第17話 氷なき夏の氷菓と、至高の食卓
夏の酷暑が神崎城を包み込んでいた。
連日の化学工房の稼働、そして遠見の筒の量産体制により、城内は活気に満ち溢れていたが、同時に誰もが汗だくで疲労を色濃くにじませていた。
工房の脇にある控室。文机に山と積まれた資材の計算書と格闘していたのは、神崎家の次男――神崎兵衛であった。
「……なるほど。慶三郎が書いたこの試算表、『硝酸』の生成量に対して『銅』の消費が一定の割合になっているのは、不純物の混入率を逆算しているからか」
兵衛は慶三郎が書き残した膨大な「研究ノート」をめくり、すらすらと算盤を弾いていく。
長男の一馬が武芸と直感に秀でた武闘派であるならば、次男の兵衛は静かなる理知の男であった。
家中の誰しもが慶三郎のなすことを「神仏のごとき奇跡」と崇める中、兵衛だけは慶三郎のノートを夜遅くまで読み込み、そこに隠された「法則と数理」を正しく理解しようとしていたのだ。
「兵衛兄さん、相変わらず飲み込みが早いですね」
冷たい井戸水を持ってきた慶三郎が、感心したように声をかけた。
「慶三郎か。ふふ、お前が書く『化学』という学問は実におもしろい。理屈が通っているから、数字を当てはめれば誰でも同じ結果が導き出せる。お前が目指しているのは、職人の勘に頼らない『再現できる豊かな国』なのだろう?」
兵衛の言葉に、慶三郎は目を見張った。
自分の真意をここまで正確に理解してくれている身内がいることに、胸の奥が熱くなる。
「ええ、その通りです。……ですが兵衛兄さん、顔色が悪いですよ。資材計算ばかりで根を詰めすぎです。母上や鶴も、この暑さで食が細くなっていると聞きました」
「まあな。御氷室の氷など、この時期は大名でも滅多に口にできん貴重品だ。暑さで参るのも無理はない」
兵衛が苦笑すると、慶三郎はニヤリと不敵に微笑んだ。
「では、作りましょう。氷室の氷など使わずに、この部屋で『本物の氷』と『キンキンに冷えた甘味』を」
「……なんだと? 氷を……この真夏に作るというのか?」
兵衛の目が、鋭く光った。
◇
神崎城の大食堂。
呼び出された当主・景次、一馬、母のまつ、鶴姫、そして黒木厳兵衛が集まっていた。
「慶三郎、急に集めてどうしたのだ? 何やら大きな木桶を用意して……」
景次が不審そうに尋ねる。
慶三郎の前には、二重構造になった大きな木桶と、山で採れた夏ミカンの搾り汁、蜂蜜、そして二つの『白い粉の袋』が置かれていた。
「皆様、連日の激務でお疲れでしょう。今日は化学の力で、真夏の暑さを吹き飛ばす特製の甘味をご用意しました」
慶三郎は外側の木桶に井戸水を張り、そこに一袋目の白い粉――硝酸の製造過程で副産物として得られた『硝酸アンモニウム』を大量に投入した。
「兵衛兄さん、水温を見ていてください」
「ふむ……温度計の目盛りが……なっ!?」
木桶の水温計を観察していた兵衛が、思わず声を上げた。
水に硝酸アンモニウムが溶け込んだ瞬間、周囲の熱を一気に奪い去る『吸熱反応』が起きたのだ。井戸水は一瞬にして凍りつくような氷水へと変わり、木桶の表面にはみるみるうちに白い霜がびっしりと降りていった。
「な、なんだこれは……!? 湯気が立つどころか、外側が凍りついておるぞっ!?」
黒木が目を丸くして叫ぶ。
さらに慶三郎は、内側の金属容器(夏ミカン汁と蜂蜜を混ぜたもの)の周りに塩と氷を敷き詰め、『凝固点降下』を利用して温度をマイナス十度以下まで一気に叩き落とした。
慶三郎が木ベラで内側の液体を急速にシャカシャカと混ぜ合わせると――黄色い果汁は、あっという間に滑らかな結晶となり、極上の『夏ミカンの極冷シャーベット(氷菓)』へと姿を変えたのだ。
「さあ、召し上がってください」
木杯に取り分けられた氷菓が、家族と黒木の前に出された。
鶴姫が恐る恐る匙ですくい、口へと運ぶ。
「……ああっ!!???」
鶴姫の目が、輝かんばかりに見開かれた。
「つ、つめたい……! お口の中でシャリシャリって溶けて、甘くて酸っぱくて……こんな美味しいもの、生まれた初めて食べました慶三郎兄様っ!!」
「どれ、わしも……ぶはっ!?? つ、冷たぁぁぁいっ!! 旨いっ!! 暑さが一瞬で吹き飛ぶぞ!!」
一馬と黒木が匙を止めることなく、夢中で氷菓を貪り食う。母のまつも「まあまあ……まるで天上の食べ物のようですこと」とほほ笑み、景次は感極まって頷いていた。
そんな喧騒の中、兵衛だけは一口味わった後、静かに硝酸アンモニウムの袋を見つめていた。
「……水に特定の塩類を溶かした際の『溶解熱(吸熱)』と、塩化ナトリウムによる『凝固点降下』の組み合わせか。氷室を使わずとも、化学反応の組み合わせ次第で、任意の温度を作り出せるのだな」
「正解です、兵衛兄さん。さすがですね」
慶三郎が笑うと、兵衛はふっと優しい笑みを浮かべた。
「お前の化学は、本当に素晴らしいな。人を殺す兵器だけでなく、こうして家族を笑顔にし、過酷な夏を乗り切るための『生きる知恵』になる」
兵衛はしっかりと慶三郎の肩を叩いた。
「慶三郎。お前が試作や研究に専念できるよう、工場の人員配置も資材の繰り越しも、すべてこの俺が完璧に管理してやる。お前の『化学』を、俺が最高の形で現場に落とし込んで見せるよ」
「……ありがとうございます、兵衛兄さん!」
頼もしすぎる次男・兵衛の宣言。
一馬の統率と武力、兵衛の冴え渡るロジスティクス、そして慶三郎の現代化学。
三兄弟の絆と神崎家の組織力は、いかなる強大な大名にも負けない最強の領域へと達しようとしていた。
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