第2話 王太子は、何も失っていないと思っていた
婚約破棄から三日が過ぎても、王城は何事もなかったかのように動いていた。
少なくとも、表向きは。
王太子アルベリクは自室で紅茶を傾けながら、窓の外の王都を眺めていた。石畳の大通りには馬車が行き交い、市場のざわめきが遠く届く。穏やかな昼だ。
「まったく……ようやく肩の荷が下りた」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
あの女――セレーナ・ヴァロワは、あまりに地味だった。表情の動きが乏しく、何を考えているのか分からない。隣に立つ華がなかった。
それに比べて、ミレーユはどうだ。
明るい声。人を惹きつける笑み。フェルマー大商会という後ろ盾。あれこそが、王太子妃にふさわしい。
「商いのことは、フェルマーに任せておけばいい。あの家は王国一の商会だ」
そう、問題は何もない。
――そう思っていた。
扉がノックされる。
「失礼いたします、殿下」
入ってきたのは、宰相セルウィンだった。白髪まじりの男は、いつも通り落ち着いた様子を装っているが、眉間にわずかな皺がある。
「何だ」
「通商評議会から、少々……ご報告が」
歯切れの悪い言い方に、アルベリクは顔をしかめた。
「簡潔に言え」
「南街道の関所で、商隊の足止めが起きております。手形の発行が、滞っているのです」
一瞬、意味が分からなかった。
「……手形?」
「通行手形でございます。商隊が関所を抜けるための信用状。あれの査定と発行が、止まっております」
「そんなものは、誰かが署名すればいいだろう」
「それが――」
宰相は言葉を切り、慎重に続けた。
「署名なら、誰でもできます。ですが、荷の値を見定め、適正な通行料を算定する者がおりません。間違った料率で発行すれば、関所で揉める。商人は、料率の狂った手形を信用しないのです」
「フェルマーに任せたはずだ」
「フェルマー商会は、自家の荷については査定できます。ですが、他家の商隊や、地方の小商人の手形までは……手が回らぬようで」
アルベリクは鼻で笑った。
「すぐに慣れる。事務仕事だろう」
「左様であればよいのですが」
宰相の声は、低かった。
「もう一つ。関税の試算が、合わなくなっております」
「合わない?」
「はい。先月までの帳尻は、ぴたりと合っておりました。ですが今月分は、誰が計算しても数字が揃わない。どこかに、見えていなかった調整があったようなのです」
「調整?」
「……あの方が、人知れずやっておられたのかもしれません」
部屋に、わずかな沈黙が落ちた。
アルベリクはカップを置き、椅子の背にもたれかかる。
「セレーナがいなくなった程度で、混乱しているだけだろう。すぐに落ち着く」
そう言い切った瞬間、自分の言葉に小さな違和感を覚えた。
――混乱?
なぜ、あの地味な女がいなくなった程度で。
その疑問を打ち消すように、彼は話題を変えた。
「ミレーユはどうしている」
「フェルマー商会で、査定の引き継ぎに当たっておられるとか。……ただ」
「ただ、何だ」
「先ほど、商会から早馬が。『前任の残した書類が、読み解けない』と」
「読み解けない? 数字が並んでいるだけだろう」
宰相は答えなかった。代わりに、深く頭を下げた。
「私の取り越し苦労であればよいのです。失礼いたします」
扉が閉まる。
アルベリクは紅茶に口をつけた。とうに冷めていた。
窓の外では、相変わらず市場がざわめいている。けれどその音が、ほんのわずかに――いつもより細っているような気がした。
気のせいだ、と彼は思った。
気のせいに決まっている。
「事務仕事だろう」――この一言が、後にどれだけ重くのしかかるか。
次話、舞台はいよいよ辺境ロウフェルトへ。セレーナの本領が、初めて発揮されます。
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