第42話 奪われた町を、取り戻す
ハーフェンの町長が訪ねてきたのは、板が立ってから十日後だった。
名をヴェルナーという。五十がらみの、日に焼けた男だった。関所を持つ町の長らしく、供も連れずに馬で来て、自分で手綱を繋いだ。
私は帳場へ通した。彼は座る前に、頭を下げた。
「先に、詫びておく。二月前、うちはあんたの町から荷を奪った」
「奪われてはいません」
私は言った。
「商人が、安いほうを選んだだけです。詫びていただくことではありません」
ヴェルナーは、しばらく私の顔を見ていた。それから、苦笑いのようなものを浮かべて腰を下ろした。
***
用件は、こちらが思っていたとおりだった。
自由市同盟に入りたい、という話だった。
「うちの升は、直した」
彼は言った。
「底を上げたのは、うちの市の帳役だ。掛かりが足りなくなって、誰にも言わずにやった。……私が気づいたのは、商人が離れ始めてからだ。遅すぎた」
今はどうなっているのかと、私は訊いた。
「升は元に戻した。だが、戻したと言っても誰も信じん。一度削った升は、直しても信じてもらえん」
それは、そのとおりだった。
信用は積むのに半年かかり、崩れるのは三日でいい。半年前、私はそれを王都の側から見ていた。今度は、隣町がその側に立っている。
「同盟に入れば、うちの升はあんたのところの升と同じだと言える。それが欲しい」
「入っていただくのは、構いません」
私はそう答えた。ヴェルナーの肩が、わずかに下がった。
「ただし、条件が一つあります」
***
「トラスの掛かり持ちを、切っていただきます」
彼の顔が強張った。
「……それは」
「掛かりを他所に払ってもらっている町は、同盟に入れません」
理由は二つあった。一つは、掛かりを出す側が止めたとき、その町の升は今度こそ元に戻せないこと。もう一つは、同盟の中に他所の財布で動く町があれば、他の町がそれを見て考え始めることだった。うちも銭を出してもらったほうが楽ではないか、と。そう考え始めた同盟は、一年で溶ける。
ヴェルナーは長いこと黙っていた。
やがて、絞り出すように言った。
「切れば、掛かりが戻る。うちにその銭はない。関所の役人を減らせば取り締まりが緩む。緩めば、また升の話に戻る」
「掛かりは、減らせます」
私は帳面を開いた。
***
「役人の数を数えたことは、ありますか。何に何人使っているか」
「……荷改めに四人、揉め事の裁きに二人、両替に二人だ」
「揉め事の裁きに、二人も要りますか」
「要る。あれがいちばん時を食う」
「食うのは、決まりがないからです」
揉め事の中身は、そう何通りもない。量が合わない、品が違う、約束の日に来ない。この三つでほとんど全部だった。三つとも先に決まりを板へ書き、市の真ん中に立てておけば、その場で片がつく。量が合わなければ町の升で量り直し、足りなければ売り手が足す。誰が読んでも同じ結果になるから、裁く人は要らない。
この町では、揉め事の裁きに一人も使っていなかった。
「……それで、収まるのか」
「収まります。揉めるのは、結果が読めないときだけです」
彼は帳面を覗き込んだ。私はこの半年の記録を見せた。荷改めに三人、両替に二人、裁きに零人。それで、ハーフェンの倍の荷を捌いている。
ヴェルナーの指が、数字の上を往復した。
「……四人を、二人に減らせるか」
「減らせます。荷改めも減ります。等級のついた荷は、開けずに通せますから」
***
彼が帰ったのは、日が傾いてからだった。
馬に乗る前に、彼は振り返って、一つ訊いていいかと言った。
「あんたは、うちが潰れかけたのを見ていたはずだ。二月前、うちの升の底が上がったとき、あんたはそれを板に書いて貼り出した。……止めを刺しに来たのだと思っていた」
「止めは刺していません」
私は言った。
「量り直した実数を書いただけです。書かなければ、うちの商人が損をします」
「だから、なおさら分からん。潰しておけば、荷は全部こっちへ来ただろう」
少し考えて、正直に答えることにした。
「隣が潰れた町の荷は、細くなります。荷は、通る先があるから来るのです。ハーフェンが死ねば、うちを通る荷の行き先が一つ減ります。……半年前、私たちは、隣が痩せることを勘定に入れていませんでした。同じ間違いを、二度はしません」
ヴェルナーは、しばらく私を見ていた。
それから、初めて笑った。
「――なるほど。あんたは、優しいんじゃないな。計算が長いだけだ」
「はい。そのとおりです」
***
半月のうちに、ハーフェンはトラスとの取り決めを切った。
掛かりは戻ったが、役人は六人から三人に減っていた。差し引きで、町の持ち出しは前より少ないという。
そして、南へ移っていた商人のうち十一組が、ハーフェン経由でこちらへ戻った。彼らは戻る理由を、誰も語らなかった。
ただ、板の前に立って値を確かめてから、天幕を張った。
それが、この街道の潮目だった。
条件は一つも緩めていません。「掛かりを他所に払っている町は入れない」と、はっきり断ります。
そのうえで出したのが「掛かりそのものを減らす」やり方でした。揉め事の裁きに人が要るのは、決まりがないからだ――この作品がずっと言い続けてきたことの応用です。
「あんたは優しいんじゃない、計算が長いだけだ」。セレーナはこれを否定しません。作者も否定しません。
次話、レーヴェと差し向かいの卓に着きます。リタも一緒に。怒鳴り合いも詫びもない対決になります。




