第31話 静かな包囲
第2部「同盟と関所」、開幕です。
第1部で、セレーナは王都に勝ちました。けれど南の盟主オルブレヒトは、去り際にこう言い残しています。「次は、力ずくではない、別の手で来る」と。
その「別の手」が、どういうものだったのか。今回から始まります。
その報せが届いたのは、翌朝だった。
南の宿場が一つ、そっくり買い手を替えたという。買ったのは、トラスの名で動く商人だった。
「姐さん。ちょいと妙な話を拾ってきた」
リタが関所の帳場に顔を出したのは、朝の荷改めが一段落した頃だった。私は手を止めずに、次の荷札を引き寄せた。
「妙、というのは」
「セルグの宿場だ。街道の南、馬で二日のとこにある。あそこの宿と厩と、荷置き場までまとめて、持ち主が替わった。先月の話らしい」
「買ったのは」
「トラスの商人だとよ」
私は荷札を置いた。
宿場が売り買いされること自体は、珍しくない。主人が老いれば、身代を畳んで人に譲る。街道沿いではよくある話だった。
けれど、まとめて、というのが引っかかった。
「リタ。この十日で、南から来た荷は何組」
「さあ。三十……いや、もうちょい少ないか」
私は帳面を開いた。
自由市が立ってから、関所を通る荷は毎日ここへ書き留めている。何処から来て、何を積み、幾らの値がついたか。市の税がゼロである以上、この帳面が唯一の記録だった。
指で頁を繰る。十日前、四十二組。五日前、三十七組。昨日、三十三組。
「二割、減っています」
「二割?」リタが眉を寄せた。「そんなに減ってるようには見えねえぞ。市はいつもどおり賑わってる」
「西と東の荷が増えているからです。南だけが細っている」
私は数を書き出した。南から来る荷は、十日で四十二から二十六へ落ちていた。四割近い。市全体では、他の街道が補って二割の減にしか見えない。
だから誰も気づかなかった。
***
その日の午後、私は辺境伯ボルガーの館を訪ねた。
老辺境伯は地図を広げ、私の書き出した数を、しばらく黙って眺めていた。
「ハーフェンの関所が、通行料を下げたそうだ」
彼が言った。
「隣町の、ですか」
「先々月まで、荷の値の一割五分を取っていた。それを半分にした。……いや、正しくは、誰かが差額を肩代わりしている」
「誰かが」
「トラスの名を出さずにな。関所の帳面には、ただ『一割五分を取った』と書いてある。だが商人が実際に払っているのは、その半分だ」
私は地図に目を落とした。
ロウフェルトの南に、セルグの宿場。南西に、ハーフェンの関所。少し離れて、東の渡し場。
どれも、この半年のうちに主が替わるか、料率が動いていた。
印を置いていく。
三つの印は、南から西へ、ゆるやかな弧を描いていた。
「囲まれている、ということか」ボルガーが低く言った。
「攻められてはいません」
私は言った。それが、いちばん厄介なところだった。
「一人も斬られていない。一つも焼かれていない。関所を塞がれてもいない。ただ、周りの宿と関所が、少しずつ買われて、少しずつ安くなっている。それだけです」
「それだけ、で商人は流れるか」
「流れます。商人は、安いほうへ行きます。私たちが半年前にやったことと、同じです」
言いながら、指の腹で地図の縁を一度なぞった。
自分の作った理が、そのまま自分に返ってきていた。流れは低い方へ流れる。私はそう言って、盟主を退かせたのだ。
***
同じ頃。南の街道を、一台の馬車が北へ向かっていた。
交易監レーヴェは、窓の外を流れる麦畑を眺めていた。向かいの席には、買い上げた宿場の証文が束ねて置かれている。
「よろしいのですか」
従者が遠慮がちに訊いた。
「盟主は、あの町を欲しがっておられます。こんな回りくどいやり方で」
「潰せとは言われていませんよ」
レーヴェは穏やかに答えた。柔らかな声だった。
「私は何も奪っていません。売りたい人から、正当な値で買っただけです。関所の料を下げるのも、商人には親切な話でしょう。誰が困ります?」
「それは……」
「困る人がいるとすれば、それは、周りが安くなったせいで人の来なくなった町です。ですが、それは私のせいではない。商人が自分で選んだ結果です」
彼は証文の束を、指先で軽く揃えた。
「あの町の娘は、流れは低い方へ流れる、と言ったそうですね。ええ、そのとおりです。ですから――低いところを、こちらで作って差し上げるのですよ」
***
夜、私は関所の物見に立った。
市の灯は、いつもと変わらず賑わっていた。西から来た香辛料の荷が今日も入り、東の陶工が店を出している。誰も、何も、失っていない。
けれど帳面の数は落ち続けていた。
剣も、脅しも、火もなかった。ただ静かに、四方の低いところが、少しずつこちらへ近づいてきている。
気づいたときには、もう囲まれていた。
第2部の敵は、力ずくで来ません。
買う。安くする。それだけです。誰も傷つけず、誰も脅さない。だからこそ、止める理由が見つからない――というのが、今回の恐ろしさです。
セレーナが第1部で武器にした「流れは低い方へ流れる」という理が、そっくりそのまま向けられています。
次話、トラスは各地に「税のない市」を開き始めます。本物と、偽物の区別がつかなくなります。




