第59話 帰る場所
北へ、六日かかった。
行きと同じ道である。ただ、三つの関所とも荷改めが一度きりで済んだ。協定の写しが、既に届いていた。
四日目の関所で、役人が私の名を見て、少し慌てた。
「あの、これを書かれた方で」
「書いたのは、二十三人の議です」
私はそう答えた。
彼は納得しない顔をしたが、それ以上は訊かなかった。
***
ロウフェルトが見えたのは、六日目の昼だった。
丘を越えて、まず目に入ったのは天幕の数だった。
増えていた。
私が発ったとき、市の天幕は四十ほどだった。今、丘の上から数えると、六十を超えている。西の岩塩を積んだ荷駄が三列、関所の前に並んでいた。
リタが、隣で低く口笛を吹いた。
「太ったな」
「太りました」
「姐さんがいねえあいだにな」
「はい」
私は、そう答えた。
***
関所の帳場は、動いていた。
荷改めの列があり、改め役が三人立っている。誰も私を見なかった。見る暇がなかった、というほうが正しい。
板の前には、いつもどおり人が立っていた。
私は板を見た。
四つの市の値、うちの値、日付。書き足された行がある。西岩塩の等級ごとの値、そして――トラス圏の値の欄が、新しく増えていた。
文字は、私のものではなかった。
両替台のミレーユの字だった。
***
「あら。お帰りですのね」
ミレーユは、銀貨を数える手を止めずに言った。
「ただいま戻りました。……この欄は」
「南から月に一度、値が届くと伺いましたので、先に枠だけ引いておきましたわ。届いたのは五日前です。書き写しましたけれど、写し間違いがあったら直してくださいまし」
私は、その欄を上から下まで読んだ。
間違いは、なかった。
「よく、写せましたね」
「わたくし、これでも数字は得意ですのよ」
彼女は少しだけ笑った。
「……昔、数字で嘘をついた女ですから」
***
その日、私は市を歩いた。
誰も特別な顔をしなかった。陶器の隊商頭は荷を並べる手を止めずに「おう」と言い、鍛冶の親方は炉から目を離さずに「鉄が来てるぞ」と言った。
ハルクは、選り分けの台に座っていた。岩塩の粒を、粗・中・細の三つに分けている。台は腰の高さで、座ったまま手が届くように作られていた。
「その台は」
「鍛冶の親方が作った」
彼は手を止めずに答えた。
「立ってられねえって言ったら、じゃあ座れる高さにすりゃいいだろって。……それだけだ」
「よく分けられていますね」
「粒は指で分かる。目より指のほうが速い」
彼は粗い粒を一つまみ、脇の籠へ落とした。
「息子が読み書きを覚えてな。帳面はあいつがつけてる。……おれが十年逃げてたぶん、あいつが取り返してる」
私がいないあいだに、この町は回っていた。
升は正しく、率は毎朝貼られ、揉め事は決まりどおりに片づいていた。私が裁いた案件は、一件もなかった。
***
夕方、関所の物見に上がった。
半年と少し前、私はここに初めて立った。あのときは、灯りが十も点いていなかった。
今は、端まで点いている。
――私がいなくても、回る。
発つ前に思ったのと、同じことを思った。ただ、思ったときの感じが違っていた。
あのときは、それを寂しいと思った。誰かに必要とされることでしか自分の値を測れない人間のままだと、自分を責めもした。
今は、違っていた。
私は、王都で必要とされていた。
あの頃、通商評議会の査定は私がいなければ回らなかった。私が一晩休めば、翌日の荷が滞る。誰もが私を必要としていて、それでも誰も、私を認めてはいなかった。
必要とされることと、認められることは、別のものだった。
私はそれを、ずっと取り違えていたのだと思う。だから婚約者に地味だと言われたとき、言い返す言葉が出てこなかった。必要とされている、ということしか、手元になかったからだ。
この町は、私を必要としていない。
升は揃っている。決まりは書いてある。私がいなくても、六十の天幕は立つ。
それでも、ミレーユは私が帰る前提で枠を引いていた。ハルクの台は、誰かが作っていた。板の前の人だかりは、私が貼らなくても消えなかった。
――帰ってくる場所として、勘定に入れられている。
それが、認められるということなのだと思った。
必要とされることではなく、いなくても回る場所に、それでも席があること。
私は物見の手すりに手を置いた。
指の腹で、縁を一度なぞる。
半年前、この所作は誰にも見られていなかった。今は、下の帳場で改め役の一人が、同じ手つきで荷札の縁をなぞっているのが見えた。
教えた覚えはない。
見て、覚えたのだろう。
***
「姐さん」
下からリタの声がした。
「飯だとよ。隊商頭のとこで、皆が待ってる」
「待っている、のですか」
「そりゃ待つだろ。……なんだ、待たれると思ってなかったのか」
私は答えなかった。
答える代わりに、物見を下りた。
市の灯りの中を歩いていくと、天幕の下で誰かが手を上げた。それから、別の誰かが。
誰も、大げさなことは言わなかった。
ただ、席が一つ空けてあった。
第1話でセレーナが抱えていた欠落に、ここで答えが出ます。
「必要とされることと、認められることは、別のものだった」。彼女は王都で必要とされていました。彼女がいなければ荷が滞るほどに。それでも誰も認めていなかった。
この町は、彼女を必要としていません。升は揃っていて、いなくても回ります。それでも枠は引かれていて、席は一つ空けてある。
もう一つ、静かに置いたものがあります。改め役が、教わってもいない所作を真似ていました。彼女の物差しは、もう彼女一人のものではありません。
次話、第2部「同盟と関所」が閉じます。最後に見せるのは、二つの物差しが並んだ世界です。




