第32話 偽りの自由市
噂が届いたのは、それから七日後だった。
ハーフェンに市が立った、という。
「税を取らねえ市だとよ」
リタが帳場の縁に腰を下ろして言った。声に、いつもの軽さがなかった。
「うちと、同じ触れ込みか」
「同じどころじゃねえ。升も秤も町で揃えて、両替の率を毎朝貼り出すんだと。姐さんが作った三つの決まりを、そっくり並べてる」
私は手を止めた。
公正な計量。両替率の毎朝公示。査定と裁き。この三つは、半年前に私がロウフェルトへ据えた仕組みだった。誰にも隠していない。真似られて困るものではない――そのはずだった。
「それだけではないでしょう」
「ああ。ハーフェンだけじゃねえ。東の渡し場にも、南のセルグにも、同じ市が立った。三つ、いっぺんにだ」
***
私はその足で、ハーフェンへ向かった。
馬で半日。丘を越えると、川沿いに新しい市が見えた。
人が多い。荷車が列を作り、天幕が並び、呼び売りの声が上がっている。ロウフェルトの市とよく似ていた。似すぎている、と言ってもよかった。
私は顔を隠して、荷改めの列に混じった。
升があった。町の名を焼き印した、揃いの升だった。秤も同じく揃いで、錘には検めの印が打ってある。両替率は板に書かれ、朝の日付が入っていた。
悪くない。
いや、と私は思い直した。悪くないどころではない。
升の縁を指の腹で一度なぞる。摺り切りの当たりが素直だった。安く作れば、ここが歪む。歪んだ升は、量るたびに少しずつ町へ利を寄せる。この升は、そうなっていなかった。
作った人間は、升が何のためにあるかを知っている。
私は列に並んだまま、荷改めの手順を眺めた。改め役は荷を下ろさせ、麻袋の口を開き、中身を升で三度量って、その真ん中の数を帳面に書いていた。三度量って真ん中を取るのは、量り手の癖を消すためのやり方だ。一度きりでは、その日の手の重さがそのまま数になる。
両替台では、朝に貼った率のとおりに銀が数えられていた。台の男は銀貨を一枚ずつ指で弾き、音を確かめてから客へ渡している。混ぜ物の入った銀は、澄んだ音が鳴らない。
どれも、私がロウフェルトで据えたやり方だった。
「そこの方、初めてかね」
声をかけてきたのは、市の世話役らしい中年の男だった。
「ええ。噂を聞いて」
「いい市だよ。税は取らん。掛かりは、そこの帳場が持ってくれる」
「帳場が。……どなたの帳場です」
「トラスさ」男はこともなげに言った。「同盟の名で立ててる市だ。だから安い。後ろに銭があるからな」
私は礼を言って、その場を離れた。
***
帰り道、丘の上で馬を止めた。
真似だと、はじめは思った。看板だけの張りぼてなら、じきに商人が見抜いて離れる。仕組みを持たない市は、ひと月も保たない。
けれど、あの市には仕組みがあった。
升が正しい。秤が正しい。率が毎朝出ている。私が半年かけて据えたものが、そこには初めから揃っていた。
「……知っている人間が、作っている」
声に出してみて、背筋が冷えた。
真似というのは、外側をなぞることだ。あの市は違った。何のためにその決まりがあるのかを分かった上で、必要なものだけを選んで置いてある。分かっていなければ、升の摺り切りには金をかけない。あそこは真っ先に削る場所だ。
盟主オルブレヒト。
あの穏やかな紳士が、去り際に言った言葉を思い出した。あなたのその曲げない物差しを、私は必ず欲しくなる、と。
欲しくなる、と彼は言った。潰したい、ではなく。
支配したいだけの男が、なぜ、升の摺り切りにまで手を入れるのだろう。
***
ロウフェルトへ戻ると、ボルガーが待っていた。
「どうだった」
「よくできていました」私は正直に答えた。「張りぼてではありません。あれは、本物です」
「本物、か」
「仕組みとしては、です。ただ一つだけ、うちと違うものがあります」
「何だ」
「あの市の掛かりは、トラスが払っています。市が自分で立っていない。銭を出す者がいる限り続いて、出す者が止めれば、止まります」
ボルガーの眉が動いた。
「――止められるのだな。あちらの都合で」
「はい。安くしているのも、止めるのも、同じ人の手です」
私は窓の外を見た。
市の灯は今日も点いている。けれど帳面の南の欄は、また細っていた。商人たちは責められない。近くに同じ仕組みの、もっと安い市があるのなら、そちらへ行くのが道理だ。
本物と偽物の違いを、私はまだ、言葉にできずにいた。
仕組みは同じ。升も正しい。率も出ている。
では、何が違うのか。
それを言えなければ、この市は静かに空になる。
敵が「本物そっくりの、もっと安いもの」を並べてくる回でした。
張りぼてなら壊れます。けれど今回は、中身まで本物です。しかも、ただ一点――「誰の銭で立っているか」だけが違います。
そしてセレーナは、小さな違和感に気づきます。「支配したいだけの人間が、なぜ升の摺り切りにまで金をかけるのか」。
この違和感が、第2部の最後まで効いてきます。
次話、レーヴェが動きます。今度は市そのものではなく、商人一人ひとりに。




