第18話 留守居の参謀と、粘着火炎の罠
慶三郎が堺の今井宗久との最終調整のため、黒木厳兵衛ら少数の護衛を連れて神崎城を離れてから、二日が経過していた。
その夜。月明かりすら雲に遮られた漆黒の闇の中、神崎城の裏山から殺気を孕んだ影が忍び寄っていた。
「……フフ、神崎慶三郎は不在。城の警備は手薄だ」
竹林の陰で不敵な笑みを浮かべていたのは、越前の朝倉家と六角家の残党を率いる武将――蒲生賢秀であった。
その背後には、甲冑に身を包んだ三百余りの精鋭部隊が息を潜めている。目的は、神崎城の試作工房を占拠し、無煙火薬や遠見の筒の製法を奪い取ることだ。
「あの天才少年さえいなければ、神崎家などただの弱小領主に過ぎん。工房に火を放ち、資材と巻物を奪い尽くせ!」
賢秀の合図とともに、三百の兵が一斉に工房の柵へ向かって躍り出た。
◇
一方、神崎城の本丸陣屋。
「大変です!敵が来ました!朝倉と六角の兵、およそ三百が裏手の工房へ向かっております!」
物見の報告を受けた長男・一馬が、血相を変えて刀の柄に手をかけた。
「何だと!? 慶三郎が不在の隙を狙ってきたか! 父上、俺が足軽を率いて打って出ます!」
武闘派の一馬が今にも跳び出そうとした、その時――
「――お待ちください、兄上」
静かに制したのは、文机で書類を検分していた次男・神崎兵衛であった。
兵衛は慶三郎が書き残した厚い「研究・防衛マニュアル」をすっと指で叩いた。
「敵の目標は工房の奪取と火放ちです。兄上が正面から打って出れば、敵の別動隊に本丸を突かれます。それに……慶三郎はこの事態を完璧に予測し、対策を残していってくれました」
「慶三郎の対策……? だが、あいつは今、城におらんのだぞ!?」
一馬が苛立ちを露わにするが、兵衛の瞳には一切の揺らぎはなかった。
「慶三郎がいなくとも、この私と兄上がいれば十分です。慶三郎の書いたこの理(化学式)は、正しく運用すれば誰が扱っても同じ威力を発揮する……それが『科学』というものですから」
兵衛は冷徹な眼差しで算盤を弾き、風向きと湿度、敵の進行速度を正確に割り出した。
「兄上は五十の弓隊を率いて第ニ郭へ。合図があるまで、絶対に矢を放ってはなりません。……神崎家の『参謀』として、私が敵を誘導します」
一馬は兵衛の尋常ならざる静かな圧迫感に息を呑み、力強く頷いた。
「……分かった! お前に任せる、兵衛!」
◇
工房の敷地内に踏み込んだ蒲生賢秀の部隊は、異様な静けさに首をかしげていた。
「……奇妙だな。見張りもおらんのか?」
「恐れをなして逃げ出したのでしょう! 賢秀様、奥の研究室へ踏み込みます!」
配下の兵たちが、木造の工房前庭へと殺到した。
その時――屋根の上に掲げられた松明の明かりの中に、ぽつんと立つ一人の少年の姿があった。
「ようこそ、朝倉・六角の皆様。神崎家次男・神崎兵衛です」
「なんだ、ただの童か! 慶三郎ではないな! 命が惜しくば秘伝書を差し出せ!」
賢秀が刀を突きつける。しかし、兵衛は眉一つ動かさず、静かに懐から「懐中時計」を取り出し、秒針(時間を刻む振り子)を凝視していた。
「……現在の風向きは北西、風速三メートル。湿度は六割。慶三郎の計算通りですね」
兵衛は手にした小さな赤旗をすっと振り下ろした。
「――第1防衛物質、解放」
プシューーーーーッ!!!!
工房の前庭に埋め込まれていた配管から、強烈な刺激臭を放つ白煙が一気に吹き出した!
以前の忍び退治でも使われた『高濃度カプサイシン&アンモニアの濃縮催涙ガス』である。
「ぐわぁぁぁっ!?? メ、目が灼けるっ! 息ができん!!」
「目がぁぁっ! 鼻が破裂しそうだぁぁっ!」
前衛の百余りの兵が一瞬にしてパニックに陥り、目を押さえて悶絶した。
「ひるむな! 水を被って突き進め!!」
賢秀が怒号を上げるが、兵衛の冷徹な指揮は止まらない。
「水は逆効果ですよ。……続いて、第2防衛物質」
兵衛の指示で、水路の栓が抜かれた。
水に触れた瞬間、散布されていた生石灰と油脂(石鹸製造の廃油)が反応し、粘着性の高い強力な滑走アルカリローションが地面全体を覆い尽くした。
「ぬわぁぁっ!?」
「す、滑る! 足が追いつかん!?」
水で目を洗おうと前進した兵たちが、派手に転倒し、身動きが取れなくなった。
そして――兵衛は静かに第二の旗を掲げた。
「兄上。前庭の敵兵の密度、目標値に到達しました。……『テルミット粘着火炎弾』投下」
「よし来たぁっ! 放てぇぇぇっ!!」
櫓の上に控えていた一馬の合図で、投石器から丸い土器が前庭の中央へ投げ込まれた。
中に入っているのは、慶三郎が試作していた酸化鉄末とアルミニウム粉末、そして濃縮重油を混ぜ合わせた『テルミット・ナパーム粘着火薬』である。
――ドドォォォォォンッ!!!!
夜空を灼く、凄まじい白熱の炎が弾けた!
三千度に達する超高熱の炎は、水では絶対に消えない。粘着性のオイルとともに地面と敵の防具に燃え移り、暗闇の工房前庭を一瞬にして「不可侵の火の海」へと変えたのだ!
「ひ、ひぃぃぃぃっ!?? 水でも消えん炎だと!??? 悪魔だ……この城には悪魔がおるぞぉぉっ!」
「退け! 退けぇぇぇっ!!」
三百いた敵兵は、刀を一度も交えることなく、パニックを起こして蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
その凄惨なまでの勝利の光景を、兵衛は冷ややかな瞳で見つめ、手元のノートに結果を書き留めた。
「……計算通り。所要時間、六分二十秒。神崎家の被害、ありません」
屋根から降りてきた兵衛のもとへ、一馬が駆け寄ってきた。
「兵衛……お前、凄すぎるぞ!! 慶三郎がいなくても、お前一人で三百の敵を完璧に返り討ちにしやがった……!」
一馬が興奮気味に兵衛の肩を叩く。
しかし、兵衛はふっと優しい笑みを浮かべ、頭を振った。
「いいえ、兄上。私は慶三郎が残した数理とマニュアルを、正確に実行しただけに過ぎません。……ですが、これで証明できました」
兵衛は逃げていく敵の背中を見つめ、力強く言い放った。
「慶三郎のつくる『化学』は、誰か一人の奇跡ではない。神崎家全員で共有し、運用できる『不滅の科学』なのだと」
数日後、堺から帰還した慶三郎は、完璧に防衛された城と、誇らしげに笑う兵衛の姿を見て、心からの感謝と尊敬を込めて兄の手を握りしめるのであった。
神崎家の参謀・兵衛の覚醒。
慶三郎の頭脳と兵衛の論理が合わさった神崎家は、もはやスキのない最強の要塞となっていた。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
もし「面白い」「続きが読みたい」と感じていただけましたら、ページ下部の☆での評価やリアクション、感想をいただけると今後の励みになります!
明日も20:00に更新いたします!




