第50話 卓に着く前に
正式な招きが届いたのは、ヨナスが去って十二日後だった。
盟主の署名と、同盟の印。日取りと、道順と、途中の宿の手配まで書いてある。丁重で、隙のない文だった。
断る理由は、一つもなかった。
***
発つ三日前、私は市の広間に町の人を集めた。
主だった者だけではなく、来たい者は誰でも入れた。天幕を畳んで来た商人、両替台の者、鍛冶の弟子、宿の女将。板の前にいつも立っている運び屋も来た。広間に入りきらず、戸を開け放して外まで人が並んだ。
私は、招きの文を読み上げた。
それから、こう言った。
「私は、この町の代わりに卓に着きます。ですから、決めていただきたいことがあります」
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「何を渡してよくて、何を渡してはいけないか。それを、皆さんに決めていただきます」
ざわめきが起きた。
鍛冶の親方が声を上げた。
「そりゃ、あんたが決めることだろう」
「いいえ」
私は首を振った。
「私が決めれば、私が折れたときに全部が終わります。……向こうの卓には、私一人しか座れません。一人で座る人間が、一人で決めていいことは、多くないと思います」
戸口まで並んだ人の列から、話し声が消えた。
「それに、私は迷います」
私は続けた。
「あの方は、おそらく、良い条件を出してこられます。この市がこの市のまま同盟に入れる、という話です。荷は十倍になり、皆さんの商いは今より楽になる。……それを聞いたとき、私が迷わない保証は、ありません」
誰かが、小さく息を呑んだ。
「迷ったときに、開く紙が欲しいのです」
***
その夜、決まったことは三つだった。
一つ。升と秤と、量り方は渡さない。誰が決めるかも含めて、この町のものとする。
二つ。掛かりは、この町が払う。どんな条件でも、他所の財布を受け取らない。
三つ。この市から、誰も追い出さない。同盟に入るために誰か一人でも差し出せと言われたら、その話は受けない。
三つ目を言い出したのは、陶器の隊商頭だった。
「一つ目と二つ目は、セレーナさんが半年言い続けたことだ。おれたちが決めなくても、あんたは守る」
彼は言った。
「三つ目は、おれたちが決める。……あんたは、頼まれたら守っちまうかもしれねえからな」
私は、何も言えなかった。
彼は、リタのことを言っていた。そして、それを名指ししなかった。
***
紙は三枚書いた。同じ文面である。
一枚は私が持ち、一枚は町の帳面に綴じ、一枚は板の裏に貼った。誰でも読める場所に置いておけば、私が向こうで何を言ったか、帰ってから照らし合わせられる。
ボルガーは、その紙を読んで、低く笑った。
「これは、あんたを縛る紙だな」
「はい」
「よく作らせたものだ。普通は、代表に白紙を渡す」
「白紙を渡された人間は、折れたときに言い訳ができます」
私は言った。
「私は、言い訳のできない形で行きたいのです」
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リタが同行を言い出したのは、出立の前日だった。
「おれも行く」
「危険です」
「知ってる。だから行くんだよ」
彼女は荷を担ぎ直した。
「南の道は、おれの庭だ。表の街道も裏道も、水嵩も、いつどこで人が消えるかも知ってる。……姐さんが向こうで卓に着くとき、外に道を知ってる奴が一人いるのは、悪くねえだろ」
断る理由が、見つからなかった。
断りたい理由なら、あった。あの町には、彼女の十年がある。
「リタ」
「行くって言ってんだ」
彼女は先回りして言った。
「あいつはもう職を解かれてる。会うこともねえよ。……それにな、姐さん」
彼女は珍しく、少し口ごもった。
「おれ、あの三つ目の紙が、けっこう効いてる」
***
出立の朝は、よく晴れていた。
市はいつもどおりだった。板の前に人が立ち、升が量られ、両替台の男が銀貨を指で弾いている。誰も見送りに並んだりしなかった。それが、この町のやり方だった。
私は関所の物見に上がって、最後に一度、町を見下ろした。
半年前、死にかけていた町。今は、王国南部で最も賑わう自由の市。
――帰ってきたとき、これがここにあるだろうか。
初めて、そう思った。
怖いのは、卓で負けることではなかった。負けても、私は帰ってくる。怖いのは、帰ってきたときに、この町が私を必要としなくなっていることでもなかった。
怖いのは、その逆だった。
私がいなければ回らない町なら、私は結局、王都で「地味だ」と言われていた頃と同じところに立っている。誰かに必要とされることでしか、自分の値を測れない人間のままだ。
この町は、私がいなくても回る。三つの紙が、それを証している。
それを寂しいと思う自分が、まだ、確かにいた。
***
指の腹で、物見の手すりの縁を一度なぞった。
馬の支度ができたと、下から声がかかった。
私は物見を下りた。
「行きましょう」
南への道は、まっすぐに晴れていた。
第五章「物差しの戦い」、ここで一区切りです。
主役は町のほうでした。「私が決めれば、私が折れたときに全部が終わる」と言って、譲れない三つを町に決めさせます。しかも三つ目――誰も追い出さない――を出したのは町の側で、彼女がリタのために折れる可能性を、町が先回りして塞いでいます。
そして最後に、彼女自身の話。「怖いのは、私がいなければ回らない町であることだ」。第1部で置いた欠落が、ここでもう一段深いところへ降りました。
次話から第六章「盟主の卓」。舞台は敵地トラスへ。ロウフェルトより、ずっと整った街です。




