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第二話 その薬草、倉庫にはありませんけど?

 

 ☆★☆


 翌朝、私は出勤して五分で後悔した。


 正確に言えば、家を出た時点ですでに後悔していたのだが、ギルドの扉を開けた瞬間、その後悔は確信に変わった。


「ミレイユ! ちょうどいいところに来た!」


 支部長のバルドが、受付カウンターの向こうから手招きしている。


 嫌な予感しかしない。


「おはようございます。何かありましたか?」


「倉庫の在庫確認を頼む」


「……倉庫の?」


「そうだ。簡単な仕事だ。午前中には終わる」


 バルドはにこやかに笑った。


 昨日、私が精算書の不正な手数料について指摘したときと、まったく同じ笑顔だった。


 経験上、こういう笑顔を浮かべる上司が「簡単な仕事」と呼ぶものは、大抵の場合、簡単ではない。


「在庫確認でしたら、倉庫担当の方がいらっしゃいますよね?」


「急用でな。今日は休みだ」


「昨日もいらっしゃいましたよね?」


「昨日は昨日だ」


「そうですね」


 会話が成立しているようで、まったく成立していない。


 私は差し出された書類を受け取った。


 表紙には、こう記されていた。


 『薬草類・月次棚卸表』


 棚卸し。


 帳簿に記録されている在庫と、実際に倉庫に存在する在庫を照合する作業だ。


 受付嬢の仕事ではない。


 少なくとも、私が採用されたときの説明にはなかった。


「支部長。ひとつ確認してもよろしいですか?」


「何だ?」


「私が倉庫の在庫を確認するのは、業務命令ということでよろしいでしょうか?」


「……そうだが?」


「では、確認した数量に差異があった場合、その報告を受けて処理を決める責任者は支部長ですね?」


 バルドの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。


「もちろんだ」


「分かりました。それでは、現物と帳簿を別々に記録して、差異があればそのまま報告します。帳簿の数字に合わせるような修正は、指示があっても根拠を確認してからにしますね」


「……誰も、そんなことは頼んでいない」


「それなら安心です」


 私は書類を抱え、倉庫へ向かった。


 背後から、バルドのため息が聞こえた。


 定時まで、あと八時間。


 長い一日になりそうだった。



     ◇



 ギルドの倉庫は、建物の裏手にある。


 薬草、魔物の素材、討伐証明用の部位、依頼人から預かった道具。冒険者が持ち帰ったもののうち、買い取りや一時保管が必要な品は、ここに集められる。


 もちろん、すべての品を受付嬢が把握しているわけではない。


 だからこそ、入庫記録と出庫記録がある。


 何が、いつ、誰によって持ち込まれ、どの依頼に使われ、誰に引き渡されたのか。


 その記録を積み重ねることで、倉庫に何があるはずなのかを把握する。


 帳簿というのは、未来の自分が過去の自分を疑うためにあるのだ。


 昨日の私、よく分からない手数料を見つけてくれてありがとう。


 今日の私、できれば何も見つけないでほしい。


「ええと……月次棚卸表、薬草類の欄は……」


 私は書類をめくった。


 薬草A。薬草B。薬草C。


 この世界の薬草には、ずいぶんと風情のない名前がついている。


 もっとも、正式名称は別にある。薬草Aは解毒薬の原料になる青葉草、薬草Bは傷薬に使われる赤根草、薬草Cは魔力回復薬に使われる月白草だ。


 棚卸表によると、現在の在庫は以下のとおり。


 青葉草、百二十束。


 赤根草、八十束。


 月白草、四十束。


「……百二十束?」


 私は思わず顔を上げた。


 青葉草は、この地方では比較的よく採れる薬草だ。しかし、百二十束というのは、かなりの量である。


 倉庫の棚を見渡す。


 左から、木箱が三つ。


 その隣に、麻袋が二つ。


 さらに奥に、薬草を乾燥させるための棚が並んでいる。


 私は棚卸表を片手に、ひとつずつ数え始めた。


 一束。


 二束。


 三束。


 ……


「えっと、これで……三十六束?」


 数え直した。


 三十六束。


 もう一度、数え直した。


 三十六束。


 百二十束には、どう数えても届かない。


「うそでしょ……」


 私は棚卸表を見た。


 青葉草、百二十束。


 現物、三十六束。


 差異、八十四束。


 八十四束。


 束という単位は、薬草の種類によって多少の違いはあるが、決して小さな量ではない。


 八十四束もあれば、小さな村の診療所なら相当な期間を支えられる。


 もちろん、帳簿の数字が間違っている可能性はある。


 前月の棚卸しで数え間違えたのかもしれない。


 納品された薬草を、まだ帳簿に反映していないのかもしれない。


 あるいは、すでに出庫しているのに、記録が漏れているのかもしれない。


 だから、いきなり「誰かが盗んだ」と考えるのは早計だ。


 私は棚卸表の余白に、数字を書き込んだ。


 帳簿残高:120束。実地数量:36束。差異:84束。原因未確認。


 原因未確認。


 この一言は重要だ。


 まだ誰も犯人ではない。


 ただ、帳簿と現物が一致していないだけだ。


 ……まあ、八十四束という数字は、なかなかの迫力だが。



     ◇



「何をしている?」


 背後から声がした。


 振り返ると、倉庫の入り口にバルドが立っていた。


「棚卸しです」


「それは見れば分かる。何を数えている?」


「青葉草です」


「そうか。で、どうだった?」


 私は棚卸表を見せた。


「帳簿上は百二十束ですが、現物は三十六束でした」


「……何?」


「差異は八十四束です」


 バルドは書類を受け取ると、数字を見つめた。


 そして、数秒後。


「数え間違いだ」


 即答だった。


「もう二度、数えました」


「棚の奥を見たか?」


「見ました」


「別の保管場所は?」


「この棚卸表に記載されている保管場所は、すべて確認しました」


「なら、記録漏れだ」


「可能性はあります。ですので、入庫記録と出庫記録を照合したいのですが」


「必要ない」


「……必要ない?」


「青葉草は、先週まとめて別の倉庫へ移した。記録が追いついていないだけだ」


 私は手元の書類を見た。


 この棚卸表の作成日は、昨日。


 備考欄には、保管場所の変更なし、と記載されている。


「先週、別の倉庫へ移したのですか?」


「ああ」


「移動伝票はありますか?」


「後で探しておく」


「移動先の倉庫はどちらですか?」


「……何だ、質問ばかりだな」


「在庫が八十四束足りないので、移動先が分かれば確認できます」


「だから、記録漏れだと言っているだろう!」


 倉庫の中に、バルドの声が響いた。


 私は口を閉じた。


 怒鳴られたからではない。


 怒鳴る必要があったのだろうか、と考えたからだ。


 記録漏れなら、記録を確認すればいい。


 別の倉庫へ移動したのなら、移動先を確認すればいい。


 それだけの話である。


 なのに、どうしてこの人は、確認すること自体を嫌がるのだろう。


「……分かりました」


 私は棚卸表を閉じた。


「それでは、現時点では差異の原因が確認できていない、と報告します」


「待て」


 バルドが私の手元を指さした。


「そんな報告を出されたら、上が騒ぐだろう」


「現物と帳簿が一致していませんので」


「だから、記録漏れだと言っている!」


「でしたら、移動伝票を確認してから報告を訂正できます」


「……」


「記録が見つかれば、すぐに解決しますよ」


 私はできるだけ穏やかに言った。


 バルドはしばらく私を睨んでいたが、やがて棚卸表を突き返した。


「勝手にしろ」


 そう言い残し、倉庫を出ていった。


 私はその背中を見送った。


 どうやら私は、また何かを見つけてしまったらしい。


 そして今回は、昨日の手数料よりも厄介な気がする。



     ◇



 入庫記録と出庫記録は、倉庫の事務机に保管されていた。


 記録自体は整っている。


 青葉草の入庫は、前月に二度。


 一度目が六十束。


 二度目が四十束。


 合計百束。


 前月からの繰越が二十束。


 合わせて百二十束。


 棚卸表の数字と一致している。


 つまり、少なくとも帳簿の上では、百二十束という数字には根拠がある。


 次に出庫記録。


 薬屋への売却が二十束。


 ギルド直属の治療所への引き渡しが十束。


 冒険者への依頼用支給が八束。


 合計三十八束。


 百二十束から三十八束を差し引けば、残りは八十二束。


 ……いや、待って。


 私は指を止めた。


 現在の帳簿残高は百二十束。


 出庫記録が三十八束。


 それなら、前月の繰越と入庫の合計は百五十八束でなければならない。


 しかし、実際には百二十束だ。


 私は計算をやり直した。


 繰越二十束。


 入庫百束。


 合計百二十束。


 そこから出庫三十八束。


 残り、八十二束。


 そう。


 出庫記録が正しいなら、帳簿上の残高は八十二束になるはずなのだ。


 ところが、棚卸表には百二十束と記載されている。


 現物は三十六束。


 差異は八十四束。


 数字が、三つに分かれてしまった。


「……ちょっと待って。これ、どういうこと?」


 私は棚卸表と入出庫記録を並べた。


 百二十束。


 八十二束。


 三十六束。


 どれも、単独では存在し得る数字だ。


 百二十束は、入庫の合計。


 八十二束は、入庫から出庫を差し引いた残高。


 三十六束は、実際に倉庫に存在する数量。


 問題は、三つの数字が、同じものを表しているかのように扱われていることだった。


 そして、もうひとつ。


 出庫記録の最後のページに、見覚えのあるコードがあった。


 A-714。


 私は息を止めた。


 昨日、古い帳簿で見つけたコード。


 廃止済みと書かれていた、あの制度。


 記録には、こう書かれていた。


 『青葉草・特別配分。八十四束。処理済み』


 日付は、今月の初日。


 つまり、十二日前。


「……八十四束?」


 私は現物の数量を見た。


 三十六束。


 帳簿上の入庫合計を見た。


 百二十束。


 そして、出庫記録の特別配分。


 八十四束。


 百二十から八十四を引くと、三十六。


 ぴったりだった。


 いや、待って。


 ぴったり合っているのに、なぜ棚卸表は百二十束のままなのだろう。


 もし八十四束が正式に出庫されていたのなら、残高は三十六束になる。


 現物と一致する。


 だが、その出庫が通常の出庫として処理されていないために、棚卸表の数字が更新されていないのだとしたら?


 私は記録をさらに調べた。


 通常の出庫には、受領者の署名がある。


 薬屋の署名。


 治療所の責任者の署名。


 冒険者の受領印。


 ところが、特別配分の欄には、受領者の名前がなかった。


 承認コードだけが記載されていた。


 A-714。


 処理済み。


 受領者不明。


 私は椅子の背もたれに体を預けた。


 昨日の手数料。


 今日の薬草。


 偶然だろうか。


 もちろん、まだ断定はできない。


 しかし、少なくとも、同じコードが二つの異なる処理に使われている。


 これは記録しておくべき事実だった。



     ◇



「おい、嬢ちゃん」


 事務机の向こうから声がした。


 顔を上げると、年配の倉庫係が立っていた。


 背が低く、白髪交じりの髪を後ろで束ねている。昨日、バルドが「急用で休みだ」と言っていた人物とは別の、臨時の倉庫係らしい。


「何を調べてるんだ?」


「青葉草の在庫です。帳簿と現物が一致しないので」


「……ああ」


 倉庫係は、妙に納得した顔をした。


「またか」


「また?」


 私は椅子から立ち上がった。


「以前にも、同じようなことがあったんですか?」


「そりゃあ、あるさ。倉庫の品なんて、毎日動いてるんだからな。多少のズレは珍しくない」


「多少、というのは?」


「一束、二束。多くても五束くらいだな」


「八十四束は?」


「そりゃ、多少とは言わん」


 ですよね。


 私もそう思います。


「この特別配分という処理、ご存じですか?」


 私は記録を見せた。


 倉庫係の表情が変わった。


 ほんの一瞬だったが、確かに変わった。


「……どこでそれを?」


「出庫記録にありました」


「それは、触らんほうがいい」


「どうしてですか?」


「昔から、そういう決まりなんだ」


 また、それだ。


 昨日も聞いた。


 今朝も聞いた。


 そして今、三度目である。


「すみません。確認したいのですが、その決まりは規則集のどこに書かれていますか?」


「規則集?」


「はい。特別配分の承認者、受領者、記録方法。通常の出庫と違う処理をするなら、その根拠があるはずです」


 倉庫係は黙り込んだ。


 やがて、周囲を気にするように視線を動かし、声を落とした。


「嬢ちゃん。あんた、昨日の精算書にも口を出したんだってな」


「……どこでそれを?」


「このギルドじゃ、そういう話はすぐ広まる」


 最悪だ。


 私は平穏な受付業務を望んでいるだけなのに、どうして職場の噂話の中心にまでなっているのだろう。


「別に、口を出したというほどではありません。規則にない手数料の根拠を確認しただけです」


「そういうのを、口を出したと言うんだよ」


 倉庫係は苦笑した。


「昔からここで働いてる連中は、みんな知ってる。触らなきゃ済む話ってのがあるんだ」


「……」


「余計なことを調べて、仕事を失った人間もいる」


 その言葉で、私はトーマスの顔を思い出した。


 十年前、帳簿を改竄したと疑われ、ギルドを追われた父親。


 彼が持っていた手掛かりも、A-714だった。


「その人も、特別配分を調べていたんですか?」


 倉庫係は答えなかった。


 答えないことが、何よりも雄弁だった。



     ◇



 昼休みになっても、私は食堂へ行かなかった。


 正確には、行く気がしなかった。


 頭の中で数字が回っている。


 百二十。


 八十二。


 三十六。


 そして、八十四。


 問題は、青葉草が八十四束なくなったことではない。


 記録上は、八十四束が出庫されている。


 その数字自体は、現物の残高と一致する。


 問題は、出庫の記録が通常の手続きを通っていないこと。


 受領者が分からないこと。


 承認者も分からないこと。


 そして、棚卸表が、その出庫を反映していないことだ。


 これでは、帳簿を見ても実際の在庫が分からない。


 反対に、現物だけを見ても、何が起きたのか分からない。


 私は机の上に、三枚の書類を並べた。


 入庫記録。


 出庫記録。


 棚卸表。


 それぞれの数字は、別々の意味を持っている。


 しかし、ひとつの取引としてつなげた瞬間、矛盾が生じる。


 もし八十四束が正規の手続きで出庫されていたのなら、受領者の記録があるはずだ。


 もし出庫が誤記だったのなら、八十四束がどこへ行ったのかを説明する必要がある。


 もし特別配分が通常の出庫とは別の制度で処理されているのなら、その制度の規則と承認記録が必要だ。


 どの可能性を採っても、今ある書類だけでは説明がつかない。


「……やっぱり、確認するしかないか」


 私は新しい用紙を取り出した。


 件名は、簡潔にした。


 『青葉草の在庫差異に関する照会』


 本文には、確認できた事実だけを書いた。


 帳簿残高、八十二束。


 実地数量、三十六束。


 差異、四十六束。


 なお、別記録に八十四束の特別配分処理が存在するが、受領者および承認根拠が確認できない。


 現時点では、差異の原因は特定できない。


 以上について、移動伝票、受領記録、特別配分の承認書類の提示を求める。


 最後に、私は自分の名前を書いた。


 ミレイユ・アルブレヒト。


 たったこれだけの書類なのに、書き終えたときには、ひどく疲れていた。


 私はただ、数字を合わせたいだけなのだ。


 数字を合わせるためには、その数字が何を意味しているのかを知らなければならない。


 そして、その意味を知ろうとすると、誰かが嫌な顔をする。


 ……この仕事、採用面接で聞いていた内容と違いすぎない?



     ◇



「ミレイユ」


 夕方、バルドに呼び出された。


 支部長室に入ると、机の上に私が提出した照会書が置かれていた。


「これは何だ?」


「照会書です」


「見れば分かる」


「それでしたら、説明は不要ですね」


「そういう意味じゃない!」


 バルドが机を叩いた。


 私は肩をすくめた。


「青葉草の在庫が一致していないので、記録の確認をお願いしました」


「記録なら確認した。問題ない」


「移動伝票を確認できていません」


「必要ないと言っただろう!」


「では、特別配分の承認書類を見せていただけますか?」


 バルドは口を閉じた。


 その沈黙で、私はひとつのことを理解した。


 彼は、単に面倒だから調査を嫌がっているわけではない。


 何かを知っている。


 そして、それを私に知られたくないのだ。


「ミレイユ」


 バルドは、先ほどよりも低い声で言った。


「お前は、受付嬢だ」


「はい」


「倉庫の管理は倉庫係の仕事だ。会計は会計担当の仕事だ。お前は冒険者の受付をしていればいい」


「そのとおりです」


「なら、なぜ余計なことをする?」


「支部長から、在庫を確認するよう命じられたからです」


「……」


「確認した結果、差異がありました。私はその結果を報告しています。それ以上のことはしていません」


 バルドは、私を見つめた。


 何かを言いかけて、やめた。


 そして、椅子に深く腰掛けた。


「……分かった。書類は預かる」


「ありがとうございます」


「今日はもう帰れ」


「はい。お疲れさまでした」


 私は頭を下げ、支部長室を出た。


 扉を閉める直前、バルドが小さく呟く声が聞こえた。


「……どうして今になって」


 誰に向けた言葉なのかは分からなかった。


 けれど、私は聞かなかったことにした。


 今のところは。



     ◇



 帰り支度をしていると、受付カウンターの端に、一枚の紙が置かれていることに気づいた。


 私宛てだった。


 差出人の名前はない。


 紙を開くと、短い文章が書かれていた。


 『青葉草の八十四束は、北方へ送られた。記録を追うなら、三年前の冬の帳簿を見ろ。』


 私は何度も読み返した。


 北方。


 三年前の冬。


 そして、八十四束。


 誰が書いたのだろう。


 倉庫係だろうか。


 バルドだろうか。


 それとも、昨日ギルドを訪れたトーマスなのか。


 私は紙を裏返した。


 裏面には、もう一行だけ書かれていた。


 『ただし、北方への配分を止めてはいけない。』


「……は?」


 思わず声が出た。


 止めてはいけない?


 不正な手続きで薬草が運び出されているのに?


 いや、待って。


 不正な手続きであることと、薬草を送ること自体が間違っていることは、別の話だ。


 もし北方に薬草を必要としている人がいるのなら、配分そのものを止めるべきではないのかもしれない。


 しかし、必要な配分なら、なぜ正規の手続きを通さないのだろう。


 受領者を記録できない理由があるのだろうか。


 そして、なぜ三年前の冬なのか。


 私は机の引き出しから、昨日見つけた古い記録の写しを取り出した。


 廃止済みの特別配分制度。


 承認コードA-714。


 その横に、もうひとつの記載があった。


 『北方結界維持費』


 私は、しばらくその文字を見つめていた。


 窓の外では、夕暮れの街を冒険者たちが歩いている。


 酒場へ向かう者。


 装備を修理する者。


 家族への土産を抱えて帰る者。


 彼らが明日も仕事を続けられるように、ギルドは依頼を受け、報酬を支払い、物資を管理している。


 その仕組みが正しく動いているからこそ、冒険者は安心して魔物と戦える。


 もし、その仕組みの一部が壊れているのなら。


 もし、壊れていることを誰もが知りながら、直せない理由があるのなら。


「……面倒なことになってきたなあ」


 私は椅子に座り直した。


 明日は、三年前の冬の帳簿を探そう。


 それだけだ。


 帳簿を探して、数字を確認して、必要なら照会する。


 いつもどおりの仕事である。


 ただし、明日からは、少しだけ慎重に行動しようと思う。


 何しろ私は、受付嬢なのだ。


 剣も魔法も使えない。


 敵に囲まれたら、たぶん一分も持たない。


 だからこそ、せめて書類くらいは、最後まで読まなければならない。


 私は照会書の控えを鞄にしまった。


 そして、机の上に残った棚卸表をもう一度見た。


 百二十束。


 八十二束。


 三十六束。


 数字は、まだ合っていない。


 けれど、少なくとも今日、ひとつだけ分かったことがある。


 このギルドでは、帳簿に書かれた数字よりも、帳簿に書かれていないことのほうが、ずっと重要らしい。


 ──そして翌朝、私は三年前の冬の帳簿を開き、そこに記された「死亡者十二名」という報告と、冒険者名簿に記載された「死亡者ゼロ」という数字を見つけることになる。


 もちろん、その時点ではまだ知らなかった。


 この二つの数字が、私の人生を大きく変えることになるとは。



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