第1話 肥溜めの宝山と、死のタイムリミット
「大野家は許せぬ……!」
長兄・一馬の激憤に満ちた声が、重苦しい空気が漂う大広間に響き渡った。
血気盛んで武勇に長けた一馬は、畳に拳を叩きつけ、怒りで肩を大きく揺らしている。
上座に座る父であり神崎家当主・景次は、力なく目を閉じるばかりだった。内政を重視し、領民や家臣を何よりも大切にしてきた景次だが、今ばかりは深く刻まれた眉間のシワがその苦悩を物語っている。
「落ち着いてくだされ、一馬兄上」
次兄の兵衛が、整った顔立ちを曇らせながら静かに言った。切れ者として知られる兵衛の言葉には、重い現実がこもっていた。
「悔しいが、従わねばこの家は滅びますぞ。大野家の要求は『三日のうちに神崎城へ城代・大野厳九郎を迎え入れ、十二歳になる鶴姫を側室として差し出せ。嫌なら三千の兵で城を踏みつぶす』というもの。戦えば、我が領民も兵も全滅です」
広間の片隅では、弱小領主の娘として育った妹の鶴姫が、小さな体を震わせていた。
気が弱く心優しい彼女は、着物の裾を握りしめ、必死に涙をこらえながら小さな声で呟く。
「……お家のためならば。わたくし、大野家へ参ります」
十二歳の少女にそこまでの覚悟を言わせてしまう絶望。
一馬は歯噛みし、景次は痛心に耐えるように胸を押さえた。
その光景を、末子の慶三郎は息をのんで見つめていた。
(……そうだ。俺は、黒木錬だ)
頭痛とともに蘇っていたのは、現代日本で化学メーカーの素材研究員として生きていた記憶。プラント事故で命を落とした俺は、この戦国時代の小大名・神崎家の三男、十四歳の慶三郎として生を受けていたのだ。
普段の慶三郎は大人しく、決して目立つ存在ではなかったが、身分を気取らず、家来の息子たち(小姓や若手足軽)とよく山野を駆け回っていたため、同世代の若者からは非常に慕われていた。
そして今、現代知識と過去の記憶が完全に融合した俺の中で、熱い感情が湧き上がっていた。
(ふざけるな……。こんなに温かい家族が、妹が、悪名高い男の毒牙にかけられようとしているのを黙って見ていられるか!)
神崎城は交通の要衝だ。喉から手が出るほど欲しい大野家は、弱小の神崎家を乗っ取るために難癖をつけてきている。
「せめて……せめて火薬があれば」
父・景次がポツリと漏らした。
「我が家には鉄砲が三十挺ある。火薬さえ十分にあれば、城前の狭い谷あいで三千の敵を防ぎ止めることもできよう。だが、南蛮渡来の硝石は金貨を山と積まねば買えぬ。我が家の蔵はとっくに底を突いておる……」
戦国時代、鉄砲の威力を左右する火薬の主原料「硝石(硝酸カリウム)」は、100%輸入頼みの超高価な貴重品だった。
(硝石が無い? 買えない? ……バカを言え)
化学者としての俺の脳裏に、鮮明な反応式が浮かび上がる。
硝石の化学式はKNO3。窒素源、カリウム、そして土中の硝化細菌さえ揃えば、日本にある材料だけで化学精製できる物質だ。
「……父上」
俺は静かに立ち上がり、大広間の中央へ歩み出た。
「慶三郎? 下がっていなさい、お前まで……」
兵衛が心配そうに声をかける。
「父上、大野家の提示した猶予は『三日』ですね。もし……その三日の間に、敵を撃ち払うのに十分な『極上の火薬』を用意できたら、あの悪党どもの要求を断っていただけますか?」
広間がしんと静まり返った。
一馬があっけにとられ、景次が驚きに目を丸くする。
「慶三郎、何を……。火薬を買う金など、我が家のどこを探しても無いのだぞ」
「買いません。作ります」
「作るだと……!? 火薬の元となる硝石は、南蛮船が運んでくる貴重な品だぞ! 人の手で作れるわけが――」
兵衛が信じられないといった様子で声を張る。
「できます。化学――いえ、真の錬金術を使えば」
俺はきっぱりと言い放ち、力強い目で父を見つめた。
「父上、領内の肥溜めと馬小屋の使用許可をください。それと、竈の木灰と大鍋を。それから……私を慕ってくれる若い足軽たちを、私の指揮下に付けてください!」
「肥、肥溜めだと……!?」
兵衛が絶句する。
「三日間、私に時間をください。もし三日目の朝までに火薬が出来なければ……私を人質として差し出しても構いません。ですが、もし出来たなら――鶴を奴らに渡す必要はありません!」
「慶三郎兄様……!」
鶴姫が泣きそうな顔で俺を見つめる。
父・景次は、普段おとなしい慶三郎が見せた今までにない力強い眼光に息をのんだ。
そして、重々しく頷いた。
「……よかろう、好きにするがよい。慶三郎の望むようにさせてやれ」
景次は疲れた顔でそう言ったが、そこに期待の力強さはなかった。末子の突飛な行動を咎める気力すら失い、せめて死ぬまでの気休めにでもなればという自暴自棄に近い諦めだった。
「感謝いたします!」
俺は大広間を深く一礼して飛び出した。
城の裏手に向かうと、そこには心配そうに待っていた同年代の家来の息子たち――勝太をはじめとする若者たちが集まっていた。
「慶三郎様! 大広間で何かあったのですか!?」
「勝太、みんな。これから三日間、不眠不休の作業になる。臭くて汚くて、泥まみれになる作業だ。だが、これに成功すれば……鶴姫様を助けられる。俺に力を貸してくれるか!」
若い足軽たちは一瞬目を見開いたが、普段から自分たちを対等に扱ってくれる慶三郎の言葉に、力強く頷いた。
「もちろんです! 慶三郎様のため、鶴姫様のためなら、肥溜めにだって飛び込みます!」
「よし! まずは城中の肥溜めから土を掘り起こすぞ!」
戦国時代の常識を覆す化学無双の逆転劇が、臭気漂う神崎城の肥溜めから、今始まった。
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現代化学の知識で突き進む慶三郎と神崎家の物語、いかがでしたでしょうか?
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