第12話 織田信長と、不滅の理論
黒塗りの鞍に乗った一騎の馬が、神崎城の門をくぐり抜けてきた。
供の者はわずか十数騎。だが、その先頭に立つ男が発する凄まじい威圧感に、神崎家の警護兵たちは息を呑み、金縛りに遭ったように動けなくなっていた。
鋭い眼光、長身痩躯の体に纏う漆黒の南蛮マント。
岐阜城主――織田上総介信長(おだ かずさのすけ のぶなが)である。
「ここが神崎慶三郎の城。小さくまとまっておるな」
信長は馬を降りると、出迎えた当主・景次や重臣たちを顧みることなく、ズカズカと大広間へ上がり込んだ。
大広間の上座に豪快に腰掛けた信長は、脚を組み、扇子でポンポンと己の膝を叩きながら、そこに控えていた十四歳の少年――慶三郎を鋭く射抜くように見つめた。
「そちが慶三郎か。宗久から聞いたぞ。『純白の石鹸』に『水のように透き通るガラス』、挙句の果てには煙の出ぬ凄まじい『新式の火薬』を作ったとな」
「お初にお目に掛かります、織田弾正忠様。神崎慶三郎にございます」
慶三郎は静かに平伏した。
信長は真っ直ぐに慶三郎を見据え、懐から一粒の「赤色の美しい薬品」を取り出して床に放り投げた。
今井宗久経由で入手した、慶三郎の試作品である。
「余は神仏の祟りも、陰陽師の呪言も一切信じぬ。この世はすべて『理』で動いておると思っておる。……だが、そちがやっておることは、まるで南蛮の錬金術か妖術の類ではないか。どこまでが真なのだ?」
信長は身を乗り出し、冷徹な圧力をかけた。
「もし余を謀るための嘘であれば、この場で神崎家ごと叩き潰す。何か申してみよ、慶三郎」
景次と一馬の背中に冷や汗が流れる。一言でも間違えれば、神崎家は終わりだ。
しかし、慶三郎の瞳には一切の恐怖はなかった。むしろ、目の前にいる「織田信長」という男が、この時代において最も科学を理解できる知性を持っていることに、胸の高鳴りすら覚えていた。
慶三郎は顔を上げ、堂々と信長の眼光を受け止めた。
「織田様。私は錬金術師でも、妖術師でもございません。私が扱っているのは『化学』――即ち、この世界を構成する物質の法則を観察し、実証する学問です」
「化学、だと……?」
「左様です。例えば、水や土、空気、金属に至るまで、この世のあらゆる物は目に見えぬ極小の粒(分子・原子)が集まってできております。それらを熱し、混ぜ、酸やアルカリで分離させることで、物質の姿を変えているに過ぎません」
慶三郎は手元の文机から、一枚の羊皮紙を取り出して信長に提示した。
そこには、元素の組み合わせや化合の理を示す、慶三郎特製の『物質反応図解(化学方程式の概念図)』が記されていた。
「神の奇跡も、悪魔の呪いも関係ありません。『同じ条件で、同じ実験を行えば、誰がやっても必ず同じ結果が出る』。これが科学の絶対の真理です。神仏の加護に頼る戦など、私に言わせれば単なる博打に過ぎません」
「……誰がやっても、必ず同じ結果?」
信長の手が止まった。
これまで「神仏の威光」や「血統」で支配してきた旧態依然とした世界を破壊し、兵農分離や鉄砲の集団運用といった「再現可能な合理性」で天下を獲ろうとしている信長にとって、慶三郎の放った言葉は、己の思想の核心を突くものだったのだ。
「ふハ……ハハハハハ!」
静寂を切り裂き、信長が大声で笑い出した。
「ハハハハハッ! 面白い! 痛快だぞ、慶三郎!余に向かって 『神仏の加護など博打』と言い切ったか! 」
信長は扇子をバチンと叩きつけ、立ち上がると慶三郎の目の前まで歩み寄った。
「気に入ったぞ! 噂以上の奇才だ! 慶三郎、岐阜へ来い! 望むだけの金も、領地も、職人も与えてやる! 余の天下布武のために、その『科学』とやらを存分に振るえ!」
覇王からの、破格のスカウト。
だが――慶三郎は静かに首を横に振った。
「……お断りいたします」
「なんと……!?」
広間の空気が凍りついた。信長の誘いを断るなど、正気の沙汰ではない。
「余の下におれば、望む研究が何でもできるのだぞ!?」
「織田様。もし私が岐阜城の奥深くに囲い込まれれば、私の化学は『織田家だけの軍事技術』で終わってしまいます」
慶三郎は信長の目をまっすぐに見据え、言い放った。
「私が目指すのは、一部の大名のための兵器作りではありません。化学の力で田畑を富ませ、病を予防し、物資を豊かにして『飢えと病で人が死なぬ世界』を作ることです。……神崎の地で独立した権限を持ち、織田様にも、浅井様にも、公平に製品と技術を提供する。それこそが、最も早くこの乱世を終わらせる道だと信じております」
「……余と、対等に取引をしようというのか。十四歳の童が」
信長の目が怪しく光り、腰の太刀の柄に手が伸びる。
一触即発の緊張感。慶三郎もまた、退く気は一切なかった。
数秒の沈黙の後――信長はふっと手を離し、不敵にニヤリと笑った。
「……フン、生意気な小僧め。だが、その度胸と理屈、嫌いではない」
信長はマントを翻し、出入口へと歩き出した。
「いいだろう、神崎慶三郎! 神崎家を『独立した特別な交易相手』と認めてやる! だが覚えておけ。決して他国に後れを取るでないぞ」
「お任せください。織田様の想像を超える『化学の産物』を、次々にお見せいたしましょう」
「楽しみにするとしよう」
信長はそのまま風のように馬に乗り、岐阜への帰途についた。
去り際、信長は今井宗久に向かってポツリと呟いたという。
「……宗久。あの小僧は恐ろしいぞ。刀も銃も持たずに、己の『頭脳(学問)』一つで天下を動かそうとしておる……」
覇王・織田信長をも認めさせ、神崎家の独立と巨大な影響力を確立した慶三郎。
現代化学による乱世の変革は、ついに天下規模の大波乱へと突入していくのであった。
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