第21話 上洛前夜と、過熱する化学プランと
黒煙を上げない特製の蒸留窯から、絶え間なく純白の蒸気が立ち上っていた。
神崎城下の化学工房群。そこはもはや一領主の工房の枠を超え、近代的な『総合化学プラント』へと変貌を遂げていた。
「第3ライン、無煙火薬の造粒作業完了! 湿気厳禁、乾燥室へ搬入急げ!」
「第5ライン、高濃度消毒用エタノールの蒸留完了! 密閉ガラス小瓶へ充填せよ!」
工房内に飛び交う指示の声。
汗だくになって作業に追われる職人や足軽たちを、一巻の作業目録を手に冷静に指揮していたのは、神崎家の次男――神崎兵衛であった。
「兵衛兄さん、進捗はどうですか?」
駆け寄ってきた慶三郎が問いかけると、兵衛はチャッチャッと算盤を叩き、すらすらと答えた。
「完璧だ、慶三郎。木下藤吉郎殿と約束した『無煙高純度火薬五百斤』および『野戦衛生キット五百人分』の第一期納入分は、予定より三日早く完成する。作業工程を『分業制(ベルトコンベア方式)』に切り替えたのが効いているな」
兵衛の冴え渡る工程管理能力に、慶三郎は心から感心した。
慶三郎が科学的な化学式や精製手法を提示し、兵衛がそれを「誰でも安全かつ効率的に作れる作業手順」へと落とし込んで最適化する。この兄弟の化学反応こそが、神崎家の圧倒的な生産力を支える原動力であった。
「黒木殿! 原材料の搬入ルートの警備は怠りなく!」
「ははっ! 一馬様率いる警備隊が、不審な忍びや野盗を一匹たりとも近づけさせませぬ!」
工房の周囲では、長男の一馬と黒木厳兵衛が望遠鏡と試作大筒を手に、厳重な警備網を敷いていた。
朝倉・六角の残党を完封した神崎城の防衛線は、いまや隙のない鉄壁と化していたのだ。
◇
一方、工房に併設された衛生用品の縫製・充填作業場。
そこでは母・まつと十二歳の妹・鶴姫を中心に、城下の女衆が総出で『野戦衛生キット』の詰合せ作業を行っていた。
「鶴、そちらの包帯には消毒用エタノールを十分に染み込ませてから、防湿紙で包むのですよ」
「はい、母上!傷口に塗る『特製軟膏(ワセリンと亜鉛華の混合物)』も、バッチリ小壺に詰め終わりました!」
鶴姫は嬉しそうに手際よく袋を閉じていく。
キットの中身は、消毒用高濃度エタノール、純白石鹸、滅菌処理されたガーゼ・包帯、止血帯、そして脱水症状を防ぐ「経口補水塩パウダー」である。
戦国時代の合戦において、兵士の死因の過半は戦闘時の即死ではなく、傷口からの「破傷風・細菌感染」や「不潔な泥水による疫病」であった。この小さなキット一つが、数百人の貴重な兵士の命を戦場で救うことになるのだ。
「……慶三郎兄様たちの化学は、本当にすごいです」
鶴姫が小袋を愛おしそうに撫でながら呟いた。
「お侍様たちが戦うための道具だけじゃなくて、こうして怪我をした人を助けるためのものも作れるのですから」
作業の視察に訪れていた慶三郎は、鶴姫の言葉に優しく目を細めた。
「そうだよ、鶴。戦争を長引かせないための圧倒的な軍力と、倒れた人を生かすための衛生管理。この二つが揃って初めて、乱世を早く終わらせることができるんだ」
◇
数日後。
約束の納入日、神崎城を再訪した木下藤吉郎は、整然と並べられた大量の軍事・衛生用物資を前にして、言葉を失っていた。
「ひ……ひやぁぁぁ……! た、たった一週間で、これほど大量の無煙火薬と、この『衛生キット』とやらを揃えてみせたというか……!???」
藤吉郎は目を剥き、震える手で衛生キットの包みを手に取った。
「慶三郎殿……兵衛殿……貴殿らは一体、何者だね……!? 織田家の全職人を集めても、一ヶ月はかかる量を、これほど完璧な質で揃えるとは……っ!」
「木下様。これが我が神崎家の『科学と工業オペレーション』の力です」
兵衛が静かに胸を張り、納品書を提示した。
「約束通り、無煙火薬五百斤、遠見の筒二十客、野戦衛生キット五百人分、すべて納品いたします。……代金の硝石・銅・綿花の引き渡しをお願いいたします」
「勿論だ! 勿論だとも! 岐阜城から運ばせた最高品質の硝石と銅、すぐに受け取ってちょうだい!」
藤吉郎は大興奮で兵衛の手を握りしめると、慶三郎に向かって深々と頭を下げた。
「慶三郎殿! これで信長様の上洛戦は勝ったも同然だ! 兵は病にかからず、敵の遠くから動きを察知し、煙の出ぬ火薬で敵陣を粉砕する……! この武功、すべて信長様へと報告させていただきますぞ!」
「よろしくお願いいたします、木下様。織田様と浅井様が京へ無事に上洛されることを、心より祈っております」
慶三郎が静かに頭を下げると、藤吉郎は数多くの輸送車隊を引き連れ、風のように岐阜への帰途についた。
去り際、藤吉郎は輝くような笑顔で叫んだ。
「慶三郎殿! 上洛が成功した暁には、京の都で盛大にお祝いをしようかね! 貴殿の『化学』が天下を動かす瞬間を、見届けてちょうだいよっ!」
夕日に照らされる神崎城。
戦国時代の巨大な歴史の歯車が、いま慶三郎たちの創り出した「現代化学の力」によって、猛烈なスピードで回転を始めていた。
天下布武を掲げる織田信長の上洛戦――その舞台の裏で、神崎家は時代の主役に躍り出ようとしていたのだった。
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