第22話 破竹の進撃と、化学の補給線
永禄十一年(一五六八年)九月。
天下の歴史を塗り替える巨大な大軍勢が、近江の地を鳴動させていた。
足利義昭を奉じ、京を目指す織田信長・浅井長政の大連合軍――その数、およそ四万。
これに対し、上洛の道を阻むべく立ち塞がったのは、南近江を支配する旧態依然とした大名・六角義賢であった。
六角軍は堅城として知られる観音寺城とその支城群に拠り、徹底抗戦の構えを見せていた。
「見よ、あの無数の旗印を……! 織田と浅井の本隊が、観音寺城へ向けて進軍を開始したぞ!」
神崎城の本丸櫓。
慶三郎は完成した『三倍率遠見の筒(望遠鏡)』を覗き込み、十数キロ先で繰り広げられる歴史的大合戦の動向を正確に捉えていた。
その隣には、武装を整えた長男の一馬と、作戦図を広げた次男の兵衛が佇んでいる。
「慶三郎、木下藤吉郎殿に引き渡した我が家の『化学兵器』と『衛生キット』……実際の戦でどこまで通用するかだな」
一馬が期待に胸を躍らせて拳を握りしめる。
「心配いりませんよ、一馬兄さん。勝負は戦う前から決まっています」
慶三郎は不敵な笑みを浮かべ、レンズ越しに織田軍の前線部隊――木下藤吉郎率いる先鋒隊へと視線を向けた。
◇
観音寺城の支城・和田山城の前線。
「えぇい、織田の田舎者どもめ! 鉄砲を撃ちかけ、矢の雨を降らせて追い払え!」
城壁の上から六角軍の兵たちが一斉に鉄砲と弓を構えた。
当時の合戦では、守城側が圧倒的に優位であり、鉄砲の黒煙で視界が塞がる中、泥泥とした攻城戦が何日も続くのが常識であった。
しかし――木下藤吉郎率いる織田の先鋒隊は、従来の合戦の常識を根底から打ち破った。
「者共! 慶三郎殿から授かった『遠見の筒』で敵の隙を見極めよ! 狙うは敵の鉄砲頭と大将のみだ!」
藤吉郎の命令を受け、竹束の後ろに控えた織田の狙撃隊が一斉に望遠鏡を覗き込む。
数町先の敵城壁の上、煙の陰に隠れた敵指揮官の顔までもが、まるで目の前にあるかのように鮮明に捉えられていた。
「目標、敵の鉄砲奉行! 距離二町! ――放てぇぇぇっ!!」
ズ・バンッ!!!!
放たれたのは、慶三郎特製の『無煙高純度火薬』を装填した鉄砲隊であった!
従来の火薬のような激しい黒煙や視界を遮る煙幕は一切発生しない。視界はクリアなまま、圧倒的な初速と貫通力を得た鉛弾が、防盾を撃ち破って敵の指揮官を一瞬で射ち倒した!
「な……なにぃっ!?? 敵の鉄砲から煙が出ぬ!???」
「どこから撃たれた!? 姿が見えんのに、将校ばかりが狙い撃破されているぞっ!???」
六角軍の城内は大混乱に陥った。
煙が出ないため敵の射撃位置が特定できず、しかも遠方から正確に指揮官だけが狙撃されていく恐怖。
「凄まじい……! 慶三郎殿の火薬と遠見の筒があれば、敵の防衛陣地など紙同然だがね!!」
藤吉郎は歓喜の声を上げ、刀を振り下ろした。
「全軍突撃ぃぃぃっ! 観音寺城を落とせぇぇぇっ!!」
◇
さらに、合戦の裏側で最大の奇跡を起こしたのは、慶三郎が提供した『野戦衛生キット』と『化学補給線』であった。
激しい攻城戦の中、傷を負った織田兵たちが次々と後方の野戦救護所へと担ぎ込まれていく。
従来の合戦であれば、傷口に汚い泥水や油を塗られ、破傷風や細菌感染による高熱で数日のうちに命を落とす兵が続出していた。
だが、藤吉郎の救護隊は慶三郎の指示通りの『現代衛生手引き』を完璧に実行した。
「傷口を生水で洗うな! まず『高濃度アルコール』で消毒し、滅菌ガーゼで圧迫止血せよ!」
「脱水症状の兵には、この『経口補水塩』を煮沸した水に溶かして飲ませろ!」
純白の石鹸で手を洗った衛生兵たちが、迅速かつ清潔に傷口を処理していく。
結果は劇的であった。
通常であれば傷口が腐敗して死に至るはずの負傷兵たちが、高熱を出すこともなく、驚異的な速度で回復して前線へと復帰していったのだ。感染症による死者は全く出なかった。
「お、おい……傷口が痛まんぞ!? 膿も出てこん!」
「織田様の陣には、病魔を退ける『神の妙薬』があるそうだ……!」
兵たちの士気は留まることを知らず爆発した。
半日も持たずに支城群はことごとく落城。圧倒的な進撃速度と死傷者の少なさに恐怖した六角義賢は、ついに堅城・観音寺城を捨てて夜陰に紛れて逃亡。
南近江の覇者・六角家は、たった一日の攻撃で完全に壊滅・激震したのであった。
◇
「報告! 織田・浅井連合軍、観音寺城を完璧に制圧! 六角義賢は甲賀へ逃亡いたしました!」
神崎城へ届いた吉報に、大広間の景次や黒木厳兵衛らが歓声を上げた。
「一日で……あの堅牢な観音寺城が一日で落ちたというのか!???」
「ははっ! 織田軍の死傷者は極めて少数とのこと! 今や京への道は完全に開かれましたぞ!」
一馬と兵衛が顔を見合わせ、慶三郎の肩を叩いた。
「慶三郎……お前の作った化学兵器と衛生キットが、天下を一日で動かしてしまったな」
「ええ。ですが、これで証明できました」
慶三郎は遠く京の空を見つめ、力強い笑みを浮かべた。
「刀や槍の殺戮ではなく、優れた技術とロジスティクス、そして衛生管理こそが、最も犠牲を少なくし、早く戦を終わらせることができるのだと」
足利義昭を奉じた織田信長の上洛戦は、現代化学の力を借りて歴史上類を見ない大勝利を収めた。
そして天下の覇者となった織田信長と浅井長政、そして木下藤吉郎の目は、この奇跡の勝利を裏から演出しきった「14歳の化学者・神崎慶三郎」へと、ますます強く向けられていくのであった。




