第60話 二つの物差しが、並ぶ世界
協定から、一年が過ぎた。
境の関所では、荷改めが一度きりになった。片側で等級のついた荷は、もう片側では開けない。それだけで、南北を往復する隊商の日数が平均四日縮んだ。
四日縮めば、同じ馬と同じ人手で、年に一往復多く回せる。商人はそれを、荷が増えたのではなく日が増えたのだ、と言った。
***
自由市同盟は、九つの町になった。
こちらが誘ったのではない。近くの町が、隣が楽をしているのを見て、升の寸法を訊きに来る。それだけだった。
入るのに、こちらの許しは要らない。
升と秤を揃えて、率を毎朝貼り出して、揉め事を決まりどおりに裁く。この三つをやっていると宣言すれば、その町は自由市同盟である。破れば、隣の町が荷を持って来なくなる。それだけが罰だった。
誰も、この同盟を率いていない。
私は、九つの町のうち八つへ行ったことがない。
***
トラスの側も、変わった。
値の定めは、今も残っている。四十年かけて南の商人を守ってきた仕組みで、外せば混乱するだけだ。
ただ、一つだけ足された。
不漁や不作の年に、その村が別の品を仕入れて売れるようにする道を、同盟が用意する。ヨナスが議に出して、二年目にようやく通ったという。
議を通すのに、彼は数字を使ったそうだ。村が一つ潰れると、そこへ荷を運ぶ運び屋の受け持ちが減り、交易監の実入りも減る。
「思想では通りませんでした」
彼の文には、そう書いてあった。
「算盤で通しました。……あなたのやり方です」
干魚のマリカという方は、去年から、冬のあいだ塩と縄を扱っているという。
***
オルブレヒトからは、年に二度、文が来る。
用件はいつも同じで、値の写しが同封されている。文面は事務的だが、最後に一行だけ私信が付く。
この前の一行は、こうだった。
――升は、まだ狂っていない。
***
秋の初め、私は物見に立っていた。
下では、市が閉まる支度をしている。天幕は八十を超え、帳場は四人で回している。私が荷を改めるのは、月に数えるほどだ。
隣に、辺境伯ボルガーが上がってきた。
少し痩せて、杖をつくようになった。それでも、階段は自分で上がってきた。
「一年前、あんたは南へ行った」
彼は言った。
「そして、何も持ち帰らなかったな。領地も、金も、称号も」
「四つの条文を持ち帰りました」
「四行だ」
彼は笑った。
「四行で、街道の日数が四日縮んだ。……剣で削ろうと思ったら、何万の人が死ぬ四日だ」
私は南の空を見た。あの都市には、同盟の規がある。ここには、この町の決まりがある。境で、荷は一度だけ量られる。
どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのではなかった。
物差しは二つあって、境で並んでいる。並んだまま、荷は行き来している。それで、足りていた。
「王都の連中は、玉座が国の中心だと思っている」
ボルガーが、一年前と同じことを言った。
「あんたは去年、国の中心は人と物の集まる場所だと言った。……今も、そう思うか」
「少し、変わりました」
私は答えた。
「中心は、一つでなくてよいのだと思います」
彼が、こちらを見た。
「ここも中心です。トラスも、ハーフェンも、西の坑の町も、それぞれの中心です。……中心を一つにしようとすると、必ずどこかを枯らします。三年前、王都がやったのがそれでした」
「増やすのか。中心を」
「増やすというより」
私は、市の灯を見下ろした。
「並べておくのだと思います。並んでいれば、人はどちらでも選べます。選べる限り、どちらの中心も、あまりひどいことはできません」
***
日が落ちきる前に、リタが下の道を通った。
荷車を引いている。隣を、ハルクの息子が帳面を抱えて歩いていた。十六になったという。
あの子は来月から、西の坑の町へ行く。あちらが、荷の等級を付ける者を寄越してほしいと言ってきた。読み書きを教えたのはミレーユで、選り分けを教えたのはハルクだった。
私は、一度も教えていない。
***
ボルガーが、杖を持ち直した。
「あんたは、もう要らんな」
「はい」
私は素直に答えた。
「要らないほうが、よいものだと思います」
彼は声を立てて笑い、それから静かに言った。
「よく作った」
私は答えなかった。
ただ、指の腹で、物見の手すりの縁を一度なぞった。
***
市の灯が、一つずつ消えていく。
明日の朝には、また点く。率が貼られ、升が量られ、南から届いた値が板に書き足される。私が居ても居なくても、それは起きる。
半年と少しで死にかけの町を建て直し、一年で南の同盟と対等に並んだ。剣も魔法も使わず、使ったのは、手形と、数字と、曲げない物差しだけだ。
「数字は、嘘をつきません」
私は、暮れていく空に呟いた。
嘘をつかない数字を、誰でも読める場所に置いておく。それだけで、人は自分で選べるようになる。選べる人が集まる場所を、人は中心と呼ぶ。
税のいらない街は、今日も賑わっていた。
そして今、その物差しは、この町だけのものではなくなっている。
<第2部「同盟と関所」・完>
第2部「同盟と関所」、完結です。
第1部で王都に勝った彼女が、第2部で相手にしたのは、南の巨大な商業同盟でした。けれど今回、彼女は誰も踏みにじっていません。盟主オルブレヒトとは和解し、失脚したレーヴェも、退場したギルベルトも、裁いたのは彼女ではなく、それぞれの側の算盤でした。
四十年前にはじかれた十九歳の塩商人が、最後に「升と秤は残る。あなたが持っていってくれ」と言う――ここを書きたくて、第2部を始めたようなものです。
そしてセレーナ自身の答え。「必要とされることと、認められることは、別のもの」。彼女はもう、この町に必要とされていません。それでも席は空けてあります。
ここまで長い物語に、お付き合いくださって本当にありがとうございました。
ブックマーク・評価・感想は、何よりの励みになります。
彼女が作った物差しは、もう彼女一人のものではなくなりました。
それを持って、次の町へ歩き出す子が、今回そっと出てきています。




