第43話 レーヴェとの、卓
レーヴェから使いが来たのは、ハーフェンが取り決めを切った十日後だった。
同盟の交易監として、自由市同盟の件で話がしたいという。場所はこちらで指定してよいとあった。
私は市の帳場を選んだ。人の出入りのある、誰からも見える場所だった。密室で話せば、何を約束したか噂が勝手に育つ。育った噂は、こちらの升より早く走る。
そして、リタに同席を頼んだ。
「おれが出ていいのか」
「出てください。あの方は、あなたの名前を道具に使いました。道具にされた人が卓にいないところで、その話をするべきではありません」
彼女はしばらく黙って、それから頷いた。
***
レーヴェは、前と同じように供を少なく連れてきた。
帳場の椅子に浅く腰かけ、卓の上で指を組む。私の隣に立つリタを見て、彼はごく自然に会釈をした。まるで、初めて会う町の人に対するような会釈だった。
リタの肩が、わずかに動いた。
「本題の前に、一つ」
私は先に口を開いた。
「触れを取り下げていただいた件、礼を申し上げます」
「盟主の判断です。私の手柄ではございません」
「では、触れを出したのは、どなたの判断ですか」
彼の指が、一度だけ止まった。
「……私です」
「その触れに名を挙げられた者が、そこにおります」
レーヴェはリタのほうへ、ゆっくりと顔を向けた。
***
「詫びろとは言わねえ」
リタが言った。声は低かったが、震えてはいなかった。
「一つだけ訊きたい。十年前、南街道で捕まった男がいる。おれの相棒だ。あんたが名前を役人に売った」
「……そのようなことが、ありましたか」
「あった」
「申し訳ありません。何分、古い話で」
彼は困ったように眉を下げた。芝居には見えなかった。それが、いちばん悪かった。
「覚えてねえのか」
「人の名は、覚えておりません」
レーヴェは正直に答えた。
「十年前でしたら、南街道の荷は年に四百口ほど扱っております。運び手の名まではとても」
リタが、卓に手をついた。
止めるべきかとも思ったが、私は動かなかった。
「――じゃあ、荷は」
彼女は言った。
「荷は、覚えてるのか」
レーヴェは少し首をかしげ、それから淀みなく答えた。
「十年前の南街道でしたら、春に染料、夏に酒と塩、秋に鉄と毛皮。染料は樽で、一樽が四十斤ほど。運び賃は一樽につき銀貨二枚と半分。……鉄はよく重さをごまかされましたので、当時は特に厳しく検めておりました」
リタが息を吸う音だけが、やけにはっきり聞こえた。
彼は荷を全部覚えていた。斤の単位まで、値まで、揉め事の種類まで。十年前のことを、昨日のことのように言えた。
そして、その荷を運んだ人間の名は、一つも出てこなかった。
***
リタは、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと手を卓から離した。掌の跡が、木の表面に薄く残っていた。
「……そうか」
彼女はそれだけ言った。
私は彼女の横顔を見た。怒鳴るだろうと思っていた。掴みかかるかもしれないと思って、そのときは止めるつもりでいた。
彼女はどちらもせず、ただ、ひどく疲れた顔をしていた。
「セレーナ様」
レーヴェが向き直った。
「不快な思いをさせたのでしたら、謝ります。ですが私は、嘘をつくよりは、覚えていないと申し上げるほうが誠実だと考えております」
「ええ。誠実だと思います」
私は言った。
「そのうえで、一つ申し上げます。あなたは、荷を数える人です。数えられるものはすべて覚えている。……人は、数えられません。だから、あなたの帳面には載らない」
「人を数えろと」
「いいえ。数えられないものがあると、知っておいてくださいと申し上げています」
***
交渉そのものは、短く終わった。
自由市同盟の四つの町へ、同盟に入るなら掛かりを持つという申し出が来ていた。断る、と私は答えた。理由はハーフェンに言ったのと同じだった。他所の財布で動く町は、財布が閉じた日に折れる。
レーヴェは食い下がらなかった。予想していたのだろう。彼は淡々と書付を畳み、席を立った。
戸口で、彼は足を止めた。
「一つ、よろしいですか」
「どうぞ」
「先ほどの、数えられないもの、という話ですが」
彼は少し考える顔をした。
「――それは、商いに要るものでしょうか」
問いは、皮肉には聞こえなかった。本当に分からないから訊いている声だった。
「要ります」
私は答えた。
「人は、数えてくれる相手のところへは荷を持ってきません。正しく見てくれる相手のところへ持ってきます。似ていますが、違います」
彼はしばらく私を見ていたが、やがて、いつもの柔らかい笑みを作って出ていった。
***
戸が閉まったあと、リタが長く息を吐いた。
「姐さん。おれ、ずっとあいつを憎んでた」
「はい」
「憎むには、覚えてもらってねえと駄目なんだな」
彼女は笑おうとして、失敗した。
「十年だぞ。おれが十年抱えてたもんを、あいつは一日も持ってなかった」
私は何も言わなかった。言えることが、何もなかったからだ。
窓の外で、荷を積んだ車が一台、南へ抜けていった。
レーヴェは嘘をついていません。本当に覚えていないのです。荷は斤の単位まで覚えているのに。
「憎むには、覚えてもらってねえと駄目なんだな」――リタのこの一言が、今回いちばん書きたかったところでした。
そして、セレーナがレーヴェに渡した言葉。「数えられないものがある」。彼はそれを皮肉ではなく、本気で分からずに問い返しました。この問いが、次話から効き始めます。
次話、レーヴェに使い捨てられた人たちが、この町へ来ます。持ってくるのは恨み言ではありません。




