、ミレイユさん」
目の前の冒険者が、困った顔で言った。
「報酬が、昨日より減っているんですけど」
私は顔を上げた。
冒険者は、二十代後半くらいの男性だった。
革鎧は使い込まれているが、手入れは行き届いている。腰には短剣。背負った荷物には、採取用の道具が見えた。
手元の精算書を確認する。
依頼番号、二〇八一。
薬草採取。
報酬、金貨五枚。
手数料、金貨一枚。
支払額、金貨四枚。
「……手数料が二十パーセントですね」
「そうなんです。昨日までは五パーセントだったんですよ」
私は、書類を見直した。
依頼の種類は同じ。
報酬の金額も同じ。
なのに、手数料だけが変わっている。
「少々お待ちください」
私は精算記録を確認した。
昨日までの処理では、手数料は五パーセント。
今日の処理では、二十パーセント。
備考欄には、短い記載があった。
『特別配分調整』
そして、承認コード。
A-714。
「……なるほど」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
どうやら、このコードは倉庫の中だけに存在するものではないらしい。
「すみません。こちらの処理について、確認させていただきます。報酬のお支払いは、少しお待ちいただけますか?」
「えっ、またですか?」
「……また?」
「ああ、いえ。実は昨日も、別の人が同じことを言っていたんです。手数料がおかしいって」
私は、手元の書類を見た。
同じコード。
同じ特別配分。
そして、規則にない手数料。
偶然にしては、出来すぎている。
「分かりました。確認が取れ次第、必ずご説明します」
「お願いします。こっちも生活がかかっているんで」
「はい。お待たせして申し訳ありません」
冒険者は、不安そうな顔で列の後ろへ移動した。
私は精算書を保留箱に入れた。
そして、書類の隅にメモを残した。
依頼番号二〇八一。手数料二十パーセント。A-714。根拠未確認。
昨日の手数料。
今日の手数料。
薬草の特別配分。
すべて、同じコードでつながっている。
ただし、まだ分からないことがある。
このコードは、不正な処理をするために使われているのか。
それとも、何らかの正規の制度に基づいて使われているのに、必要な説明や記録が省かれているだけなのか。
両者は、似ているようで違う。
私は、精算書をもう一度見た。
報酬、金貨五枚。
手数料、金貨一枚。
支払額、金貨四枚。
計算そのものは、合っている。
しかし、計算が合っていることと、処理が正しいことは別だ。
……本当に、面倒な世界である。
◇
昼過ぎ、私は会計担当のエッダを訪ねた。
エッダは、ギルドの会計を長年担当している女性だ。
年齢は五十歳前後。
眼鏡をかけ、いつも髪をきっちりとまとめている。
机の上には書類が積み上がっているが、どの書類も、必要な順番で並んでいる。
私は、この人の机を見ると少し安心する。
少なくとも、ここには秩序があるように見えるからだ。
「エッダさん、少しよろしいですか?」
「ミレイユ? どうしたの?」
「A-714について、お伺いしたいことがあるんです」
エッダの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、昨日から私は、そういう小さな変化に敏感になっている。
「……そのコードを、どこで見たの?」
「精算記録と、倉庫の出庫記録です」
「そう」
エッダは眼鏡を外し、机の上に置いた。
「誰かに、調べろと言われたの?」
「いいえ。私が見つけました」
「そう……」
彼女は、しばらく考え込んでいた。
そして、声を落とした。
「ミレイユ。そのコードについては、私から説明できることはないわ」
「ご存じなんですか?」
「……知っていることと、説明できることは違うのよ」
昨日も、似たような言葉を聞いた。
触らないほうがいい。
昔からの決まり。
説明できない。
このギルドには、説明できないことが多すぎる。
「エッダさん。ひとつだけ確認させてください」
「何?」
「A-714というコードは、現在も有効なんですか?」
エッダは、私を見た。
その目には、疲れがにじんでいた。
「……規則上は、廃止されているわ」
「規則上は?」
「正式な制度としては、十年前に廃止されたはずよ」
「では、現在の精算記録に使われているのは?」
「分からないわ」
即答だった。
私は、彼女の表情を観察した。
嘘をついているようには見えない。
ただ、何かを知っているのに、話せないようにも見えた。
「……エッダさん」
「これ以上は、聞かないで」
彼女は、眼鏡をかけ直した。
「あなたが何を見つけたのかは知らない。でも、ひとつだけ覚えておいて」
「はい」
「数字が合っているからといって、正しいとは限らない。数字が合っていないからといって、誰かが盗んだとも限らない」
私は、思わず姿勢を正した。
「……はい」
「本当に調べるつもりなら、数字だけを見ないことね。その数字が、誰のために作られたのか。誰が承認したのか。そして、誰がその数字を信じているのか」
エッダは、机の引き出しを開けた。
そこから、古い帳簿を一冊取り出す。
表紙は擦り切れ、背表紙には何度も修繕した跡があった。
「これは、十年前の会計記録よ。閲覧制限がかかっているから、あなたに渡すことはできない」
「……はい」
「でも、ひとつだけ見せてあげる」
彼女は帳簿を開き、あるページを指さした。
そこには、A-714の記載があった。
その隣に、手書きで短い注記が残されている。
『原記録と集計記録の一致を確認。ただし、実態確認は対象外』
「……実態確認は対象外?」
私は、その言葉を読み返した。
数字は合っている。
けれど、実態は確認していない。
それは、つまり。
「エッダさん。これは、どういう意味ですか?」
彼女は、帳簿を閉じた。
「そのままの意味よ」
「でも、原記録と集計記録が一致しているなら、通常は問題ないのでは?」
「通常はね」
「では、どうして実態確認が対象外に?」
エッダは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……確認してはいけないものが、あったからよ」
私は、言葉を失った。
確認してはいけないもの。
そんなものが、会計に存在するのだろうか。
いや、正確には、存在してはならないはずだ。
記録を作る以上、その記録が何を表しているのか、確認できなければならない。
そうでなければ、数字はただの飾りになってしまう。
「ミレイユ」
エッダが、私の目を見た。
「あなたは、間違いを見つけるのが得意なのかもしれない。でも、間違いを直すことが、いつも人を救うとは限らないわ」
「……」
「そのことだけは、忘れないで」
私は、うなずいた。
彼女の言葉は、昨日の匿名の手紙と重なっていた。
北方への配分を止めてはいけない。
確認してはいけないものがある。
それらは、同じことを意味しているのだろうか。
まだ分からない。
けれど、少なくとも、A-714が単なる横領のためのコードではない可能性が出てきた。
何かを守るために、記録の一部を見えなくしている。
もしそうなら。
その「何か」は、何なのだろう。
◇
夕方、私は受付カウンターの片付けをしていた。
今日も、いくつかの依頼が完了し、いくつかの報酬が支払われた。
保留になった精算は三件。
そのうち二件は、A-714に関連するものだった。
どちらも、計算そのものは間違っていない。
しかし、規則上の根拠が確認できない。
私は、保留箱に書類をしまった。
そして、机の上を拭いた。
こういう単純作業をしていると、頭の中が少し整理される。
A-714。
北方地域。
十二名分の埋葬費用。
活動中の冒険者。
十年前に廃止された制度。
実態確認は対象外。
ひとつひとつは、別々の記録だ。
だが、同じコードが何度も現れる以上、無関係とは考えにくい。
問題は、どこから調べるべきか。
私は、昨日の報告書を思い出した。
セドリックは、独自の調査をやめるように言った。
そして、トーマスの父親が残した資料を見たとき、明らかに動揺していた。
彼は、何かを知っている。
しかし、それを私に話すつもりはない。
ならば、正式な手続きで説明を求めるしかない。
私は、新しい用紙を取り出した。
件名は、こうした。
『A-714に関する正式照会の申請』
内容は、簡潔にまとめた。
現在の精算記録および在庫管理記録に、廃止済みとされるA-714が使用されている。
当該処理の規則上の根拠、承認権限、記録の保存場所について確認を求める。
また、北方地域の記録に関連する可能性があるため、監査官による確認を希望する。
最後に、私は自分の名前を書いた。
ミレイユ・アルブレヒト。
これでいい。
私は書類を封筒に入れ、提出用の箱にしまった。
明日、セドリックに提出しよう。
正式な手続きを通す。
勝手に調査しない。
証拠を残す。
それなら、誰にも文句は言われないはずだ。
……いや。
このギルドで、そんな常識が通用するとは限らない。
◇
その日の夜。
私は、帰宅する前に、もう一度だけ書庫へ立ち寄った。
もちろん、北方地域の資料を調べるためではない。
閲覧制限がかかっていると分かっている記録を、勝手に見るつもりはなかった。
ただ、ひとつ確認したいことがあったのだ。
昨日見つけた、三年前の冬季救援物資の支出記録。
そこに記載されていた、十二名分の埋葬費用。
その支払先は、北方救援管理局だった。
私は、通常の支払記録を調べた。
同じ管理局への支払いは、ほかにも存在する。
冬季備蓄費用。
治療薬の購入費用。
輸送費。
どれも、支払先の署名と受領印がある。
しかし、十二名分の埋葬費用だけは違った。
受領印はある。
支払記録もある。
金額も一致している。
だが、受領者の名前がない。
代わりに、こう書かれていた。
『受領者本人確認済み』
私は、昨日の精算書を思い出した。
登録番号三〇一七の冒険者。
受領印の欄に記された、同じ言葉。
本人確認済み。
そして、承認コードA-714。
「……まさか」
私は、帳簿を閉じた。
まだ、何も断定できない。
しかし、これは確認する価値がある。
もし、本人確認という手続きが、通常の記録とは異なる方法で行われているのなら。
もし、その方法がA-714に関連しているのなら。
昨日、私の前に現れた冒険者は、本当に登録番号三〇一七の本人だったのだろうか。
私は、机の上に帳簿を戻した。
そのとき。
書庫の入り口に、人影が立っていることに気づいた。
「……ミレイユ?」
振り返る。
そこにいたのは、バルドだった。
彼は、私の手元の帳簿を見ていた。
そして、顔色を変えた。
「お前……何を見た?」
私は、すぐに答えられなかった。
なぜなら、彼の声には、怒りよりも強いものが混じっていたからだ。
恐怖。
そう。
バルドは、怯えていた。
「支部長。私は、通常の支払記録を確認していただけです」
「その帳簿を閉じろ」
「……はい?」
「今すぐだ」
私は、ゆっくりと帳簿を閉じた。
バルドは、書庫の扉を閉めた。
そして、周囲に誰もいないことを確認してから、私に近づいた。
「ミレイユ。ひとつだけ、約束してくれ」
「何でしょうか」
「A-714のことは、誰にも話すな」
私は、彼を見つめた。
「……でも、すでに監査官のセドリックさんはご存じです」
「セドリックだけじゃない。トーマスにもだ」
「トーマスさんは、お父様の資料を持っています」
「だからこそだ!」
バルドは、声を荒らげた。
そして、すぐに口を閉じた。
まるで、自分の声が大きすぎたことに気づいたようだった。
「……頼む」
その言葉は、命令ではなかった。
お願いだった。
「お前が何を見つけたのか、私は知らない。だが、これ以上調べれば、取り返しのつかないことになる」
「何が起きるんですか?」
「……」
「支部長。私は、何が正しいのかを知りたいんです。誰かを告発したいわけでも、ギルドを潰したいわけでもありません」
バルドは、苦しそうに目を閉じた。
「……それでもだ」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
「お前は、まだ何も知らない」
その言葉を残し、バルドは書庫を出ていった。
私は、閉じた帳簿を見つめた。
何も知らない。
そのとおりだ。
私は、まだ何も知らない。
十二名が誰なのか。
なぜ埋葬費用が支払われたのか。
なぜ冒険者名簿では、彼らが活動中のままなのか。
そして、なぜバルドは、そこまで怯えているのか。
分からないことだらけだ。
けれど、ひとつだけ。
私は、今日、確信した。
このギルドでは、記録を見られることそのものを恐れている人がいる。
それは、単に不正が発覚することを恐れているのだろうか。
それとも。
記録の中に、誰かが絶対に知られたくない事実が残っているからなのだろうか。
私は、書庫の灯りを消した。
明日は、セドリックに正式な照会書を提出する。
そして、彼が何を答えるのかを確かめる。
受付嬢として、できることをする。
それだけだ。
……本当に、それだけで済んでほしい。




