第2話 沈黙の神崎城と、闇に浮かぶ純白
強烈な硝酸とアンモニアの臭気が、鼻を刺す。
神崎城の裏手にある馬小屋の脇。慶三郎は汗と泥、そして臭気に塗れながら、木薪を組んだ「硝石丘」の前に立っていた。
「慶三郎様! 木灰を水に溶かした汁、煮詰める準備ができました!」
勝太をはじめとする若い足軽たちが、目を真っ赤にしながら桶を運んでくる。二日不眠不休の作業だというのに、彼らの瞳には焦燥と慶三郎への信頼が宿っていた。
「よし、よくやった。これが最後の工程だ。木灰から取ったアルカリ溶液(炭酸カリウム)と、土の抽出液(硝酸カルシウム)を混ぜ合わせる」
慶三郎は自ら柄杓を取り、大鍋の湯の中に液体を注ぎ入れた。
硝石丘法――排泄物のアンモニアを土中の微生物(硝化細菌)に分解させ、硝酸塩を作る古代からの化学プロセス。通常なら数か月を要する反応だが、慶三郎は温床の温度管理と、馬尿・木灰の適切な配合比率を現代化学の理論で極限まで最適化し、奇跡的な速度で反応を進めていた。
だが、大鍋の周囲を取り巻く城内の空気は、どこまでも冷ややかだった。
「……ハッ、見てみろ。神崎家の三男坊だ」
「大野家から死の宣告を突きつけられて、肥溜めで遊んでいるそうだ」
「鶴姫様を大野の男に売り飛ばすのが嫌で、正気を失ったのだろ。哀れなことよ」
遠巻きに見物する古参の家臣や年配の足軽たちから、隠そうともしない嘲笑と失望の囁きが漏れてくる。
二日目の昼を過ぎ、城内は重苦しい絶望に支配されていた。
大野家への猶予はあと一日。慶三郎の行動を誰一人としてアテにしておらず、城内では全滅覚悟の武具の準備と、城を奪われた後の領民の逃げ道を模索する作業だけが淡々と進んでいた。
「……慶三郎」
低い声とともに歩み寄ってきた長兄・一馬の顔には、怒りや期待はなかった。あるのは、ただ深い呆れと哀れみだった。その手には愛用の槍が握られている。
「もうよい。肥溜めで土を捏ねたところで、妹が救えるわけがなかろう。……狂ったお前を責めはせん。あとは俺たち武者が槍を持って大野と戦うだけだ」
一馬の目は、すでに死を覚悟した武士のそれだった。そこへ、帳簿を抱えた次兄の兵衛も冷ややかな目を向けて歩み寄ってくる。
「慶三郎、父上もお前を庇う余裕などないのだぞ。家中は今、全滅を覚悟して武具を磨く者と、城を明け渡した後の被害を抑える手立てを模索する者で手いっぱいだ。お前のような頼りにならぬ三男坊の戯言につきあっている暇はないのだ」
誰も、慶三郎の起こそうとしている奇跡など信じていなかった。
「兵衛兄上、一馬兄上。どうか……今夜一晩だけ、私を信じて待ってください」
慶三郎は泥のついた手で、しっかりと二人の腕を掴んだ。
「明日の朝、すべてが変わります。神崎家も、鶴も、俺が絶対に守ってみせます」
慶三郎のブレない眼光に、一馬と兵衛はわずかに息を呑んだ。
一馬は深く息を吐き、静かに槍を引いた。
「……分かった。今夜一晩だけだ。明日、何も起きねば……俺は槍を持って突撃する」
兵衛も無言のまま、悲しげに首を振って立ち去っていった。
周囲の嘲笑と、家族の冷ややかな失望。
だが慶三郎の胸の中に迷いはなかった。科学は感情で揺らぐものではない。条件さえ整えば、物質は必ず答えを出す。
――そして、運命の三日目の未明。
夜闇が深まる馬小屋の庇の下。大鍋を静かに冷却していた慶三郎の元に、勝太が駆け寄ってきた。
「慶三郎様……! 鍋の底、鍋の底に何か……!」
慶三郎は松明の火を寄せ、大鍋の中を覗き込んだ。
上澄みの褐色だった液体が冷えるにつれ、鍋底から水面に向かって、まるで冬の夜に咲く結晶のように、純白の結晶が次々と浮かび上がってきていた。
溶解度の差を利用した、硝酸カリウムの再結晶。
「できた……」
慶三郎はその白い結晶を指ですくい上げた。松明の光を浴びて、それはダイヤモンドのように美しくキラキラと輝いていた。
「慶三郎様……これ、なんですか……? 白い雪みたいです……」
勝太が息を呑み、震える声で尋ねる。
「これが『硝石』だ。南蛮船から金貨を積んで買う宝じゃない。俺たちの足元から生まれた、神崎家を救う光だ」
慶三郎は静かに微笑み、胸を張った。
「勝太、今すぐ木炭と硫黄を持ってこい! 最終工程――特製・粒状火薬の調合に入る!」
夜明けとともに訪れる大野家の使者と、神崎家の運命を決する最終決戦まで、あとわずか。
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