第15話 民に拡がる感染症と、現代医学における消毒
「た、助けてくだされ、慶三郎様……! 倅が、倅が……っ!」
湿度の高い夏の風が吹き抜ける神崎城下。
悲痛な叫びを上げて城の門前に駆け込んできたのは、近隣の村で農業を営む作兵衛であった。
その腕に抱えられているのは、高熱に苦しみ、ぐったりと顔を蒼白にさせた十歳ほどの少年だ。激しい下痢と腹痛、嘔吐に襲われ、脱水症状を起こしている。
「作兵衛、これは……!?」
出迎えた慶三郎は、少年の症状を見るや目つきを鋭くした。
「三日前から村の者どもが次々と高熱を出して倒れております……! 陰陽師や僧侶様にお祓いをしていただきましたが、一向に良くならず……『祟りだ、祟りじゃ』と村中が大騒ぎになっておりまして……!」
作兵衛の言葉通り、報告によれば城下の複数の集落で同じ症状の患者が数十名規模で急増していた。
「祟りなどではない。……これは『赤痢』か『集団食中毒』、あるいは井戸水を介した『感染症』だ」
慶三郎は即座に断言した。
戦国時代において、夏場の衛生環境の悪化による水系感染症は、合戦での戦死者以上の人間を死に至らしめる恐怖の病であった。有効な治療法を持たない時代では、ただ神仏に祈り、病人が死に絶えるのを待つしかなかったのだ。
だが――現代の医学と化学を知る慶三郎にとって、原因(病原菌)と対策は明確だった。
「兄上! すぐに城下の全集落に触れを出してください! 今から言う三つのことを徹底させるよう伝えましょう!」
慶三郎は矢継ぎ早に指示を出した。
「一つ、飲み水は必ず『十分に煮沸』してから飲むこと! 一切の生水を禁じます!
二つ、食事の前や排泄の後は、我が工房で作った『純白の石鹸』で手を念入りに洗うこと!
三つ、病人の排泄物は専用の穴に埋め、灰と石灰を撒いて消毒すること!」
「な……生水を煮沸し、石鹸で手を洗うだけで、本当に病が治まるというのか!?」
一馬が半信半疑で聞き返す。慶三郎は力強く頷いた。
「病の正体は、神仏の祟りではなく、目に見えぬほど小さな『病原菌』という生き物です。そいつらは熱に弱く、石鹸の泡で洗い流すことができる! 祈祷など何の意味もありません!」
さらに慶三郎は自らの化学工房へと走り、蒸留器をフル稼働させた。
酒粕や酒を繰り返し蒸留・精製して作り出した『90%高濃度エタノール(消毒用アルコール)』。そして、生石灰を水と反応させて作った『消石灰(水酸化カルシウム)の殺菌液』である。
「黒木殿! 足軽隊を率いて城下のすべての井戸に消石灰を散布し、消毒してください! 患家の畳や衣類には、このアルコールを吹き付けて殺菌します!」
「ははっ! 慶三郎様、この黒木、病を相手に一歩も退きませぬぞ!」
黒木率いる「安全衛生隊」が城下へと散り、徹底的な消毒活動と手洗い・加熱調理の指導を開始した。
一方、高熱と脱水に苦しむ作兵衛の息子ら病人たちに対し、慶三郎は『経口補水液(塩と砂糖を最適な浸透圧比率で純水に溶かしたもの)』を少しずつ飲ませた。
下痢や嘔吐で失われた水分と電解質を正確に補給する――現代医学では基本中の基本であるこの治療法も、戦国時代においては「奇跡の薬」に等しかった。
そして、効果は劇的だった。
「お……お父ちゃん……喉が、渇いた……」
「た、高熱が下がりよった……! 顔色に戻ってきたぞ! 慶三郎様の煮冷ましと塩水で、倅が助かったぞ……っ!!」
作兵衛が男泣きに泣き崩れた。
数日のうちに、徹底した井戸の消毒と煮沸・石鹸洗いの励行により、新規の感染者はピタリと止まった。倒れていた数十名の患者も、経口補水液とアルコール殺菌による二次感染防止により、一人の死者も出すことなく完璧に回復したのだった。
「お祓いも効かなかった恐怖の疫病を、慶三郎様は煙と泡と塩水だけで退けてしまわれた……!」
「慶三郎様は、真の『薬師如来』の生まれ変わりに違いない!」
領民たちは感涙し、慶三郎の住まう城に向かって拝み伏せた。
「……慶三郎。武力や金だけでなく、お前は領民の『命』そのものを救ってみせたな」
父・景次が感慨深く息を吐いた。
「化学とは、戦うためだけに使うものではありません。こうして大切な家族や領民の健康を守り、豊かな生活を作ることこそが、私の本当の目的なのです」
慶三郎は清々しい笑みを浮かべ、城下に広がる青空を見上げた。
病魔を完璧に防ぎ切り、領民からの絶対的な信頼と愛着を得た神崎家。
現代化学の恩恵は、いまや軍事や経済だけでなく、戦国時代の「命のあり方」そのものを優しく変えようとしていた。
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