第10話 誰が、国の流れを握っていたのか
王城の大会議室に、王国の主だった者が集められた。
王、宰相、財務の役人、そして王太子アルベリク。長机の中央には、あの手形の束が置かれている。婚約破棄の夜から、誰も手をつけられないままの束。
「事の次第を、整理せよ」
老王が、低く命じた。
宰相セルウィンが、進み出る。
「南街道の関税収入は、二月で四割減。原因は、辺境ロウフェルトの台頭です。あの町は通行料をゼロにし、正確な査定で商隊を集めています。王都を通っていた交易の流れが、そっくりそちらへ移りました」
「料率を下げても、戻らぬのか」
「戻りません。商人は、安さだけでなく『信用』で町を選んでいます。ロウフェルトには、間違えない査定官がいる。手形の値が、常に正しい。だから商人は、安心して取引できる。――その信用を、我々は、もう持っていないのです」
老王が、束に目をやった。
「この、手形の束は」
「セレーナ・ヴァロワが、最後に発行したものです。彼女が抜けて以来、我々はこの束の『続き』を書けずにいる。荷の値を見定め、適正な料率を算定できる者が、王都には一人もいないのです。フェルマー商会ですら、彼女の残した基準を写すことしかできなかった」
会議室が、ざわめいた。
「では」と、一人の老貴族が震える声で問うた。「この国の交易の信用は……たった一人の女が、支えていたというのか」
宰相は、目を伏せた。
「……お認めしたくはありませんが。手形が市場で通用していたのは、『あの方が値を保証している』という、商人たちの信頼があったからです。その信頼が、まるごと、ロウフェルトへ移った。我々が失ったのは、一人の事務員ではありません。――国の血流そのものです」
沈黙が、部屋を支配した。
誰もが、思い出していた。
婚約破棄の夜、広間で笑った自分たちを。「地味でつまらない」と言われた女に、誰一人、異を唱えなかった自分たちを。
そのとき。
「ばかな」
王太子アルベリクが、立ち上がった。顔は青ざめ、声は震えていた。
「あの女は、ただの……ただの、地味な女だったはずだ。一日中、紙に数字を書いているだけの。あれが、国を……?」
「殿下」
宰相が、静かに、しかし容赦なく言った。
「地味な仕事ほど、抜けると音もなく崩れるものです。それは、あの方ご自身が、よくご存知だったでしょう」
アルベリクは、言葉を失った。
彼の脳裏に、婚約破棄の夜が蘇る。
――「何か言うことはあるか?」
あのとき、セレーナは、何も言わなかった。ただ静かに頭を下げ、踵を返した。言っても届かないと、知っていたのだ。この広間に、彼女の言葉が届く者は、一人もいないと。
そして彼女は、机に手形の束を残して、去った。
持ち帰らなかったのではない。
――この束を、お前たちに、読み解けるか。
そう、突きつけて、去ったのだ。
「……取り戻せ」
アルベリクが、かすれた声で言った。
「あの女を、王都に連れ戻せ。査定官に戻す。妃に戻してもいい。だから――」
「殿下」
宰相は、首を振った。
「それは、できません。彼女を追放したのは、殿下ご自身です。今さら頭を下げて連れ戻せば、王家の威信は地に落ちる。それに――」
彼は、窓の外の、細りゆく市場を見た。
「仮に連れ戻せたとして。一度、ロウフェルトへ流れた商人たちの信用が、王都に戻る保証は、どこにもありません。流れは、低い方へ進む。一度できた水路を、元に戻すことは……川を、逆に流せと言うのと、同じです」
会議室に、重い沈黙が降りた。
机の上の手形の束だけが、誰にも読まれぬまま、静かに、そこにあった。
***
同じ頃、ロウフェルト。
私は、賑わう市場を、関所の物見から見下ろしていた。
日が暮れて、宿には灯がともり、通りには商人たちの声が満ちている。半年前、死にかけていた町とは、別の場所のようだった。
「姐さん」
隣で、リタが言った。
「王都が、大慌てらしいぜ。あんたが原因だって、ようやく気づいたとよ」
「そうですか」
私は、特に何も感じなかった。
怒りも、勝ち誇る気持ちも、なかった。ただ――静かだった。
「呼び戻されたら、どうする」
「戻りません」
私は、即答した。
物見から見える、灯のともった町。私を「地味だ」と言わない人々。「あなたに頼みたい」と言ってくれた人々。
ここには、私の居場所があった。三年間、王都で一度も得られなかったものが。
「私の仕事は、流れを正しく整えることです」
私は、町を見渡した。
「王都が、流れを手放した。それを拾ったのが、この町だった。それだけのことです。――流れは、戻りません。戻したいなら、王都が、この町より良い場所になるしかない。けれど、それはもう、私の仕事ではありません」
リタが、口笛を吹いた。
「冷てえなあ。元婚約者が、泣いて謝ってきても?」
「数字は、嘘をつきません」
私は、静かに答えた。
「困っているのは――嘘をついた方です」
夜風が、関所の旗を揺らした。
「税のいらない街」と書かれた、その旗を。
第1章、ここで一区切りです。
「国の血流を握っていたのは誰か」――王都は、答えにたどり着きました。けれど、流れは戻りません。
次章からは、ロウフェルトの「自由市」開市へ。そして、王都が立てる新たな刺客――新査定長官ヴィントが、動き始めます。
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