第54話 強硬派の、奇襲
リタが宿へ来たのは、日が落ちてすぐだった。
彼女は挨拶もせずに窓へ寄り、外を見ないまま鎧戸を半分閉めた。それから、卓の灯りを吹き消した。
「姐さん。荷が減ってる」
「荷」
「港だ。この三日、夜も荷が動いてた。今夜は動いてねえ」
彼女は低い声で言った。
「同じ倉の前に、人だけが立ってる。荷役の格好してるが、荷を担いでねえ。ああいうのは、待ってる連中だ」
私は帳面を閉じた。
***
「何人ですか」
「見えたのは六人。裏の路地にもう二、三人いるだろうな」
「盟主の手の者ではありませんね」
「盟主の手なら、堂々と表に立つ。あんたの身は預かるって言ったんだろ」
「宿の親父の様子も変だ。夕方から目を合わせねえ。……買われてるな」
殺しはしないだろう。この都市で王国の町の代表が死ねば盟主の面目が潰れ、潰れた盟主はギルベルトにとっても使い道がない。狙いは一つだった。
「明日の朝、私を議事堂へ行かせないつもりです」
「そういうこった」
「道で足止めして、議が終わってから解放する。議には諮ったが本人が来なかった。それで、話は流れます」
「姐さん、よく思いつくな。そういうの」
「王都で見ました。評議会に出したくない議案があるとき、書類を運ぶ役人が階段で転ぶのです。三度見ました」
私たちは、荷をまとめた。
といっても、持つのは紙だけである。町の書かせた三行の紙、四十年前の名簿の写し、この三日で書き溜めた数字の帳面。
「表は塞がってる。裏も、たぶん見張ってる」
「けど、この宿は港沿いだ。港沿いの建物ってのは、地面から入らねえ道が一本ある」
「屋根ですか」
「水だ」
彼女は床板を指した。
「荷揚げ用の水路だよ。潮が引くと歩ける。この都市は排水の溝がやたら立派でな、そいつが港の水路に繋がってる。……三日前に歩いた」
「三日前に」
「姐さんが館で話してるあいだ、おれは道を覚えてた。それが仕事だ」
館に入りたがらなかった理由が、今分かった。
***
潮が引いたのは夜半だった。宿の裏手の戸から石段を下りると、水はくるぶしまでで、底に藻が付いていた。溝は思ったより広く、屈めば通れる。石組みは古く、しかし丁寧に積まれていた。
この都市は、こんなところまで整えてある。
リタは迷わなかった。三つ目の分かれ道で右へ、その先の低い橋の下で一度止まり、水の音を聞いてからまた進んだ。
「音がどう返るかで、先が広いか狭いか分かる」
彼女は小さく言った。
「それも、十年で覚えたやつだ」
私は答えなかった。
答えれば、彼女が十年をどう使ったかの話になる。それは、今する話ではなかった。
***
水路を出たのは、市場の裏だった。
夜明けにはまだ間があり、市の天幕は畳まれたまま、通りには誰もいない。私は濡れた裾を絞り、紙束を確かめた。油紙に包んでおいたので、水は入っていなかった。
そこで、足音を聞いた。
***
通りの先に、人影が四つ。早い。宿を出たと分かった時点で市場の出口を押さえるのは、この都市を知る者なら当然の手だった。
リタが前に出た。
「姐さん、走れるか」
「走れます。ただ」
四人の背後で、明かりが増えていた。六つ、八つ。走って抜けられる数ではない。
――どこへ行けば、この人たちは手を出せなくなるだろう。
答えは、一つしかなかった。
「リタ。議事堂ではなく、市の中央へ」
「市? まだ誰もいねえぞ」
「じきに開きます」
私は言った。
「あの人たちは、私を人のいない場所で捕まえたいのです。人前で王国の使者を押さえれば、それは奇襲ではなく、同盟の行いになります。……盟主の許しなく、それはできません」
***
市の中央の広場は、まだ暗かった。けれど両替台の灯りが一つだけ点いている。夜明け前に率を書くための、早い灯りだった。
その灯りの下に立って、私は振り返った。
男たちが、広場の入口で止まっていた。
私はそこで初めて、はっきりと声を出した。
「両替をお願いします」
両替台の男が、目を丸くしてこちらを見た。
「銀貨を、この都市の貨で。……ロウフェルトの査定官、セレーナ・ヴァロワと申します。今日、議事堂で話をすることになっております」
名乗った。
夜明け前の広場に、それは思ったよりよく響いた。
早出の荷役が二人、天幕の陰から顔を出した。パン屋の戸が開いた。灯りが、一つずつ増えていく。
広場の入口の男たちは、動かなかった。
やがて、一人が何か短く言って、影の中へ引いていった。
***
両替台の男は、震える手で銀貨を数えていた。
「あの……あんた、本当に」
「はい。よろしければ、率を貼るところを見せてください」
私は言った。
濡れた裾のまま、夜明けの広場で、私は率が板に書かれるのを見ていた。
この都市の朝も、こうして始まる。ロウフェルトの板も、今ごろ同じ手で書かれているはずだった。帰る場所があるというのは、こういうことらしい。
半刻後、迎えの者が来た。盟主の家の紋を付けていた。
彼らは、私が濡れているのを見て、何も訊かなかった。
リタが気づいたのは「港の荷が動いていない」ことでした。彼女は道と荷で世界を読みます。水路を三日前に歩いておいたのも「それが仕事だ」から。館に入りたがらなかった理由が、ここで分かります。
セレーナの逃げ場所は、議事堂ではなく市でした。「人前で押さえれば、それは奇襲ではなく同盟の行いになる」。彼女の武器は、最後まで人目と数字です。
濡れて戻った彼女に、迎えの者は何も訊きませんでした。訊かない、というのも一つの返事です。
夜明けの水路で一緒に息を止めた方は、ブックマークをひとつ。濡れた外套の、乾かし賃に。
次話、議事堂。二十三人の前で、セレーナは理念を一言も言いません。言うのは三つの数字だけです。




