第58話 強硬派の、退場
調印の翌日、私は帰り支度をしていた。
その朝、宿へ訪ねてきた者がいた。
三十前の、背の高い男だった。上等な外套を着ているが、袖口が擦れている。よく着込まれた外套で、机の前にだけ座っている人間の服ではなかった。
交易監ギルベルト、と彼は名乗った。
***
「昨日の条文を読みました」
彼は座らずに言った。
「四つのうち、三つは実務です。よくできている。……四つ目だけが、思想ですね」
「値を写し合う条文ですか」
「あれは、我々の手を縛ります」
彼の口調は落ち着いていた。怒鳴りに来たのではないと分かった。
「私は、あなたを排除しようとしました」
彼は言った。
「先夜の件です。手の者が動いた。……盟主の許しは得ていません」
存じております、と私は答えた。
「詫びはしません。あのときの私は、それが同盟のためだと思っていました。今も、半分はそう思っています」
残りの半分は、と私が訊くと、彼は短く答えた。
「昨日の票で、消えました」
***
彼が話したのは、数の話だった。協定が通った日、彼の側についていた七人のうち四人が離れたという。理由は思想ではなく、鉄だった。
彼が集めていた鉄は、境で戦が起きたときに使うためのものだった。備えだ、と彼は言い続けてきた。同盟の外に統制の効かない市が育ち、いずれ力で押さえねばならなくなる、と。
協定が通れば、その日は来ない。
「来ない備えは、ただの在庫です」
ギルベルトは言った。
「鉄は錆びます。倉に置けば場代がかかる。売ろうとすれば、私の名が板に載る。……四人は、それを算盤で弾いて離れました。思想ではありません」
板に載るのか、と私は訊いた。載りました、昨日、と彼は短く笑った。
「あなたの町の板ではありません。うちの市の板です。……若いのが、貼りました」
ヨナスだろう、と思った。訊かなかった。
我々を潰しに来たのか、と彼は訊いた。いいえ、と私は答えた。
「そうでしょうね」
彼は頷いた。
「潰しに来たのなら、話は簡単でした。……あなたがしたのは、もっと厄介なことです」
彼は窓の外を見た。港の方角だった。
「あなたは、我々が要らない世界を作った」
私は、答えなかった。答えられなかった、というほうが近い。
「境で戦が起きないなら、備えは要らない。備えが要らないなら、備えを説く者も要らない。……私は、負けたのではありません。居場所がなくなったのです」
彼はこちらを向いた。
「そのほうが、残酷だ」
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「残酷だと、私も思います」
否定しようとして、できなかった。彼の言っていることは、正しかったからだ。
「ですが」
私は続けた。
「あなたが要らなくなったのは、備えの話に限ってのことです。……あなたは、荷を見る目がある方だと思います」
「なぜ、そう思われます」
「鉄の等級を選ばずに買われました」
私は言った。
「等級を選ばないのは、用途が一つで量だけが要るときです。それを知っている人でなければ、選ばない買い方はしません。……あなたは、等級の意味を分かった上で、無視されたのだと思います」
ギルベルトは、しばらく黙っていた。
「……嫌味ですか」
「いいえ。ですから、鉄はお売りになるとよいと思います」
私は言った。
「板に名が載るのは、恥ではありません。載って困るのは、隠したいことがあるときだけです。……錆びる前に、鍋屋に売ってください。うちの鍛冶の親方が買います。等級を選んで、値をつけて」
彼は返事をせず、外套を直して戸口へ向かい、そこで一度だけ振り返った。
「……あなたは、勝った顔をしませんね」
「勝っていないからです」
私は言った。
「私は、あなた方に何も勝っていません。荷が通る道を、少し増やしただけです」
彼は何か言いかけて、やめた。それから、短く頭を下げて出ていった。
***
後に聞いたところでは、ギルベルトは交易監の職を自ら退いたという。
罷免ではなく、査問にもかけられていない。ただ、受け持ちの荷が減り、彼の議に賛成する者がいなくなって、ある日、辞表を出したのだという。
鉄は売られた。
半分は南の鍛冶へ、半分は北へ流れた。北へ流れたぶんは、ロウフェルトの市の板に、買い手の名と量つきで載った。売り手の名も載った。ギルベルトの名で売られていた。
隠さなかったのだ、と思った。
***
空いた七人ぶんの受け持ちは、若い交易監たちに割り振られた。
その筆頭に、ヨナスの名があった。
私が本拠を発つ朝、彼は港まで見送りに来た。荷運びの格好ではなく、交易監の外套を着ていた。
「決めかねている八人の一人だったのでは」
「決めました」
彼は言った。
「板を見た日に、決めていたのだと思います。……口に出すのに、ひと月かかりました」
「重い役です」
「はい。ですが、うちの市には升があります」
彼は少し笑った。
「四十年前から、揃っているそうです。それだけあれば、あとは何とかなります」
「来ない備えは、ただの在庫です」。
彼の側の四人が算盤を弾いた、それだけの決着でした。
そしてギルベルトの言葉が、この作品でいちばん鋭い批評かもしれません。「あなたは、我々が要らない世界を作った。そのほうが残酷だ」。セレーナはそれを否定しません。
そのうえで彼女がするのは、鉄を売れと勧めることでした。等級を選んで、名前を出して。――彼は、実際に隠さず売ります。
次話、北へ帰ります。町は彼女を、必要としていません。それでも。




