第23話 京の祝宴と、歴史の影
永禄十一年(一五六八年)十月。
秋風が吹き抜ける京の都は、前代未聞の熱狂と熱気に包まれていた。
織田信長・浅井長政率いる四万の大軍が、わずか数日で南近江を制圧し、足利義昭を奉じて堂々の上洛を果たしたからである。
「ひやぁぁぁ……! 見てくれぇ、慶三郎殿! これが京の都だがね! 天下の中心よ!」
清水寺を見下ろす豪奢な大料亭の一室。
酒杯を片手に真っ赤な顔で大はしゃぎしていたのは、上洛戦の先鋒として大手柄を挙げた木下藤吉郎秀吉であった。
「木下様、お飲み過ぎですよ」
慶三郎が苦笑しながら注ぎ足すと、藤吉郎は嬉しそうに酒を飲み干した。
「飲まずにいられるかい! 慶三郎殿の無煙火薬と遠見の筒、そしてあの『衛生キット』のおかげで、我が隊の戦死者はほぼゼロ! 信長様からも『一番の功者』と褒めちぎられたのだからな!」
宴の広間には、織田家・浅井家の名だたる将たちが居並び、舞や楽の音に合わせて杯を交わしていた。
上座には、長身痩躯の体に漆黒の羽織を羽織り、満足そうに目を細める覇王・織田信長。
その隣には、若々しく英気に満ちた眼差しで信長と歓談する北近江の英主――浅井長政の姿があった。
「長政、見事な手際であったぞ。浅井の兵の精鋭ぶり、まことに頼もしい」
「滅相もございません、信長様。これも皆、神崎慶三郎殿が配してくださった新式火薬と補給の賜物にございます」
二人は笑顔で酒杯を酌み交わしている。
実の義兄弟(長政の妻は信長の妹・お市の方)であり、互いを深く尊重し合う仲睦まじい姿であった。
大広間の誰もが、この二大勢力の強固な結びつきによって、日本に長かった乱世が終わり、平穏な時代が訪れることを疑っていなかった。
――ただ一人、慶三郎を除いては。
(浅井長政と織田信長……)
慶三郎は手に持った小さなガラス杯の酒を見つめ、胸の奥が冷たく締め付けられるような戦慄を覚えていた。
慶三郎は現代の日本史を知っている。
この華やかな祝宴からわずか一年余りのち――朝倉討伐を巡って浅井長政は織田信長を突如として裏切り、金ヶ崎で信長を絶体絶命の危機に追い詰め込むのだ。
そしてその結果、二人は血で血を洗う惨烈な死闘を繰り広げ、数年後には浅井家は滅亡。長政は自害し、小谷城は落城する。
さらには、天下を統一しかけた信長も、一五八二年、本能寺で家臣の明智光秀に裏切られ、炎の中で生涯を閉じるのだ。
(僕が持ち込んだ『現代化学』のせいで……歴史は変化してしまうのか……?)
慶三郎の手が、小さく震えた。
もし僕が渡した無煙火薬や遠見の筒のせいで、史実とは違うタイミングで信長が戦死したら?
あるいは、浅井家が史実以上の惨死を遂げることになったら?
自分が「良かれ」と思って創り出した科学の技術が、かえってこの時代の人間たちをより凄惨な地獄へ叩き落とすことになるのではないか――。
自分がやってきたことは、本当に正しかったのだろうか。
「歴史を変えてしまう」という巨大すぎる罪悪感と恐怖が、ずしりと慶三郎の小さな肩に重く伸しかかっていた。
「……慶三郎。酒が進んでいないな」
ふと静かな声が聞こえ、慶三郎は我に返った。
隣に座っていたのは、神崎家の参謀であり、慶三郎の兄である神崎兵衛であった。
兵衛は慶三郎の顔色をじっと見つめ、静かに酒杯を置いた。
「顔色が悪いぞ。……お前は時折、ここにはない何かを見つめているような目をするな」
「えっ……兵衛兄さん……」
慶三郎が息を呑む。
兵衛は算盤を指先でいじりながら、窓の外に広がる京の夜景へと視線を向けた。
「お前が何を恐れ、何に思い悩んでいるのか、私には分からない。……だが、一つだけ言えることがある」
兵衛の言葉は、静かだが確かな力強さを帯びていた。
「ここにいる信長様も、長政様も、藤吉郎殿も、そして我ら神崎家も……みな、明日どうなるか分からぬ乱世を、必死で生きている『人間』だ。お前が創り出した化学のおかげで、今回の上洛戦で死なずに済んだ足軽が何千人もいる。それは動かしようのない事実だ」
兵衛は慶三郎の小さな肩に、優しく手を置いた。
「これからどうなろうと、お前が目の前の命を救おうとした選択を、お前自身が疑うな。……どんな計算式よりも、お前の心が一番正しいのだから」
「……兵衛兄さん……」
慶三郎の瞳から、すっと張り詰めていた糸が切れ、目の前が滲んだ。
自分は一人ではない。
現代の知識という「呪い」のような孤独な重圧を抱えながらも、目の前には自分を信じてくれる家族と仲間がいるのだ。
その時、上座から信長の大口あけた豪快な笑い声が響き渡った。
「くははっ! 慶三郎! こっちへ来い! 貴様の作ったガラス杯で呑む酒は格別だな! 今夜は存分に騒げ!」
「は……はいっ! 織田様!」
慶三郎は涙をぐっと拭うと、明るい笑みを浮かべて立ち上がった。
歴史を変えてしまう恐怖はある。
だが、歴史の観察者として怯えるのではなく、自分の『化学』で大切な人々の命を救い、誰も見たことのない『明るい未来』を創り出してみせる――。
宴の熱気の中、十四歳の化学者の心に、新たな揺るぎない覚悟が静かに芽生え始めていた。




