第30話 国の中心は、ここにある
オルブレヒトの来訪から、数日。
私は、すぐには、返事をしなかった。
トラス同盟は急かした。レーヴェが、毎日のように、宿から催促に来た。「盟主は、気の長い方では、ない」と。
だが私は、答えを、保留し続けた。その間に――やるべきことが、あった。
***
ある夜。
私は、辺境伯ボルガーと、リタと、そして、市の主だった商人たちを、集めた。
ミレーユも、両替台の一員として、その場にいた。
「皆さんにお話があります」
私は静かに切り出した。
「トラス同盟がこの市を、同盟に加えたいと言ってきています。同盟に入れば、市は今の何倍にも大きくなる。けれど――この市の物差しは、同盟のものになります。私たちの自由は失われます」
商人たちがざわついた。
「断れば、トラスは敵に回るのか?」
「相手は、トラス全土の盟主だ。逆らって大丈夫なのか?」
不安が広がる。
「だから皆さんに決めてほしいのです」
私は言った。
「この市は私一人のものでは、ありません。皆さんの生計が、かかっている。皆さんの市です。だから――同盟に入るか、独立を守るか。それは私が決めることでは、ありません。皆さんが決めることです」
市の人々は、互いに顔を見合わせた。
そして――一人の、年老いた商人が、進み出た。私が、最初に助けた、あの陶器の隊商頭だった。
「セレーナさん」
彼は言った。
「おれは独立を守りたい」
その声に迷いはなかった。
「半年前、おれはこの関所で立ち往生してた。誰もおれの荷をまともに見ちゃくれなかった。だがあんたが来て、おれの荷を、正しく見てくれた。『あなたを頼りたい』――おれはそう言った。そしたら、本当にこんな市ができた」
彼の目が潤んでいた。
「トラス同盟に入りゃ、儲けは、増えるかもしれねえ。でもおれは儲けが欲しくて、この市に来たんじゃねえ。安心して、商いができる、場所が欲しかったんだ。誰が相手でも同じ物差しで見てもらえる場所が。――それを手放したくねえ」
「おれも独立だ」
「おれもだ」
「同盟の道具になるくらいなら、小さくても自分たちの市を守る」
声が次々と上がった。
誰も――同盟入りを、望まなかった。
私は、その声を、静かに聞いていた。
胸の奥が、温かく震えていた。
これが――私の、作りたかったものだ。私がいなくなっても、回り続ける流れ。人々が、自分の意志で、守ろうとする、市。
もうこの市は、私一人のものではない。
町のみんなのものに、なっていた。
***
翌日。
私は、オルブレヒトに、返事をした。
「盟主オルブレヒト様。お申し出はありがたく。ですが――この市は、同盟には入りません」
オルブレヒトの、穏やかな笑みが、初めて、消えた。
「……断るというのか。私の申し出を」
「はい」
「セレーナ殿。あなたは自分が何を、断っているのか、分かっているのかね。私はトラス全土の盟主だ。私の機嫌を損ねれば――この、小さな市など」
「存じております」
私は、静かに彼を見返した。
「ですが盟主様。一つだけ申し上げます。あなたはこの市を力で、潰すことはできるかもしれません。けれど――この市が、なぜ、栄えたのか。その『理由』までは潰せません」
「理由だと」
「重い縛りを嫌う商人は、必ず、自由な市を求めます。あなたがこの市を潰しても、また別の場所に、第二の第三のロウフェルトが生まれます。流れは低い方へ流れる。それは誰にも止められない。――私が消えても、この理だけは消えません」
オルブレヒトは、長いこと私を見つめていた。
それから――ふっと笑った。今度は、作り物でない、本物の笑みだった。
「……面白い。実に面白い」
彼は馬車に乗り込んだ。
「いいだろうセレーナ殿。今日のところは引こう。だが――これで終わりだとは思わないことだ。私は欲しいものは必ず、手に入れる。次は力ずくではない、別の手で来る。あなたのその『曲げない物差し』を、私は必ず、欲しくなる」
隊列が南へ去っていった。
最初の卓は引き分けだった。だが本当の戦いは――これから、始まる。
***
その夜。
私は、関所の物見から、ロウフェルトの灯を、見下ろしていた。
半年前死にかけていた町。今は、王国南部で最も賑わう、自由の市。
隣にボルガーが来た。
「お嬢さん。あんたは王都を相手に勝ち、フェルマー商会を退場させ、王都の刺客を退け、ついにはトラスの盟主すら、引かせた。剣も魔法も使わずに。手形と数字と――曲げない物差し、だけで」
彼は町を見渡した。
「王都の連中は玉座が、国の中心だと思っている。だが違うな。国の中心は――人と物が集まる、場所だ。今それはここにある」
私は静かに頷いた。
「玉座ではなく。剣でもなく。人と物が集まる場所が、国の中心になる。――私はただ正しい流れを、作りたかっただけです。その流れがたまたま、ここに中心を生んだ。それだけのことです」
「謙遜だな」ボルガーが、笑った。「あんたは本物の為政者だ」
私は答えなかった。
ただ指の腹で、物見の手すりの縁を、一度だけ、なぞった。
月が町を照らしていた。
南の空の下、トラス同盟の影は、まだ消えていない。ヴィントの予言した「本当の戦い」は、これから始まる。
けれど――今夜だけは。
半年かけて作り上げた、この町の灯を。私を「道具」と呼ばない、この町の人々を。
静かに見守っていたかった。
「数字は、嘘をつきません」
私は月に呟いた。
「正しい流れを作れば、人は必ず、集まる。次にどんな大きな相手が来ても――それだけは、変わりません」
税のいらない街は、今夜も、賑わっていた。
追放された、地味な令嬢が、辺境に作り上げた――王国で、最も、自由な市が。
物見を下りようとしたとき、南の街道の先に、松明が一つ見えた。
早馬だった。この時刻に街道を駆けてくるのは、急ぎの報せを持つ者しかいない。
私はもう一度、南の空を見た。
その報せを読むのは、翌朝のことになる。
第1部「辺境に市が立つ」、完結です。
婚約破棄され、「地味でつまらない」と捨てられた令嬢が、辺境の死にかけの町で、半年あまり。剣も魔法も使わず、手形と、数字と、曲げない物差しだけで、王国の新しい中心を作り上げました。
王都への、ざまぁ。フェルマー商会の自滅。狡猾な刺客との、信用戦。そのすべてを、彼女は「より良い流れを作る」ことだけで、乗り越えました。誰も踏みにじらず、敵すら味方に変えて。だからこそ、この市は、壊れません。
そして、最後に立ちはだかった、南の盟主オルブレヒト。第2部「同盟と関所」では、この、最も大きな相手との、本当の戦いが、始まります。「曲げない物差し」は、力で奪おうとする相手に、通用するのか――。
ここまで、長い物語に、お付き合いくださって、本当に、ありがとうございました。
第2部も、書いてまいります。続きを、楽しみにお待ちいただけると、嬉しいです。
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それでは、また、第2部で。




