第35話 奪われた関所町
ハーフェンが同盟に入った、という報せが来たのは、五日後だった。
正式な加盟ではなかった。町がトラス同盟の「保護」を受け入れた形である。関所の運営を同盟に委ね、代わりに掛かりを持ってもらう。それだけの取り決めだった。
その一行で、南から来る荷はハーフェンへ向く。
***
私はボルガーの館で、地図を前にしていた。
印が増えていた。南のセルグ、南西のハーフェン、東の渡し場。そこへ今日、ハーフェンの北にある小さな宿場が加わった。
弧が、閉じかけていた。
「早いな」
ボルガーが言った。老辺境伯の声は落ち着いていたが、地図に置いた指が、いつもより長く同じ場所に留まっていた。
「ハーフェンの町長は、愚かな男ではない。むしろよく町を守ってきた。その男が、二月で折れた」
「折れたのではないと思います」
「ほう」
「選んだのだと思います」
私は地図の上のハーフェンを見た。
あの町も、関所で食べてきた町だった。ロウフェルトと同じだ。荷が通れば潤い、通らなければ干上がる。
「うちが税をゼロにしたとき、荷はハーフェンからこちらへ移りました。あの町は半年、痩せていたはずです。そこへ、掛かりを全部持つという話が来た」
「……我々が、痩せさせたわけか」
「はい」
言葉にすると、重かった。
私たちが半年前にやったことは、正しかった。重い関税を軽くし、荷を呼び戻し、死にかけた町を立て直した。誰も踏みにじっていない。
けれど隣の町から見れば、荷を奪われたのはこちらだった。
「うちは、隣が痩せることを勘定に入れていませんでした」
私はそう言った。
ボルガーは長いこと黙っていた。それから、低く言った。
「あんたは、それを負けと呼ぶのか」
「負けです。荷を取られたからではありません。……取り返す言葉を、私が持っていないからです」
***
その日の夕方、市を歩いた。
天幕の数が減っていた。空いた場所には、まだ地面に杭の穴が残っている。抜いたばかりの穴だった。
残った商人たちは、私を見ると目を伏せた。責める顔ではなかった。申し訳なさそうな顔だった。それが応えた。
陶器の隊商頭の天幕は、まだそこにあった。
「セレーナさん」
老商人は帳面を繰る手を止めて、私を呼んだ。
「怒ってねえよ、おれは」
「……はい」
「南へ行った連中も、あんたを裏切ったわけじゃねえ。荷が売れなきゃ、家の者が食えねえ。それだけの話だ」
彼は焼き上がったばかりの皿を一枚、布の上に置いた。指で縁をなぞって、欠けがないかを確かめる手つきだった。
「おれは残る。けどな、セレーナさん。おれが残るのは、義理じゃねえ。ここの升が正しいからだ」
その言葉は、慰めではなかった。
条件だった。升が正しくなくなれば、彼も行く。
***
夜、私は関所の物見に立った。
南の空の下に、ぽつりと灯が見えた。ハーフェンの灯だった。以前は暗かった町が、今は明るい。
あの町の商人たちは、今夜、安心して眠れているだろう。掛かりは同盟が持ち、荷は流れ、家の者は食える。
誰も損をしていない。
それが、この敵のいちばん厄介なところだった。斬られた者も、焼かれた者も、飢えた者もいない。皆が少しずつ楽になって、そのぶんだけ、私たちの市が細っている。
勝ち負けが、どこにも見えない。
見えないまま、囲みだけが閉じていく。
帳面を開いた。南の欄の数字は、もう十日前の半分だった。
このままでは、ひと月で市が空になる。
私は物見の手すりに手を置いた。指の腹で、縁を一度なぞる。
考えろ、と自分に言った。
囲まれている。四方が低くなり、こちらだけが高い丘のように取り残されている。逃げ場はない。誰も攻めてこない。だから戦いようがない。
――本当に、そうだろうか。
私は地図を思い浮かべた。
弧を描く四つの印。その真ん中に、ロウフェルト。
囲まれている、というのは、言い換えれば。
息を、一つ吸った。
「……囲みの、中心にいる」
初めての、はっきりした敗北でした。
しかも、誰も悪くありません。南へ移った商人にも家族がいて、ハーフェンの町長も町を守っただけです。第1部の敵(王都・フェルマー商会)とは、まるで性質が違います。
「うちは、隣が痩せることを勘定に入れていなかった」――ここが、第2部でセレーナが向き合う宿題です。
次話、彼女は包囲を裏返します。「囲まれた町」ではなく「囲みの中心」だと気づくところから、反攻が始まります。




