第10話 漆黒の暗殺者と、月下の化学陣
静まり返った月明かりの夜。
神崎城の東端に位置する化学工房は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
夜風が木々を揺らし、川のせせらぎだけが暗闇に響いている。
その静寂を破ることなく、工房を囲む板塀の上から、四つの黒い影が滑り込んできた。
身のこなしに一切の無駄がない。足音一つ立てず、暗闇と同化するように低く身を屈める男たち。
甲賀の里から放たれた忍び――「黒脛巾衆」の刺客たちであった。
「……ここが噂の化学工房というやつか。噂の秘伝書と、『透明ガラス』の製法を記した巻き物を奪う。邪魔立てする者は容赦なく殺せ」
頭領らしき男が低く囁き、指で合図を送る。
目標は工房の最奥にある慶三郎の研究室だ。
忍びたちは刀の柄に手をかけ、気配を殺して敷地内へ踏み出した。
――その瞬間であった。
ポスッ。
先頭を歩いていた忍びの足が、地面に埋め込まれていた小さな竹筒を踏み抜いた。
「なに――!?」
次の瞬間、竹筒から勢いよく白煙が吹き出した。
単なる燻煙ではない。慶三郎が唐辛子から抽出した高濃度カプサイシン成分と、濃アンモニア、亜硫酸ガスを配合した『特製催涙ガス筒』である。
「ぐわぁぁっ!?? 目が……! 目が焼けるように痛いっ!!」
「ゴホッ! ゲホッ……息が……息が吸えぬ……!?」
劇的な激痛と猛烈な粘膜への刺激が、忍びたちの目と鼻、喉を直撃した。
いかに鍛え上げられた忍びといえど、人体の生理現象には抗えない。鼻汁と涙を激しく撒き散らし、刀を落として悶絶する。
「敵襲! 罠だ、退け――!」
頭領が痛みに耐えながら跳躍し、後方へ退避しようとした。
だが、慶三郎の防衛陣地はそれだけで終わらない。
彼らの足元には、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)の濃縮廃液と生石灰を混ぜ合わせた『超高粘性滑走剤』が大量に撒かれていた。
「ぬわっ!?」
着地した頭領の足がズザザーッと派手に滑り、派手な音を立てて体勢を崩した。
摩擦係数を極限まで低下させた液体の上では、どれほど体幹が優れた武芸者であっても立っていることすら不可能なのだ。
「そこまでだ!」
闇の中から、松明の明かりとともに巨漢が飛び出してきた。
工房の「安全検分役」に就任した、古参重臣・黒木厳兵衛である。
「我が主・慶三郎様の城下を荒らす不埒者め! 逃がしはせんぞ!」
「くっ……! 大声を発する前に殺す!」
滑りながらも体勢を立て直した忍びの一人が、懐から手裏剣を取り出し、黒木へ向けて放とうとした。
その時――
パンッ!!!!
夜の静寂を切り裂く、腹に響くような大爆音と、夜空を昼間のように照らし出す強烈な『白銀の閃光』が弾けた。
慶三郎が乾燥させた金属マグネシウム末と塩素酸カリウムを微量反応させた、『現代型マグネシウム塩フラッシュ(閃光粉)』である。
「ぐわあぁぁぁっ!???」
暗闇に目が慣れていた忍びたちは、視神経を灼く強烈な光を直撃され、完全に視界を奪われた。白目を剥き、激しい眩暈とともにその場に崩れ落ちる。
「……そこまでにしてもらいましょうか」
松明を掲げた足軽たちを従え、闇の中から慶三郎が歩み出てきた。
その顔には防毒用の湿った布が巻かれており、瞳には冷徹な科学者の光が宿っている。
「目が眩み、呼吸もできず、足元も覚束ないでしょう。無理に暴れれば、目に入った劇薬で失明しますよ」
「お、おのれ……妖術師め……!」
地面に這いつくばる刺客の頭領が、血走った目で慶三郎を睨みつける。
「妖術ではありません。人の感覚器官と生理現象を、科学的に化学物質で麻痺させただけです。……刀や暗器に頼るから、こういう目にあうのですよ」
慶三郎は静かに見下ろし、黒木に指示を出した。
「黒木殿、一人も殺さずに縛り上げてください。自害用の毒薬は、すでに彼らの懐から『強力磁石』と『酸性洗剤』を使って無効化してあります」
「ハッ! 流石にございます、慶三郎様!」
黒木と足軽たちは、まったく抵抗できなくなった四人の忍びをあっという間に捕縛した。
刺客の頭領は、身動きが取れないまま、恐怖に打ち震えていた。
自分たちが誇ってきた暗殺術や隠密術が、目の前の十四歳の少年が仕掛けた「見えない科学の陣」の前に、何一つ通用せず完敗したのだ。
「慶三郎様、この者ども……どこから放たれた刺客でしょうか?」
黒木が問うと、慶三郎は夜空に浮かぶ月を見上げた。
「堺の今井様から聞いた通りですね。我が家の『火薬』や『透明ガラス』、そしてこの技術力を恐れた外部の勢力……あるいは、近江の動向を伺う『浅井』か、破竹の勢いで上洛を狙う『織田』の忍びかもしれません」
慶三郎の脳裏に、戦国時代の巨頭たちの顔が浮かぶ。
「ですが……これでハッキリしました。神崎家はもはや、山あいの小さな弱小領主ではない。天下の英傑たちが、無視できない存在になったということです」
慶三郎は防毒布を外すと、力強い声で言葉を紡いだ。
「黒木殿。明日から工房の防衛網をさらに強化します。そして……手に入れた硫黄と硝石で、我が神崎家独自の『新式化学兵器』の量産に入ります!」
「ははっ!! どこまでもお供いたしますぞ!」
夜風が吹き抜け、消えゆく白煙を連れ去っていく。
刺客の夜襲を完璧な「科学の防衛戦」で退けた慶三郎。
その名はついに、近江を、そして天下を揺るがす戦国大名たちの耳へと届こうとしていた。
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