第39話 塩の道
塩の値が上がり始めたのは、それから十日ほど後だった。
最初は、誰も気にしなかった。ひと月で一割ほど。荷が細れば値は上がる。よくあることだった。
二十日で、二割になった。
塩は、他の品とは違う。安ければ買うが高ければやめる、というものではない。人は塩なしでは生きられず、肉も魚も塩がなければ冬を越せない。値が倍になっても、人は買う。買うために、他の物を買うのをやめる。
市の天幕を回ると、それがはっきり見えた。塩を買った商人が、その分だけ布を買わずに帰っていく。布屋の売り上げが落ち、布屋が陶器を買わなくなる。
塩が高くなると、市全体が痩せる。
***
「トラスの塩田だ」
リタは、南から戻るなり帳場へ来て、地図を広げた。仕事は元どおりに戻っていた。触れが取り下げられた翌日から、彼女の前には荷が積まれるようになっている。
「この国に入る塩の、八割方が南から来る。塩田はトラス圏の海沿いだ。あそこを握ってるのが同盟でな。売り渡しの値を、じわじわ上げてる」
「止めてはいないのですね」
「止めやしねえ。止めりゃ怒られる。ただ高くするだけだ」
私は帳面に数字を並べた。
塩の入り値、出し値、市の売り上げ。三つを並べると、痩せ方の形が見えた。塩そのもので儲けようとしているのではない。塩を高くして、市の余力を削っているのだ。
商人には、財布が一つしかない。塩に取られれば、他に回らない。
「うまいやり方です」
私は正直に言った。
「怒る先がありません。塩田は同盟のものです。自分のものを幾らで売ろうと、その人の勝手です」
「じゃあ、どうすんだ」
「他の道を探します」
***
三日かけて、塩の来る道を洗い直した。
南から八割。では、残りの二割はどこから来るのか。
帳面を遡ると、二つ見つかった。一つは西の岩塩。山を三つ越えた先の坑で掘るもので、量が少なく、粒が粗い。もう一つは東の湖塩。塩の湖の水を干して作るもので、こちらは苦みが強いと言われていた。
どちらも、この国ではほとんど使われていない。
理由は、帳面を読めばすぐに分かった。運び賃が高いのだ。西の岩塩は山越えで、荷駄が四頭要る。東の湖塩は水路が細く、船を三度乗り換える。南の海塩なら、平らな街道を真っ直ぐ来られる。
誰も選ばなかったのは、単純に高かったからだった。
――今は、どうだろう。
私は南塩の値を書き入れ、その隣に西と東の値を置いた。
差が、ほとんど消えていた。
***
その日の夕方、私はボルガーと隊商頭を呼んだ。
「西の岩塩を、市で扱いたいと思います」
「粗いぞ、あれは」隊商頭が眉を寄せた。「粒が揃わねえ。肉の塩漬けにゃ向かねえって話だ」
「揃わないのは、選っていないからです」
私は言った。
「岩塩は掘ったまま袋に入れて運ばれてきます。誰も選り分けていない。粗い粒と細かい粒が混ざったまま売られて、使いにくいと言われている。……選り分ければ、細かいほうは肉に使えます」
「誰が選る」
「この町でやります」
私は帳面を開いて、数を見せた。
「掘る人は掘るのが仕事です。運ぶ人は運ぶのが仕事。誰も選っていないなら、選る場所を作れば、そこで値がつきます。うちには、荷を見て等級をつける仕組みが既にあります」
ボルガーが、ゆっくりと頷いた。
「……関所が、選り場になるのか」
「はい。通るだけの関所ではなく、通ると値の上がる関所です」
***
半月後、西の岩塩を積んだ最初の荷駄が着いた。
四頭立て。袋が十二。私は袋を一つ開け、手のひらに少し取って、指の腹で粒の縁をなぞった。
角が立っている。掘りたてに近い。湿りは少ない。
町の女たちが集まって、篩にかけ始めた。粗い粒は皮なめしと道の凍り止めへ、中くらいは漬け物と塩蔵へ、細かい粒は台所と肉の塩漬けへ。三つに分けるだけの、単純な仕事だった。
単純だが、誰もやっていなかった。
三日で、選り分けた岩塩が市に並んだ。細かい粒は南塩と同じ値で売れ、粗い粒は南塩の半値で飛ぶように売れた。凍り止めに使うのに、細かい塩を買う必要はない。
塩の値が、市の中だけ下がり始めた。
***
夜、私は板の前に立った。
四つの市の値の隣に、新しい行が増えている。西岩塩・粗、西岩塩・中、西岩塩・細。等級ごとに、別の値がついていた。
南の塩は、まだ高い。それは変えられない。
けれど、塩の道が一本しかないと思っていたのは、こちらの思い込みだった。高いのは山越えの運び賃で、その運び賃は、南の塩が上がった今、もう高くない。
同盟が塩の値を上げれば上げるほど、西の道が近くなる。
板の前で、隊商頭が笑っていた。
「セレーナさん。あんた、締められて、道を増やしやがった」
「あんた、締められて、道を増やしやがった」――隊商頭のこの一言が、今回のすべてです。
セレーナは南の塩を安くしようとはしません。それは相手の持ち物だからです。代わりに、使われていなかった西の道を掘り起こしました。
そしてもう一つ。「掘る人は掘る、運ぶ人は運ぶ。誰も選っていないなら、選る場所を作れば値がつく」。関所が、通るだけの場所から、通ると値の上がる場所に変わりました。
次話、第四章の締めです。トラスが真似た「偽の自由市」に、ほころびが出ます。壊すのはセレーナではありません。




