第56話 盟主の、選択
四十年、私は何をしていたのだろうな。
その問いに、私はすぐには答えなかった。
答えを持っていなかったのではない。言うには、一枚の紙を出さねばならなかった。
私は懐から油紙の包みを取り出し、卓の上に置いた。
***
「王都の書庫から写していただきました」
オルブレヒトは、包みを開いた。
黄ばんだ紙が数枚。四十年前の、トラス商業同盟の加盟名簿である。
彼の指が、認められなかった者の欄で止まった。それきり、長いあいだ動かなかった。
「……よく見つけたな」
虫食いで半分しか写せていません、と私は答えた。
「半分で足りている」
彼は紙から目を離さずに言った。
「規に服さず、と書いてある。……四十年ぶりに見た」
***
「安く売られたのですね」
「売った」
塩を担いで歩いていたのだ、と彼は言った。荷車を使わなければ、そのぶん運び賃が浮く。浮いた分だけ値を下げれば、これまで買えなかった者が買える。それだけのことだと思っていた、と。
「それだけのことです」
「同盟は、そう見なかった」
彼は紙を置いた。
「私が安く売れば、他の者も下げねば売れなくなる。下げられん者から順に潰れる。……あのとき私を裁いた交易監は、それを説いた。今の私と、同じことを言っていた」
彼は自分の手を見た。大きく、節の太い、四十年前に塩を担いだ手である。
「私は、それを間違いだと思った。だから内側から変えると決めた。……十一年かけて保証金を積み、名簿に載った。二十年かけて交易監になり、そこから十年かけて盟主になった」
そして、と私が促すと、彼は短く答えた。
「変えられなかった」
彼の声は、平らだった。
「盟主になった年に、値の定めを外す議を出した。否決された。二十三人のうち、賛成は四人だ。……その四人のうち二人は、翌年に受け持ちを外された」
あなたが外したのか、と私は訊いた。
「私が守れなかった。それが、答えだ。私は仕組みの頂に座って、仕組みを一つも動かせなかった。……だから」
外にあるものを欲しがった、と私は引き取った。そうだ、と彼は認め、初めてこちらを正面から見た。
「あなたの市を同盟に迎えれば、値の定めの外にある市が、同盟の内側に一つできる。前例ができれば、次が出せる。……そう考えた」
「できません」
知っている、と彼はあっさり頷いた。三日前に私に言われるまではできると思っていたが、今は思っていない、と。議にかけた瞬間に、それは議で変えられるものになる。
***
窓の外で、港の灯りが揺れていた。夜になっても荷は動いている。倉庫の扉が開き、荷車が出入りする。この都市は、四十年かけてこの人が整えた場所だった。
「盟主様。一つ、伺わせてください。……あなたが本当に欲しかったのは、私の市ですか」
彼は答えなかった。
「四十年前、あなたが欲しかったのは、安く売っても追い出されない市だったはずです。ですが今、その市は既に在ります。北にありますし、自由市同盟の四つの町にもあります。……あなたが手に入れなくても、もう在るのです」
「……手に入れねば、私のものにならん」
はい、と私は頷いた。
「ですから、伺っています。あなたが欲しかったのは、あの市ですか。それとも」
言葉を探した。
「――あの市が在ってよい世界の方ですか」
オルブレヒトは、長いこと黙っていた。
彼は名簿をもう一度見た。十九歳の自分の名を、指の腹でなぞるようにしてから、ゆっくりと紙を畳んだ。畳み方は丁寧で、角がきれいに揃っていた。
「……後者だ」
彼は紙から目を上げずに言った。
「四十年前、私が欲しかったのは、私が塩を売れる場所だった。潰されてからは、私を潰した仕組みを直すことになった。頂に登ってからは、直せぬ自分に耐えるために、外から誰かが来るのを待っていた」
彼は紙を私のほうへ押し戻した。
「そして、来た。……来たものを、私は取り込もうとした。取り込めば私の手柄になるからだ。それは、四十年前に私を裁いた男と、同じことをしようとしていたのだな」
私が呼びかけると、彼は手を上げて遮った。
「言わんでいい。分かっている」
それから、少しだけ笑った。
その笑い方には、疲れと、それから、何か軽くなったようなものが混じっていた。
***
「セレーナ殿。明日、議に諮る。あなたの案そのままだ。同盟の中は同盟の規で、あなたの側はあなたの決まりで。境を越える荷だけ、同じ物差しで量る。……あなたの市は、同盟に入らない」
よろしいのですか、と私は訊いた。
「よくはない」
彼は正直に言った。
「私の四十年は、それでは何にもならん。誰も、私が値の定めを外したとは言わん。……ただ、あなたの市が壊れずに済む」
彼は窓のほうを向いた。
「四十年、私は何をしていたのかと訊いたな」
私は頷いた。
「答えが出た。私は、升と秤を整えていた。……値の定めは、私の仕事ではなかった。あれは、私が背負わされたものだ」
彼は、静かに言った。
「升と秤は、残る。あなたが持っていってくれ」
盟主が自由市を欲しがった、本当の理由がここで開きます。
彼が欲しかったのは市そのものではなく、「その市が在ってよい世界」でした。そしてそれは、彼が手に入れなくても、もう在ります。
いちばん痛いのは、彼自身の一言です。「取り込めば私の手柄になる。それは、四十年前に私を裁いた男と同じことをしようとしていたのだな」。
「升と秤は残る。あなたが持っていってくれ」。四十年で彼が本当に作ったものが、ここで受け渡されました。第2部は、この一行を書くために始めたようなものです。
次話、紙に落とします。四つだけの、短い条文です。四つ目に、三年前の糸を二度と作れなくする仕掛けがあります。




