第9話 王都の帳尻が、合わなくなる
王城の財務の間に、重い空気が満ちていた。
長机の上には、関税収入の月次帳簿が広げられている。宰相セルウィンは、その数字を、もう三度、確かめていた。
間違いではなかった。
「南街道の関税収入が……先々月の、六割」
ぽつりと呟いた声が、静まり返った部屋に落ちる。
居並ぶ役人たちは、誰も口を開かない。
関税は、王国の収入の柱の一つだ。それが、二月の間に四割も失われた。戦をしたわけでも、災害があったわけでもない。ただ、商隊が王都を通らなくなった。それだけで、これほどの穴が空く。
「原因の特定は」
若い役人が、おずおずと答えた。
「南のロウフェルトという関所町が、通行料をゼロにしておりまして……南からの商隊が、王都ルートを避け、そちらに流れているようです」
「ロウフェルト……」
宰相は、その名に、覚えがあった。三年前、フェルマー商会の働きかけで、わざと高い料率を割り当てた、寂れた関所町。誰も通らないはずの場所。
それが今、王都の喉笛に食らいついている。
「料率を下げよ。王都ルートの通行料を、ロウフェルトと同じく――」
「それが、宰相閣下」
別の役人が、青ざめた顔で割って入った。
「料率を下げるだけでは、もう商隊は戻りません。一度ロウフェルトに荷を売る流れができてしまった。あちらには、王都帰りの査定官がいて、荷の値を正確に見定め、揉め事が起きない。商人は、料率の安さだけでなく――『安心して取引できる場所』として、あの町を選んでいるのです」
「査定官、だと」
宰相の脳裏に、一つの名が浮かんだ。
まさか、と思った。
「その査定官の名は」
「……セレーナ・ヴァロワ、と」
部屋の空気が、凍りついた。
宰相は、目を閉じた。
セレーナ・ヴァロワ。王太子が「地味でつまらない」と切り捨て、追放した女。誰も、その不在を惜しまなかった。誰も、その仕事の重さを知らなかった。
いや――宰相だけは、薄々、感じていた。彼女が抜けた途端に合わなくなった、あの月次の帳尻を。誰が計算しても揃わなかった、あの数字を。
それは、彼女が人知れず行っていた、無数の細かな調整の跡だったのだ。
「我々は」宰相は、絞り出すように言った。「国の血流を握っていた者を……『事務員が一人辞めた』程度に、思っていたのだ」
誰も、答えられなかった。
***
その報告は、王太子アルベリクの耳にも届いた。
彼は、信じなかった。
「たかが一人の女が、関税収入を四割も動かせるはずがない。偶然だ。すぐに戻る」
「殿下」宰相は、静かに言った。「これは偶然ではありません。数字は、嘘をつかないのです」
アルベリクは、苛立たしげに窓の外を見た。
王都の市場のざわめきが、以前より、明らかに細っていた。胡椒の値が上がり、布の入りが悪くなり、商人の顔から余裕が消えていた。
彼は、ようやく――ほんのわずかに――不安を覚えた。
あの女は、何を残していったのだろう。
ふと、思い出す。婚約破棄の夜、査定室の机に積まれていた、手形の束。誰も、あれを片付けられないまま、今も埃をかぶっている。
あれを読み解ける者が、この城には、一人もいない。
「……あの束を、持ってこさせろ」
彼は、初めて、その存在を気にかけた。
だが――読めない束を眺めたところで、流れは、もう戻らない。
「数字は、嘘をつかない」。
セレーナの言葉が、彼女を捨てた王都に、跳ね返ってきます。
次話はいよいよ第1章の山場。王都が、ようやく「すべての原因」に気づきます。
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