第9話 堺の豪商と、巨万の富の匂い
神崎城の応接間には、独特の緊張感が漂っていた。
上座に座る父・景次と長男の一馬。その傍らに控える慶三郎の視線の先には、絢爛豪華な着物を纏い、細い目をさらに細めて笑みを浮かべる男が座していた。
堺の会合衆が一角にして、織田信長や将軍家とも太いパイプを持つ天下の大商人――今井宗久である。
「いやはや……神崎様。近江の山合いにある小さな御城と伺っておりましたが、城下に一歩入って驚きましたな。足軽も領民も肌が艶やかで、活気に満ち満ちておる」
宗久は扇子をパチリと閉じ、慶三郎へ視線を向けた。
「殊に、噂の『純白の石鹸』とやらに至っては……我が堺の商人の間でも持ちきりにございます。南蛮から入るシャボンなど比ではないほど肌に優しく、汚れが落ちるとか。ぜひ、現物を見せていただきたい」
「遠路はるばるのお越し、感謝いたします、今井様」
慶三郎は落ち着いた所作で礼を執ると、脇に控えていた鶴姫から漆塗りの箱を受け取り、宗久の前へ差し出した。
蓋を開けると、ふわりと爽やかな柑橘の香りが広がる。
中に収まっているのは、不純物を完璧に取り除いて成形された、極上の『純白石鹸』だ。さらに慶三郎はその隣に、もう一つ「小さな桐箱」を並べた。
「な……! これは……!?」
宗久の細い目が、見開かれた。
桐箱の中に鎮座していたのは、透き通るような『無色透明のガラス杯(ぐい呑み)』であった。
戦国時代におけるガラス(硝子)は、南蛮から持ち込まれるわずかな輸入品のみ。それも緑や赤に濁った粗悪な鉛ガラスが主流で、まるで水のように無色透明な珪酸塩ガラスなど、この時代の人間にとっては「奇跡の宝石」に等しい。
「こ、これが……神崎家で作られたとおっしゃるのか……! 歪みも濁りもなく、向こう側が透けて見える……! なんという美しさだ……!」
宗久は思わず膝を進め、震える指先で慎重にガラス杯を持ち上げた。
光にかざすと、行灯の明かりが屈折し、神秘的な輝きを放つ。
「今井様。この『純白の石鹸』と『透明ガラス』……いくらで買い取っていただけますか?」
慶三郎が静かに問いかける。
宗久は喉を鳴らし、素早く算盤を弾くように頭を巡らせた。
「石鹸一つで金一両……いや、朝廷や大名家に納めれば二両は下らぬ! ガラス杯に至っては、一客で金五十両……いや、百両でも喉から手が出るほど欲しい者が山ほどおりますぞ! 慶三郎様、これらをすべて我が今井屋に独占で卸してはいただけまいか! 提示された金額のまま、全額金貨で買い取りましょう!」
商人としての本能を剥き出しにし、身を乗り出す宗久。
だが、慶三郎は首を横に振った。
「お断りします」
「な……っ!? なぜです!? 金ならいくらでも積みますぞ!」
「お金だけでは駄目なのです」
慶三郎はまっすぐに宗久の目を見据えた。
「私が欲しいのは、金銭そのものではありません。――『硫黄』と『天然鉱石』、そして『南蛮の最新技術の情報』です」
「硫黄と……鉱物……?」
「はい。神崎家が欲しいのは、石鹸やガラスを量産するための原材料、そして火薬の材料となる高品質な硫黄です。今井様、あなたのお力で、九州や火山地帯からの硫黄の流通ルートを神崎家のために確保していただきたい」
慶三郎は紙を広げ、取引の条件を提示した。
「石鹸とガラスの独占販売権は、今井屋にお譲りします。ただし、販売利益の三割を直接納めていただくこと。そして、神崎家が指定する量の『硫黄』と『硫酸原料(黄銅鉱等)』を最優先で買い付けて納品すること。これが提携の条件です」
宗久は息を呑んだ。
目の前にいるのは、わずか十四歳の少年だ。
しかしその取引手法は、単に物を売る「職人」のそれではない。原材料の供給網を握り、自らの技術を盾に市場を支配しようとする、洗練された「現代の経営者」の思考そのものだった。
(この青二才……ただの怪しい術者ではない! 経済の理を完全に理解しておる……!)
宗久の背中に、冷や汗が流れる。
だが同時に、この少年の船に乗れば、堺の他の豪商たちを抜き去り、天下の流通を牛耳ることができるという強烈な野心が芽生えていた。
「……ハハ、ハハハハ!」
宗久は突然、扇子で膝を叩いて大笑いした。
「参りましたな! まさか近江の地で、これほどの商売人に巡り会うとは! よろしい、その条件、今井屋が全面的にお受けいたしましょう!」
「ありがとうございます、今井様」
「ですが慶三郎様、一つだけお気をつけくだされ」
宗久は笑みを消し、声をひそめて身を寄せた。
「堺には、南蛮貿易の利益を独占するポルトガル商人や、それに密着する怪しげな『錬金術師』どもがおります。神崎家の『透明ガラス』や『純白の石鹸』が市場に出回れば、彼らの利権は一瞬で吹き飛ぶ。……奴らが黙って指をくわえているとは思えませぬぞ」
「……南蛮の錬金術師、ですか」
慶三郎の目が鋭さを増す。
アリストテレスの四元素説や自然哲学を信奉し、神秘主義で権力者に取り入る中世ヨーロッパの錬金術師たち。
現代の「真の実証科学(化学)」を持つ慶三郎にとって、彼らは避けて通れぬ思想的・政治的ライバルとなるだろう。
「ご忠告、感謝いたします。ですが……どんな企みが来ようと、科学の理で打ち破るまでです」
「くくっ頼もしい限り。では早速、極上の硫黄と鉱物の手配に取りかかりましょうぞ!」
堺の大豪商・今井宗久との強力な経済同盟が締結された。
資金と原材料の供給ルートを得た慶三郎の化学革命は、家中から日本全国へと、その影響力を一気に広げようとしていた。
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