第37話 リタを、置いていかない
板を立ててから三日、市に人が戻り始めた。
戻ったのは、値の見えることを買った商人たちだった。ここで買えば損をしないと分かるまでは動かない、慎重な連中でもある。彼らは板の前で長く考え、それから天幕を張った。
けれど、同盟の触れは生きたままだった。
朝の荷改めで、私は妙なことに気づいた。運び屋を頼む商人が減っていた。荷を自分で担ぐ者、遠回りをしてでも別の案内を雇う者。理由を訊けば、皆が言葉を濁した。
リタに、仕事が来なくなっていた。
***
その夜、私は町の主だった者を関所の広間に集めた。
辺境伯ボルガー、陶器の隊商頭、両替台のミレーユ、鍛冶の親方、それに市の世話役が三人。呼んでおきながら、リタにだけは何も伝えなかった。彼女は厩にいて、馬の背には鞍が置かれたままだった。
私は同盟の触れを卓の上に広げた。
「この触れについて、皆さんに決めていただきたいことがあります」
誰も、すぐには口を開かなかった。
やがて、鍛冶の親方が腕を組んだまま言った。
「かばうのかい。あの女を」
「いいえ」
私の答えに、何人かが顔を上げた。
「かばいません。リタは、十年前に罪を犯しています。関所を通さない荷を運びました。中身を訊かずに運び、抜けようとした相棒を止めました。それは事実です。私は、なかったことにするつもりはありません」
広間が静まった。かばう話をしに来たのだと、皆が思っていたのだろう。
「では、追い出すのか」ボルガーが低く訊いた。
「それも、いたしません」
私は触れの但し書きを指した。
「この紙をよく読んでください。名は挙がっています。けれど、どこで裁くとは書いていない。いつまでにとも書いていない。書いてあるのは、現在ロウフェルトにて道案内を業とする者、という一行だけです」
ミレーユが、扇の陰で息を呑んだ。
「……居場所を、書いてありますのね」
「はい。この触れは、リタを裁くためのものではありません。この町に、リタを置いておきづらくさせるためのものです」
***
私は卓に手を置き、言葉を選びながら続けた。
「半年前、私はこの町へ来ました。王都を追われて、地味でつまらないと言われて、要らないと言われた人間です。あのとき、この町は私に仕事をくれました。役に立つかどうかを、自分の目で確かめてから」
陶器の隊商頭が、深く頷いた。あの日、最初に私へ荷を預けた男だった。
「あのとき皆さんは、私の過去を訊きませんでした。訊いたのは、荷を正しく見られるかどうかだけです。……私は、それに救われました」
言いながら、声が少し揺れた。抑えて、続けた。
「私は、使い道を間違えられていただけでした。リタも同じです。あの人の技は、荷を無事に届ける技です。それを裏道で使えば密輸になり、街道で使えば案内になる。技そのものは変わりません」
「だが、罪は残る」親方が言った。
「残ります。ですから、消しません」
私は言った。
「私が申し上げたいのは、こういうことです。――リタの罪を裁けるのは、正しい裁きの場です。トラス同盟の触れは、裁きの場ではありません。あれは、人を追い出す道具です。道具に人を渡せば、次は別の誰かが同じ道具で追い出されます」
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、陶器の隊商頭が立ち上がった。
「おれは、あの女に荷を頼む」
彼は言った。
「明日も、明後日も頼む。おれの荷を無事に運んでくれるなら、十年前のことはおれの知ったこっちゃねえ。……それで、この町から出ていく理由が一つ減るなら、なおいい」
鍛冶の親方が舌打ちをして、それから頭を掻いた。
「……ちっ。おれも頼むよ。鉄は重い。あいつが一番うまく積む」
そこから先は、堰を切ったように声が続いた。
ミレーユが両替台の名で、リタの受け取りを町の帳面に載せると言った。世話役の一人が、市の名でトラス側へ返書を出そうと言い出した。裁きを求めるなら、正しい場所と日を示せ、と書いて。
誰も、感傷的なことは言わなかった。皆が言ったのは、明日の仕事の話だった。
それが、この町のやり方だった。
***
厩の戸を開けたとき、リタは鞍を外しているところだった。
私は何も言わなかった。彼女も、しばらく黙って革帯を巻いていた。
「……聞こえてた」
やがて彼女が言った。広間は厩の風上にある。声は届いていたのだろう。
「盗み聞きです」
「悪かったな」
彼女は鞍を棚に戻した。それから、初めてこちらを向いた。
「姐さん。おれは、許されたわけじゃねえよな」
「はい。許されていません」
「……そうか」
彼女は少し笑った。泣きそうな笑い方だった。
「そのほうがいい。許されちまったら、おれは十年前を忘れる。忘れたら、あいつに顔向けできねえ」
彼女は厩の梁を見上げた。
「残るよ。ここで荷を運ぶ。逃げるのはやめだ」
私は、ただ頷いた。
馬が、鼻を鳴らした。鞍のない背が、久しぶりに軽そうだった。
「かばわない。追い出さない。ただし、渡さない」。
罪をなかったことにはしません。そのうえで、裁きの場でないものに人を渡すことを、町は断りました。
誰も泣いて引き止めません。皆が話したのは、明日の荷のことだけです。書きながら、この町がいちばんこの町らしかったのは、ここだと思っています。
次話、盟主オルブレヒトが再びロウフェルトへ。穏やかな顔で、脅しを一つ取り下げます。――取り下げた人と、三年前に関所を高くさせた人が、同じだとしたら。辺境伯ボルガーが、なぜ左遷されたのかも。




