第38話 盟主の、二つの顔
市の名で出した返書には、返事が来た。
届いたのは、レーヴェの名ではなかった。トラス商業同盟盟主、オルブレヒトの署名が入っていた。
文面は短く、丁重だった。触れに挙げた名の件については、同盟として裁きの場を設ける用意がない旨を認め、当該の触れを取り下げると書いてある。理由の説明はなかった。詫びの言葉もなかった。ただ、取り下げる、とだけ。
私は紙を灯りに透かした。上等な紙だった。漉きが均一で、繊維の目が細かい。同じ紙を私は王都で何度も見ている。公文書に使う紙だった。
急いで書かれたものではない。
***
ボルガーは、その書付を長いこと眺めていた。
「取り下げたか」
「はい」
「……妙だな。あの触れは、効いていた。リタの仕事は減り、商人は迷っていた。もう少し続ければ、この町は自分から折れたかもしれん」
「効いていたから、取り下げたのだと思います」
老辺境伯が顔を上げた。私は言葉を探しながら続けた。
「あの触れは、町を空にする道具です。使えば人が減る。人が減れば市が細る。細った市は、同盟に入っても大した価値がありません」
「……欲しいのは、生きた市か」
「はい。潰したいのなら、触れを続ければよかったのです。取り下げたということは、あの方は、この市を生かしたまま手に入れたいのだと思います」
言いながら、私はハーフェンの升のことを思い出していた。
摺り切りの当たりが素直だった、あの升。安く作れば必ず歪む場所に、誰かが金をかけていた。
潰す気の人間は、升に金をかけない。
***
同じ頃、南のトラス本拠では。
盟主オルブレヒトは、机の上に置かれた触れの写しを、指先で押し返していた。
「これは、私の名で出したものか」
「同盟の名で出しております」レーヴェは静かに答えた。「盟主の裁可は、包括の委任で足りると判断いたしました」
「足りていない」
声は荒くなかった。むしろ、いつもより穏やかだった。
「レーヴェ。私は、あの市が欲しい。あの町を空にしたいのではない」
「同じことかと存じます。町が折れれば、市は同盟のものになります」
「折れた市に、何の値打ちがある」
オルブレヒトは窓の外へ目をやった。
「あの娘が作ったものは、升でも板でもない。荷を持ってきた人間が、正しく見てもらえると信じられる場所だ。信じているから人が来る。人が来るから物が動く。……その信を、脅しで折ったら、あとに残るのは天幕の並んだ空き地だ」
「ですが盟主。あの町は、我々の条件をすべて断っております」
「知っている」
「では、どうなさいます」
しばらく、返事はなかった。
やがて盟主は、ひとりごとのように言った。
「……正しく見てもらえる場所、か。昔は、そういう市があったのだがな」
レーヴェが顔を上げた。盟主は既に別の書類を手に取っていた。
「触れは取り下げる。次は、塩でいく」
***
その夜、私はボルガーの館で遅くまで帳面を突き合わせていた。
三年前の関税表。王都が南街道の料率を一気に引き上げた、あの年の記録だった。ロウフェルトが死にかけた原因であり、去年から私が追いかけて、フェルマー商会の背後までは辿り着いた糸でもある。
老辺境伯は、卓の向かいで杯を置いた。
「その表なら、私も見た。王都におった頃にな」
私は顔を上げた。
ボルガーが王都にいたことは知っていた。左遷されて辺境へ来たことも、本人の口から聞いている。ただ、理由は聞いていなかった。
「反対したのだ、私は」
彼は言った。
「南街道の料率を上げれば、荷は南のトラス側へ流れる。国の中の関所が高くなれば、商人は国の外を通る。当たり前の話だ。だから反対した。……そうしたら、翌月には辞令が出ていた」
「誰が、上げると決めたのですか」
「表向きは、通商評議会だ。だが、評議会に上げるべきだと持ち込んだ書付があってな。作ったのは商会筋だと聞いた」
「フェルマーですか」
「そう思っていた」
彼は杯を回した。
「だが、あの書付には妙なところがあった。国の中の相場と、トラス圏の相場を並べて比べてある。……フェルマーの帳面には、トラス側の相場は載らん。あそこは国内の商会だ」
背筋が、冷えた。
「あの書付を作った者は、トラス側の数字を持っていた、ということです」
「そういうことになる」
私は帳面を閉じ、指の腹で表紙の縁を一度なぞった。
三年前、この国の関所を高くさせた書付。その中に、南の相場が並べてあった。
王都が自分で自分の首を絞めたのだと、私はずっと思っていた。
そうではないのかもしれない。
***
窓の外で、南の空が薄く曇っていた。
盟主は触れを取り下げた。脅す気はないのだと、その一枚は言っている。
けれど同じ人が、三年前に、この国の荷の流れを南へ曲げていたのだとしたら。
あの穏やかな笑みは、どちらが本当なのだろう。
部下の強硬策を止め、触れを取り下げる。そのくせ、三年前に王国の関所を高くさせた書付には、南の相場が並んでいた――。
どちらが本当の顔なのか、セレーナはまだ決めていません。決めないまま、違和感だけを手元に置いています。「潰す気の人間は、升に金をかけない」。第32話の小さな引っかかりが、ここで一段深くなりました。
盟主の笑みにぞくりとした方は、評価の星をひとつ。帳場の灯りの油代に、ありがたく充てます。
次話、盟主の言葉どおり、戦いは塩へ移ります。塩は生きるのに要るもの。握られると、いちばん効きます。




