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戦国時代の化学者(ケミスト)〜弱小大名の三男に転生した元・研究員が、現代化学で乱世を塗り替える〜  作者: 姉小路信綱


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第16話 水晶の眼と、遠見の筒


神崎城の化学工房。その奥深くにある精密作業室では、シャリシャリと規則的な研磨音が静かに響いていた。


慶三郎の手にあるのは、木製の回転台に固定された二枚の透明な丸ガラスである。


一つは、中央がふっくらと盛り上がった『凸レンズ』。

もう一つは、中央が緩やかに凹んだ『凹レンズ』。


堺の今井宗久から届いた不純物の少ない高純度珪砂(けいしゃ)と、灰汁から精製した炭酸カリウムを千三百度の高温窯で溶かし合わせ、ゆっくりと時間をかけて冷却して歪みを極限まで抑えた、『光学用カリ硝子(ガラス)』である。


「慶三郎様……本当にガラスの板を磨くだけで、遠くの景色が近くに見えるようになるのですか?」


作業を手伝っていた十二歳の妹・鶴姫が、不思議そうに首をかしげる。


「ああ。光というものは、密度の違う物質を通るときに折れ曲がる性質(屈折)があるんだ。レンズの膨らみ具合を精密に調整して二枚組み合わせれば、遠くの光を眼の網膜へ集めることができる」


慶三郎は微細な剛玉粉(コランダム・研磨剤)と水を使って、ミクロン単位の精度でレンズの曲率を微調整していく。前世の大学時代、光学機器の試作実験で学んだ知識と技術が、いま戦国時代で再現されようとしていた。


やがて――研磨作業が終わった。


慶三郎は、真鍮(黄銅)の板を叩いて伸ばして作った二重構造の伸縮式筒に、二枚のレンズを固定した。

筒を前後にスライドさせることで、ピント(焦点距離)を自在に調整できるガリレオ式望遠鏡――『三倍率・遠見の筒(とおみのつつ)』の完成である。


「よし、出来た。鶴、試しに覗いてごらん」


「はいっ!」


鶴姫は嬉しそうに筒を受け取ると、工房の小窓から城下の遥か遠く、約一里(約四キロ)先にある街道の松並木へと筒を向けた。筒の端を前後に動かし、ピントが合わさった瞬間――


「……えっ!? き、きゃあぁぁっ!?」


鶴姫が思わず筒から目を離し、小さな悲鳴を上げて後ろへ飛びのいた。


「どうしたの、鶴?」


「す、すごいです慶三郎兄様! 街道を歩いている旅の商人さんの着物の柄や、お馬さんの顔まで……まるで目と鼻の先にあるみたいに、はっきりと見えました!」


「ふふ、成功だね」


慶三郎が微笑むと、部屋の引き戸が激しく開いた。


「慶三郎様! 今、鶴姫様の叫び声が聞こえましたが……なに奴!!」


槍を手に跳び込んできたのは、工房の安全検分役・黒木厳兵衛であった。


「あ、黒木殿。怪しい者ではありませんよ。これを見ていたのです」


慶三郎は完成した望遠鏡を黒木に手渡した。


「とおみのつつ……? なんですか、これは?」


不審そうに片目を細め、望遠鏡を覗き込む黒木。ターゲットは、神崎城の本丸の櫓(やぐら)の上に立つ見張り兵だ。


「……ぬう、何も見えんぞ? ただの丸い硝子――」


黒木がスライド管をすっと引いた、その時であった。


「――なっ!????????」


黒木の巨体が、雷に打たれたように硬直した。


「な、なんだこれはぁぁぁぁっ!?? 櫓の上の足軽が、わしの目の前に立っている!?? あいつ、立ちながら眠っておるぞっ!???」


「黒木殿、大声を出さないでください。見張り兵に聞こえますよ」


「し、しかし慶三郎様! これは何という妖術……いや、化学にございますか!? 数町も離れた櫓の上の様子が、手に取るように見えるとは……!」


黒木の手がガタガタと震えていた。

武芸者である黒木だからこそ、この『遠見の筒』が持つ戦慄すべき価値が瞬時に理解できたのだ。


合戦において、「敵の陣形」「旗印」「総大将の動向」を遠方から察知できるかどうかは、勝ち負けを左右する最大の要素である。敵に気づかれないアウトレンジから相手の動向を完全に把握できるこの道具は、一万の大軍に匹敵する「戦術的チート」に他ならなかった。


「黒木殿。これがあれば、敵の夜襲や伏兵も事前に察知できます。さらに……我が家の『改良大筒』や鉄砲隊にこれを組み合わせれば、相手の射程外から総大将だけをピンポイントで狙撃することも可能になります」


「おそろしい……! 慶三郎様、あまりにおそろしい道具にございます……!」


黒木は畏怖の念を込めて望遠鏡を抱きしめた。


「ですが慶三郎様、このような品、織田様や浅井様に見つかれば、喉から手が出るほど欲しがりましょうな」


「ええ。ですが、まずは神崎家の警戒陣地に配備します。……そして今井宗久様を通じて、堺の富豪たちや織田・浅井へ『一客・金百両』の超高値で限定販売します」


慶三郎の目がニヤリと細まる。


「透明ガラスと石鹸に続き、この『遠見の筒』で神崎家はさらに巨大な富と、戦国時代の『情報』そのものを支配するのです」


戦国時代の「見えない視界」を化学のレンズで切り拓いた慶三郎。


この望遠鏡の誕生により、神崎家は合戦のルールそのものを塗り替えようとしていた。


ここまでお読みいただきありがとうございました!

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明日も20:00に更新いたします!

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